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二人が去り、広大な宝玉の間には、私と伊織さんの二人きりになってしまった。
私はどう振る舞えばいいのか分からず、ただ視線を泳がせる。
「あなたの戸惑いは、重々承知しています」
伊織さんは少し困ったように、けれどどこまでも慈悲深い眼差しで私を見つめた。
「鈴さんは今まで、超常現象や非科学的な世界とは一切無縁の、平和な世界で生きてこられたのですから。受け入れられなくて当然です」
私は小さく、コクンと頷いた。
「ですが、鈴さん。今ここで見たこと、聞いたこと、そしてこれからあなたの身に起こるあらゆる不可思議な出来事は……全て、紛れもない現実なのです。どうか、気を確かに持ってください。そして────私たちを信じてください」
私は俯き加減のまま、上目遣いで伊織さんの顔を見上げた。
伊織さんはいつもの柔らかな微笑みを湛えたまま、私の頭にそっと手を置き、幼子をあやすように優しく撫でてくれた。
「あなたが私たちを信頼し、求めてくれることで、私たちの宿る神獣の力は遥かに強く、強固なものになります。あなたをあらゆる災いから、何度でも救い続けることができるのです」
その時、伊織さんの笑顔は、ただ優しいだけではない、すべてを包み込むような圧倒的な「力強さ」を秘めていることに気付いた。
頭の中に渦巻く常識はまだ何も信じられていなかったけれど、私の心の奥底は、目の前にいる伊織さんのこと、そして武さんも、史耶も、当麻のことも、信じることができると確信していた。
「さあ、今日は長旅と突然の話で酷く疲れたでしょう。お部屋までお送りしますね」
伊織さんはさっきと同じように、そっとエスコートの手を差し伸べてくれた。
二人で静かな廊下を歩き、私の部屋の前まで戻ってきた。
「あなたの部屋の向かいは、当麻くんの離れが一番近いのです。もしに何か恐ろしいことがあったら、遠慮なく大声で呼んでください」
伊織さんは私が襖を開ける前にそっと耳打ちし、「それじゃあ、おやすみなさい」といつもの極上の笑みを残して、闇の奥へと消えていった。
部屋に入り、壁のスイッチを入れて電灯を灯す。
一気に現実の明るさに引き戻されたものの、頭の中の混乱は収まらない。
何をどう整理すればいいのか分からなかった。
「信じられない」と拒絶する理性の反面、おばあちゃんや伊織さんの語った言葉が、まるですっと乾いた砂に染み込む水のように、私の脳内に自然と吸収されていく感覚がある。
自分に課せられた「巫女」という役割。
それがどれほどいったいなんなのか。
危険なものなのかを想像すると、急に強烈な孤独と不安が押し寄せてきた。
部屋の圧倒的な静けさが、さらに恐怖を煽る。
不安を紛らわせるようにキョロキョロと瞳を動かしていると、大きく開いた窓の向こう、少し離れた建物の窓から漏れる明かりが目に留まった。
ゆっくりと窓辺に近づき、窓から見える唯一の人口の光りを何気なく凝視する。
照明に照らされた室内に、一人の人影があった。
それは────上半身が完全に裸の男の姿。
どうやら、今まさに服を着替えようとしている最中らしい。
引き締まった背中のラインが目に入った瞬間、私は心臓が跳ね上がるのを感じ、慌てて視線を逸らそうとした。
だが、時すでに遅し。
向こうの人影は、こちらからの視線に敏感に気付き、クルリと勢いよくこちらを振り返った。
当麻だ。
当麻は私と視線が合う。
いまさら視線を逸らしても、と睨まれる覚悟で睨み返す準備をしつつそのままでいると、当麻はなかなか反応しないどころか目を細めてマジマジとこちらを確認しているようだ。
変な沈黙の間のあとようやく驚きの表情を浮かべて顔を真っ赤に変貌させると、ズカズカと凄まじい足取りで窓際に歩み寄り、怒鳴り散らした。
「おいっ!! 何、人の着替えを堂々のぞいてんだよ! このスケベ女っ!!」
「な、な、な、な、何!?」
あまりの言い掛かりに、私の頭の沸点も一瞬で限界を超えた。怒りと恥ずかしさで顔が爆発しそうになる。
「だ、誰が好き好んであんたの裸なんか見るのよ! 視界に入っただけよ、この変態自意識過剰男っ!!」
窓越しに負けじと叫び返し、カーテン代わりの障子を「バンッ!!」と凄まじい音を立てて叩き閉めた。
ハァハァと荒い息を吐きながら、そこでようやく伊織さんの言葉の意味を理解した。
『あなたの部屋から一番近いのは当麻くんの所』
史耶が教えてくれた、母屋を囲む四つの離れの配置。
東、西、南、北。
私の部屋のちょうど窓の外の直線上に位置していたのが、南に位置する当麻の部屋だったのだ。
ということは、これから夏休みの間、毎日窓越しにあいつの気配を感じながら過ごすことになる。
(もしや、昼間みたいにいきなり部屋に忍び込んでくるようなことが、これからも日常茶飯事で起こるんじゃ……)
想像するだけで頭が痛くなってきた。
けれど、あいつが私のことを「貧乳」だの「スケベ」だの言って毛嫌いしている様子を見る限り、夜這いに来るような心配だけはなさそうだと、少しだけ胸をなで下ろす。
私は大きく深呼吸をして、部屋の真ん中に畳まれていた布団を引っ張り出し、勢いよく敷いた。
シーツの上に身を横たえると、鉛のように重くなった身体が沈み込んでいく。
けれど、昼間のような、あの強制的に意識を刈り取るような不気味な眠気はもうやってこなかった。
そのことに心から安堵しながら、私は布団の中に深く潜り込み、今日起きた怒涛の出来事を一つずつ、ゆっくりと振り返る。
少しでも気持ちの整理をつけようと試みたけれど────全ての謎が一本の線に繋がるより前に、私の意識は、穏やかな深い眠りの底へと心地よく落ちていった。