次の瞬間、私の乾いた唇に、驚くほど柔らかく、そして温かい感触がぴたりと重なった。
史耶から清らかな酸素が、私の口内へと直接、 躊躇いなく送り込まれてくる。
優しく、けれど激しく注ぎ込まれるその清涼な大気を、私は朦朧とする意識の中で必死に貪るように吸い込んだ。
肺が瑞々しい潤いで満たされ、激痛に苦しんでいた脳の霧が、みるみるうちに晴れていく。
ゆっくりと覚醒していく思考の中、至近距離にある史耶を感じ取る。
彼のどこか悲痛なまでに必死な感情がまっすぐ私に注がれる。
温かい唇からは、尽きることのない、命の灯火を繋ぎ止めるための、優しく清らかな息が途切れることなく送り続けられていた。
そして───その熱い思いと同時に。 何かビリビリと痛みを伴う映像が、流れ込む。
その場に戻ったはずの思考が飲まれていく───。
心の奥底がざわりと波立った。
凍てつく冷たい水面に重い石を投げ込まれたかのように、どす黒い不安と底知れない恐怖が、波紋となって幾重にも、幾重にも広がっていく。
辺りは息が詰まるほどの完全な闇。
どこまでも、どこまでも果てしなく続く漆黒の闇の中で、不意に一つの顔が浮かび上がる。
それを見つめているのは確かに自分でありながら、知らない風景。
その風景は闇に揺らぎながら不快な信号を発しているようだった。
他人の忌まわしい記憶を強制的に追体験させられているのだと、どこかで感じ取る。
現れた顔には、見覚えがある。
でもそれは自分じゃない、記憶の持ち主の知っている顔。
その顔は…、友人の顔。
昨日まで肩を並べ、他愛のない言葉を交わしては腹を抱えて笑い合ったはずの、信じていた相手だった。
だが視線は、自分の顔からゆっくりと肩口へと移り、その瞳はみるみるうちに剥き出しの嫌悪と拒絶の色に染まっていく。
「なんだよそれ……気色悪い」
吐き捨てるような、冷徹な声が鼓膜を刺した。
その言葉が、自分の肩や首筋にじわりと浮かび上がった、青緑色の不気味な鱗へ向けられたものだということを、私は嫌というほど瞬時に理解させられる。
「お前、化け物かよ。怖えんだよ」
冗談めかそうとする歪んだ口調の奥には、隠しきれない本物の恐怖と、明確な拒絶が混じっていた。
胸の奥が、氷を押し当てられたように急速に冷たくなっていく。
すると、拒絶の視線を向けてきたのは、その友人だけではなかった。
周囲の深い闇の中から、ぼうっと次々に人の顔が浮かびあがってくる。
見知った顔もあれば、一度も見たことのない見知らぬ者の顔もある。
だがその全員が、一様にこちらを凝視していた。
人間ではない、何かひどく悍ましい異物を見るような、冷酷な目で。
「異形」
「トカゲ」
「妖怪」
「気味が悪い」
鋭い刃のような悪意を帯びた言葉が、容赦なく四方八方から容赦なく降り注ぐ。
胸が引き裂かれるように締め付けられ、喉が激しく拒絶反応を起こして息が苦しくなる。
それでも張り裂けんばかりの声を絞り出し、必死に叫んだ。
「違う!」
その声は情けないほどに震えていた。
「俺は、そんなものじゃない……人間だ、人なんだ!」
必死の叫びは、虚しくも冷たい闇に吸い込まれて消えるだけで、誰一人としてその言葉を耳に入れようとする者はなかった。
その瞬間、世界がぐにゃりと激しく揺らぐ。
世界そのものが崩壊し、歪んだかのように視界がドロドロと溶け去り、次の残酷な光景へと変貌していく。
目の前にぽつりと立っていたのは、一人の女性だった。
誰よりも愛し、愛してくれたはずの母だった。
「史耶、あなたは病気なの」
母は、いつものように優しい声で語りかける。
幼い頃からずっと聞き慣れてきた、心を落ち着かせてくれるはずの温かな声音。
だが、その慈愛に満ちた表情の奥には、決して隠し切ることのできない、実の息子に対する戸惑いと、生理的な嫌悪が確かに滲んでいた。
「だから、きちんと病院に行って治療をしましょうね」
病気───。
その無慈悲な二文字が、頭の中で幾度も不気味に反響する。
病気なのか?
この身体に刻まれた鱗が?
自分のこの異常な身体そのものが?
自分は、ただの哀れな病人だというのか?
疑問と葛藤が脳内で激しく渦を巻く中、景色は再び無情に変貌した。
ツンと鼻を突く、特有の鋭い消毒液の匂い。
どこまでも白い壁。
均一で無機質な天井。
そこは、隔離された病室だった。
目の前には、冷徹な白衣を纏った医師が直立している。
その男は、腕に浮かび上がった瑞々しい青の鱗を凝視し、まるで極上の玩具でも見つけたかのように、感心した様子で細い目をさらに細めた。
「これはこれは……」
驚嘆の声が漏れる。
しかし、そこには患者を思いやる医師としての倫理や慈悲など微塵も存在しなかった。
未知の珍しい標本を目の前にした、研究者のギラギラとした、いやらしい好奇心だけがそこには濁って存在していた。
「見事なものだね」
男は薄い口元を歪に歪める。
「君は何か、特別な祟りにでもあったのかな」
それは到底、病を治すための医療従事者の言葉とは思えなかった。
病を患う人間を救おうとする目ではなく、不気味な異物をただ観察し、分析しようとする冷徹な科学者の目だった。
意思に反して、鱗に生々しく触れられる。
ねっとりと、何度も皮膚を撫命回される。
まるで、どこかで捕獲してきた珍しい、言葉の通じない動物でも扱うかのように。
胃の底からドロリとした嫌悪感が激しく込み上げる。
やめろ、触るな。
俺は人間だ、お前たちと同じ人間なんだ。
心の中で、擦り切れるほど何度も何度も叫び続けた。
しかし、呪縛されたように声は一切形にならない。
「皮膚の組織じゃないね、これ……実に興味深い」
男は他人の尊厳を踏みにじるように、面白そうに小さく呟いた。
そこに私の意思など最初から存在しないかのように。私に人間としての人格など、最初からこれっぽっちも認めていないかのように。
そして最後に、私の心を完全に叩き潰す、決定的な言葉を投げつけた。
「キミ───本当に人間なのかい?」
その瞬間だった。
心の最奥で、決定的な何かがガラガラと音を立てて崩れ落ちていくのが分かった。
最も身近な友人から、激しく拒絶された。
血の繋がった母から、お前は異常な病気だと言い聞かされた。
そして、人間の身体の構造を知り尽くしているはずの医師からさえ、人間ではないと決定的な疑念を突きつけられた。
その残酷な事実が鋭利な刃となって、心臓の真ん中に深く突き刺さる。
自分は、本当に人間ではないのだろうか───。
自分はいったい、何者なのだろうか───。
最も身近な友人から化け物と拒絶され、実の母からは異常な病気だと言い聞かされ、医療の専門家である医師にさえ人間ではないと疑われた。
その容赦のない拒絶の連鎖は、鋭利な刃となって心臓の真ん中に深く突き刺さっていた。
己の存在そのものを根底から否定されたような、底なしの絶望が、心を完全に覆い尽くす。
自分はいったい、何者なのだろうか───。
暗い部屋の片隅で、膝を抱えながら何度その問いを繰り返しただろう。
それこそが、暗闇に取り残された自分が、喉から手が出るほど一番知りたい疑問の答えだった。
もし、この身体に浮かび上がる青緑色の鱗が、自分が普通の人間ではない証拠だというのなら。
人間でないのなら、自分はいったいなんなのだろう。
その痛切な疑問の答えは、ある日、唐突に訪れた。
これまでずっと、外の世界を拒絶するように固く閉ざされていた部屋のドアが、静かに開け放たれる。
差し込んできた一条の光とともに、全く見知らぬ一人の人物が自分の領域へと迷いなく入ってきた。
冷たい部屋の隅で、世界のすべてから怯え、傷つくのを恐れて身を隠すように縮こまっている。
そんな哀れな自分を見下ろし、その人物は何も言わずに、ただそっと温かな手を差し伸べてくれた。
他人の悪意に怯え、すべての人間から逃げ出そうとしていたはずだった。
それなのに、その見知らぬ人物の手を引き寄せられるように、ごく自然と強く握りしめていた。