「まず、鈴さん。『四獣(しじゅう)』という言葉を耳にしたことはありますか?」
伊織さんの端正な顔を見つめながら、私は小さく首を横に振った。
「青龍(せいりゅう)、白虎(びゃっこ)、朱雀(すざく)、玄武(げんぶ)」
伊織さんの背後から、史耶が低い声でその名を列挙した。
「そう。それらを総称して『四獣』、あるいは『四神』と呼びます。ファンタジーの小説やゲームなどで、名前くらいは聞いたことがあるかもしれませんが」
確かに、名前だけならどこかで聞いた記憶がある。
「あの、その…しじゅう?がなにか?」
私が問いかけると、伊織さんは口元をきゅっと上げて微笑んだ。
「それらは────この宝玉と巫女を守るために存在する、『神獣』なのです」
「はぁ……」
どれだけ丁寧に説明されても、私の頭の中の常識という名のフィルターが、それを「おとぎ話」として処理してしまう。
「この宝玉には、現世に渦巻く人間の『陰』の感情を浄化する力があります。ですが、今やその許容量を超え、力が失われつつあるのです」
「陰、…ですか」
「分かりやすく言えば、人間の『悪い心』や『悪意』のことです。鈴さん、最近世の中が妙に物騒になったと、ニュースを見て感じたことはありませんか?」
人が人を簡単に傷つけ、命を奪う。快楽殺人、不可解な大量殺戮。
伊織さんが並べ立てる「陰」の具体例は、ここ数年で急激に増えた気がする現代社会の闇そのものだった。
「それは、浄化しきれなくなった『陰』の気が現世に漏れ出し、人々の心に宿って、その人を『邪な者』へと変質させているからなのです」
なんとなく、伊織さんの言いたいロジックは理解できた。
だけど。
「それが、本当にこの『古い玉』一つに左右されてるっていうんですか?」
あまりにも壮大で、あまりにも現実味のない話に、私は有耶無耶なトーンで問い返した。
「そうですよ。宝玉こそが、世界のバランスを保つフィルターなのです」
そのアニメの台詞のような説明に、私の伊織さんに対する「理知的で素敵なお兄さん」というイメージがガラガラと崩れそうになる。
私は宇宙人の存在ならまだしも、お化けや超能力といった非科学的なオカルトは一切信じない現実主義者なのだ。
(最初に伊織さんに出会った時は、盛大にお化け扱いしちゃったけど……)
「じゃあ、仮にその設定が本当だとして……なんで今になって急に、その宝玉の力が弱まってるんですか?」
私の鋭い突っ込みに、伊織さんは間髪入れずに答えた。
「この世の『邪』の全てを統べる、大いなる『妖(あやかし)』の存在が、永き眠りから目覚め、復活しつつあるからです」
またしても飛び出した突拍子もない単語に、私の表情は完全に凍りついた。
(こんな馬鹿げた話、誰が信じるっていうのよ……!)
そう思って周囲を見渡したが、当麻も史耶も武さんも、全員が異様なほど真面目な表情でその話を聞いていた。
疑う素振りも、驚く様子も微塵もない。
それが世界の絶対的な真実であると、初めから知っていたかのように。
「そしてその妖は、己の完全復活の障害となるこの宝玉と────それを扱える唯一の存在である『巫女』の命を狙っているのです」
巫女。
おばあちゃんが私に告げた、その役割。
つまり、狙われているのは他でもない、この私ということになる。
「だから私たちは、命に代えても、この宝玉とあなたを死守しなければならないのです」
少しだけ切なげに眉を下げて、伊織さんが言った。
「もしもそれが真実だとして……なんで、そこまでするんですか?」
思わず、疑問が口をついて出た。
さっき伊織さんは────命に代えても、と言ったからだ。
すると伊織さんは、まっすぐに私の目を見据えて告げたのだ。
「私たちが────その『四獣』の魂を引き継ぐ者だからです」
私の身体は、今度こそ完全に硬直した。
思考が停止し、彼の言葉を脳が必死に拒絶する。
(この人たち、もしかして私を怪しい新興宗教に勧誘しようとしてるんじゃ……!?)
急に恐怖が込み上げてくる。
下手に強く拒絶して刺激したら何をされるか分からない。
私は引き攣った愛想笑いを浮かべ、その場をやり過ごそうとした。
「伊織、無駄だぜ。こいつ、ハナから一ミリも信じちゃいねえよ」
当麻が呆れたように鼻で笑った。
当たり前でしょ! 誰がこんな現代社会で神獣だの何だのを信じるっていうのよ。
「けっ、俺だってこんなペチャパイを守るなんて御免だね。だいたい、本当に本物の巫女なのかよ。何かの間違いじゃねーの?」
「……っ、ペチャパイって言うな!」
またしてもデリケートな部分を抉られ、当麻を思い切り睨みつけようとした、その時。
静寂を破るように、武くんが静かに口を開いた。
「いや。彼女は間違いなく、本物の巫女だ」
その確信に満ちた低い声に、私は息を呑む。
「彼女は先ほど、俺の『気』に完全に同調(シンクロ)してきた」
(この綺麗なお人形さんまで、わけのわからない妄言を……)
私が内心で大きなため息をついた、その瞬間だった。
武さんのガラス細工のような透明な視線が、まっすぐに私を捉えた。
────ドクン。
夕暮れの竹林で味わった、あの奇妙な感覚が再び私を襲う。
鼓膜のすぐ裏側で、ドクドクと力強い心音が響き始める。
それが自分の心臓ではなく、目の前にいる武さんのものであることが、理屈抜きで脳に伝わってきた。
私の鼓動が、彼の静かな心音と完全に同じテンポで脈打ち始める。
武さんは無表情のまま、片手をまっすぐ前に差し出した。
その白い手のひらの上には、小さく切り抜かれた一枚の白い紙。
それは、彼が指一本触れていないにもかかわらず、まるで生き物のようにゆっくりと「くの字」に折れ曲がり、起き上がった。
そして────手のひらを離れ、宙に浮いたのだ。
紙片は重力を無視して空中を立ち上がり、まるで目に見えない妖精が舞い踊るかのように、くるくると華麗に輪を描いて踊り始めた。
「な……っ!?」
どんなトリックなのか、私の知識では全く説明がつかない。
上から吊るしている糸も見当たらないし、周囲に風が吹いているわけでもない。
(嘘だ、こんな事ありえない!)
恐怖が心を埋める。
否定したいのに、目の前で起こっている現象が私の知る現実の理(ことわり)を否定しているようで、怖い。
(やめて、やめて!!)
ザワつく心が悲鳴をあげる。
その時、武さんが宙で踊る紙片に向けて、ふっと小さく息を吹きかけた。
刹那、紙片は爆発したかのように一瞬で細かく細かく引き裂かれ、まるで白い雪の結晶のように、床の上へとひらひらと舞い落ちていった。
「今のは、彼女の命令だ」
武さんは冷徹な瞳で私の顔を見つめたまま、淡々と告げた。
「彼女がやめろと命令をくだした。だから終わらせた」
それだけ付け足すと、彼は興味を失ったように視線を逸らした。
あまりにも目の前で起きた超常現象の生々しさ、そしてたった今自分の中でザワついた心をまるで聞いたかのように言った武さん。
私が言葉を失っていると、伊織さんが優しく解説を加える。
「彼は『白虎(びゃっこ)』の魂を持つ者」
私は弾かれたように伊織さんを見た。
彼は微笑みを崩さないまま、他の二人を指し示す。
「私は『玄武(げんぶ)』。当麻くんは『朱雀(すざく)』、史耶くんは『青龍(せいりゅう)』。私たちはそれぞれ、神獣の力をその身に宿しています。そして、その宿命に従い、あなたをあらゆる災厄からお守りする契約を結んでいるのです」
未だに現実を受け止めきれず、自分の指先を何度も組み替えてもじもじとするしかなかった。
「まだ疑ってんのかよ、お前はよぉ」
当麻が心底もどかしそうに舌打ちをする。
「お前の知ってるちっぽけな現実だけが、この世の全てだと思うなよ」
当麻が私の目の前に人差し指を突き出した、その瞬間。
パッと、何もない彼の指先に、真っ赤な炎が灯った。
ライターもマッチも使っていない。
彼の皮膚から直接、生きた炎が噴き出しているのだ。
当麻はその炎を熱がる様子もなく、指先で弄んでいる。
「これでも信じねえって言うなら、お前のその生意気な口、俺の炎で焼き焦くしてやろうか?」
ニヤリと悪戯っぽい、けれど少し残酷な笑みを浮かべて、彼は恐ろしい脅し文句を口にした。
それが本気なのか冗談なのか判断がつかなかったけれど、立て続けに起きた非科学的な現象の応酬に、私のキャパシティは完全に限界を迎えていた。
私は恐怖のあまり、ぶんぶんと激しく首を横に振って降伏の意を示した。
「よし。じゃあ、あとは伊織にじっくり説明してもらいな。俺はもう眠いから帰るわ」
当麻は立ち上がると、猫のように大きなあくびをして、そのまま部屋を出ていった。
嵐のような少年を見送り、ふと視線を戻すと、史耶と目が合った。
史耶はフッと息を吐き出して苦笑いを作ると、私の気持ちに寄り添うように語りかけてくれた。
「あいつ、口は悪いけど悪気はねえんだわ。まぁ、あんたがこんな話信じられないってのも、俺にはよく分かるよ」
彼はそれから何かを続けようとしたけれど、上手い言葉が見つからないのか、視線を天井に泳がせてしばらく考え込んでいた。
やがて、小さくため息をつきながら笑う。
「……俺だって、最初は絶対に信じなかったからな。自分にそんな化け物みたいな能力があるなんて。こんなヤバい宿命に巻き込まれるなんてさ」
そう語る彼の横顔は、一瞬だけ、胸が痛くなるほど悲しげに曇った。
「能力……?」
史耶は小さく頷く。
「さっき当麻が見せたような力さ。俺はまだ能力を制御しきれねえからここで使うと家の壁に大穴開けちまうかもしれねえから見せてやれないけどな」
彼は悪戯っぽく口の端を上げると、私の元へ歩み寄り、緊張をほぐすようにポンポンと私の肩を叩いた。
「だからさ、あんたも突然のことで頭がパニックになってるだろうけど……少しずつでいいから、俺たちのこと、自分のこと、理解してやってくれよな」
「うん……」
「じゃ、俺も部屋に戻るわ。伊織さん、後はお任せします」
史耶の言葉に合わせるように武さんも音もなく立ち上がり、二人は並んで部屋を後にした。