【-3-】
私の意識はそこから解き放たれ、別の闇の中で覚醒した。
そこは静かな風の音と、虫の音が聞こえる。
不快さのない、平穏な闇。
いつの間にか大樹の結界は解かれ、外の空気に晒されている。
優しげな風が肌を撫でて過ぎていった。
うっすら開いた視界に大きな影と、その先に藍色の空。
星屑が散らばり大きな月が浮かんでいる。
戦いの騒々しさは一切ない。
とても静かだった───。
ゆっくり思考が降りてくる。
と同時に感じる、私の唇を塞いでいる柔らかい感触。
それが人の唇の感触なのだと理解するのと同時に、反射的に相手を勢いよく突き飛ばした。
「な、な、な、な、な、」
言葉を発しようとしても、あまりの驚きに言葉にならない。
突き飛ばした相手は、顔をあげて私を見る。
史耶だった。
「何してんのーーーーっ!?」
「何って…」
史耶は最初何事かという顔をしていたが、ハッと表情を変える。
「……ち、違う!キスじゃないぞ!そうだ、あれだ!人工呼吸だ!お前が窒息しそうだったから!」
史耶は私の勘違いに気づいて、慌てふためいている。
「人工呼吸ったって、あれじゃあ……」
キスしたも同然じゃない?!
私は地面に突っ伏して嘆いた。
初めてのキスがこんなのって、ありえないよーーー!
「オッホン」
頭上で咳ばらいがして、顔を上げると史耶が気まずそうに首筋を撫でながら言う。
「悪かったよ……」
眉間に皺をよせて困った表情をしている。
その顔は紅潮し、耳までも真っ赤に染め上げていた。
ふいに意識の中で流れた記憶を思い出して、それが目の前の史耶のものだと気づく。
「史耶、さっき史耶の過去を見ちゃったかも……しれない」
武さんが過去を覗かれて激怒したのと同じように、史耶も怒ってしまうのかもしれない、と、不安になった。
「ああ、……そうか」
史耶は戸惑うように応える。
そして大きくため息をついた。
彼の背負ってきた過去は私が想像するよりひどく悲しい感情に染められていた。
化け物のように扱われ、ひどい仕打ちを受けた過去。
身を挺して私を守ってくれた背中。
そんな史耶を見上げた。
私に過去を見られたことで、私と少し距離を置こうとしているように感じた。
「史耶は、『人』だよ」
史耶は一瞬驚いた表情を浮かべて、それから目を細めて視線を逸らした。
「その『人』って生き物が、俺は怖い」
自分の存在を否定し続けられたから。
周囲の人間は自分をぞんざいに扱い、疎外しようとした。
彼がここへ来ることを、親は嬉々として許したのだ。
我が子に異形の部分を発見して、それを恐れて。
そんな彼から滲み出る感情は、『怯え』だった。
凛とした彼には似つかわしい、不安定さはそこからきている。
戦闘が開始されるときの力強さとは違い、普段の彼には弱さが色濃く感じ取られた。
『人』であろうとするのに、『人』という生き物の感情におびえ続けている。
特別な力を持たない『四獣』とは違う私も、彼の中では『人』の部類に属しているのかもしれない。
だからどことなく余所余所しかったり、悲しい表情を向けたりする。
「それでも私は、史耶を『人』だと思っているから」
私は以前とは違い、まっすぐに彼の目を見て訴えた。
史耶の戸惑いがヒシヒシと伝わり、もしかすると私のことも拒否しているのだろうかと思うと、少し悲しく思った。
彼が守ろうとしているのは、やはり『巫女』であって、私ではない。
史耶だけじゃない。
伊織さんも、武さんも、当麻も、命をかけて守ろうとしているのは、私自身ではない。
私の中に宿る『巫女』の部分なのだ。
そんなのわかっている。
わかっているはずなのに。
私はみんなの仲間に入れた気分でいるけど、それは違うのかもしれない。
宿命という名の義務で私を守っているだけ。
今は特別なものを持ち合わせていないはずの私を守らなければならないなんて、本当は嫌なのかもしれない。
私が本当にみんなの守るべき『巫女』なのか、私にはそれもわからない。
おばあちゃんも、僧も、みんなも、私を巫女だというけれど、そんなの本当にそうなのか疑ってしまう。
なぜ私が守られなければいけないのか、守りきった先に私が何をしなければいけないのか。
わからない。
わからない。
わからないことばかりだ。
いろいろなことが頭をめぐり、それと一緒に怒涛のように感情が溢れだして涙が零れた。
一つ考えだすと一挙に不安を呼び起こして、深みにはまっていく。
自分がこんなにもネガティブな思考の持ち主だったとは知らなかった。
もう考えだしたら、止めることなんてできなくなり、感情の赴くままに涙を流す。
それに気づいた史耶が私の前に跪き、慌てた様子で言う。
「悪い。お前に言うことじゃないよな。謝るから泣くな」
きっと史耶は、さっき自分が零した弱音に対して私が泣いているのだと思っているらしい。
私は涙声で「違う、そんなんじゃない」と返した。
「あ、さっきの、あ、あれは、その、悪かった。本当に俺が悪かったよ」
今度はもっと慌てた様子でしどろもどろに言葉を吐く。
どうやら、さっきの『人工呼吸』のことを言っているらしく、それを思い出した私はそのことも嘆く結果となった。
もうなにが原因で泣いているのかもわからなくなって、思考は麻痺している。
突然戦いがはじまって、ずっと張り詰めていた緊張が不意に解かれたいまこんなにも情緒不安定になっているのかもしれない。
悲しくて泣いてるのか、悔しくて泣いてるのか。
私はひたすらしゃくりあげ、史耶は困った顔で私を見つめた。
「なあ、頼むから泣かないでくれ……」
少し悲しい声音で呟く。
そして私を抱き寄せ、自分の胸に収めた。
「あんたが泣いたら、俺はどうしていいかわかんねえよ……」
見えない場所で、史耶は切なく顔を歪めた。
私は史耶の胸で、史耶の鼓動に耳を傾ける。
こんなことは何度目だろう。
史耶のぬくもりと心臓の音が、私の心を鎮めていく。
そこになんとも言えない懐かしい感情が去来して心を鷲掴みにした。
知らないだれかが私を抱きしめてくれる風景。
すごく不鮮明で朧げな心象。
これは一体誰だろう。
懐かしくて愛おしい、誰か。
思い出したくて、記憶の糸を手繰り寄せようとした、その時。
「おい、史耶、てめー何やってんだよ」
と当麻の声がした。
顔を上げると、木立に立つ三人の姿。
その姿はボロボロで、今しがた激しい戦闘があったことを思わせる。
私は立ち上がり、三人の元へ駆け寄る。
「みんな、無事だったの」
「そうですね」
伊織さんが、解けた髪を結び直しながら言う。
みんなの無事な姿にホッと肩を撫でおろしていると、当麻が怒りの表情で叫んだ。
「人が必死に戦っている最中に、お前たちは何いちゃついてんだよ!」
「な?!いちゃついてなんてない!見えてないくせに、何言ってんのよ!」
赤い顔で反論すると、すぐに当麻は返す。
「バカ!見えなくても、お前たちの気配でわかんだよ!」
私は返す言葉がなく、どう説明していいか頭を抱えていた。
「抱きあってましたからね、きちんと経緯を説明してもらわないと」
伊織さんが爽やかな笑顔で言う。
「何?!抱き合ってたのか?!」
当麻は伊織さんを見て、今度はこちらに視線を向けた。
伊織さん、当麻には見えてないんだから余計なこと言わないでください……。
私はますます顔を赤らめながら、当麻と視線を合わさないように逸らす。
「おや、鈴さん、どうかされたんですか?顔が赤いですよ。まさか史耶くんに何かされたんのでは?」
「何?!何かされたのか?!」
当麻は伊織さんの一言一言に過剰に反応して、それを見て伊織さんは口元を押さえて笑っている。
きっと、伊織さんはこの状況を楽しんでいるのだろう。
みんなはボロボロで、本当は立っているのもやっとの状態のはずなのに、夕飯の時みたいにからかい合って笑い合っていた。
平和だった───。
もしかしたらこんな平穏な時間をわざと与えて、そこから一気に不幸へと叩き落とすんじゃないか、と、不安にかられる。
笑顔が消え、強ばった顔のまま月を見上げる。
だけど……今思うことは。
神様、みんなを無事に戻してくれてありがとう───。
静まり返った林を歩く。
もう禍々しい気配は消えていて、ただ木々が風に優しく揺れているだけだった。
ついさっき戦いがあったとは思えないほどの静寂で、それでも私の周りを歩くみんなは傷ついていて、無理をして平気そうにしている。
屋敷につくと、おばあちゃんと恵子さんが玄関に立っていた。
恵子さんはみんなの姿に顔を青白くする。
「すぐに宝玉の間へ」
と、おばあちゃんは静かに言って奥へ消えていく。
「みんな大丈夫?まあ、当麻くん、ひどい怪我……」
恵子さんはみんなにかけより、当麻の顔の傷を見て眉をひそめる。
「俺は大丈夫だよ。俺より武の方が重傷だ」
当麻の言うとおり、武さんは以前の傷もあり、今回新たな傷から血が流れていた。
明るい場所でみると、その怪我のひどさに目眩がする。
こんなに傷ついても、逃げもせず戦い続けていたのか。
私は唇を噛んだ。
こんな思いをしてまで、私は守られる価値があるというのだろうか。
私の価値って一体……。
「鈴さん」
伊織さんが私の肩をトンッと叩き、優しく笑みをこぼす。
「参りましょう」
促されるまま宝玉の間に足を向ける。
武さんは青白い顔で、史耶に肩を借りて歩いていた。
私が治療の気を送ろうとすると、武さんは私を一瞥して「大丈夫だ」とそれを拒んだ。