第9話
【-1-】
翌朝、目が覚めた私は、朝の散歩をすることに決めた。
まずは昨日教えてもらったルートに沿って、広大な母屋の周囲をぐるりと一周してみる。
みんなの住まいである四方の離れを目で追ってみたけれど、どこも障子や戸が閉まったままで、人の気配は全くなかった。
(まだみんな寝ているのかな。それとも、もう起きてどこかで何かをしているんだろうか……)
確信が持てないまま、私はもう少しだけ足を延ばしてみることにした。
とはいえ、この迷路のような敷地で迷子にでもなったら目も当てられない。
あくまで「屋敷が視界に入る範囲」での、ちょっとした探検だ。
昨日キャリーバッグを引きずって歩いてきた小道とは、ちょうど対角線上の反対側にあたる北西の方向へと足を進める。
屋敷の周囲は、見上げるほどに高く鬱蒼とした竹林で隙間なく囲まれていた。
それはまるで、下界の汚れからこの古びた屋敷を厳重に守る、強固な砦のようにも見えた。
この竹林は、一体どこまで続いているのだろう。
ほんの少しの好奇心に引かれながら、あまりに深そうならすぐに引き返そうと、何度も何度も後ろを振り返って屋敷の屋根が見えることを確認する。
しばらく進むと、進行方向の竹の隙間から、きらきらとした朝日が差し込んでいるのが見えた。
どうやら出口が近いらしい。
私は振り返るのをやめ、期待に胸を膨ませて足早にそこへと急いだ。
────その瞬間、視界を遮っていた竹林が唐突に途切れた。
代わりに目の前に広がったのは、どこまでも青々と茂る、木々とキラキラの落ちる金色の木漏れ日。
周囲の竹林よりもさらに一段と色濃い、圧倒的な緑の生命力がそこには満ちていた。
梢(こずえ)の遥か先にも、神秘的な原生林が緑の海のように連なっている。
誰もいない静寂の空間で、私は大きく両腕を広げて、深く深呼吸をする。
「はあ……やっぱり、こっちの空気は美味しいな」
都会の排気ガスに濁った空気とは、細胞レベルでまるで違っていた。
サラサラと心地よい朝風が吹き抜け、木々を揺らしながら私の髪を優しく撫でる。
私はそっと目を閉じ、自然が奏でる微細な音を全身に染み込ませるように聴き入った。
木々のざわめき、優しく響く夏の虫の音、遠くでさえずる鳥の声。
東京では絶対に味わえない、命の音がそこかしこに溢れていて、嬉しさのあまり私の唇からは自然と笑みが溢れる。
その幾重もの音の中に、微かに「植物たちが呼吸するような、深い風の音」が混ざり込んでいることに気付いた。
その音の波に意識を集中させていくと、不思議なことに、私の脳裏が鮮やかな新緑(エメラルドグリーン)に染まっていくような感覚に囚われた。
まるで、頭のてっぺんからつま先まで、大自然の清浄な生命力の中に深く溶け込んでいくような、奇妙な心地よさ。
けれどそれは決して息苦しいものではなく、むしろ大いなる大地の温もりに抱かれているかのように、私の心と身体の疲れを芯から癒してくれる究極の安らぎだった。
だが、その安らかな風の音が────突如として狂暴に変化した。
激しく木々がしなり、梢が爆発したかのように木の葉が舞い散る轟音が周囲に響き渡った。私は弾かれたように目を開けた。
緑の異変を目で追うと、木の葉が激しく渦巻く中心から、凄まじい速度で巨木の枝から枝へと飛び移りながら、滑るように移動する「何か」があった。
重力を無視したようなその動きを凝視し、それが「人間の姿」であることに気付いて心臓が跳ね上がる。
不審者か、あるいは昨日伊織さんが言っていた『妖』の類いだろうか。
私が身構え、息を殺して警戒していると、その影は木々の間を疾風のごとく駆け抜け、一直線に私の立つ開けた場所へと飛び降りてきた。
やがて、頭上からしなやかに着地する。
「史耶……」
乱れた前髪の隙間から覗く、涼しげな切れ味のある瞳。その顔を確認して、私は小さく安堵の息を漏らした。
「……あ。やっぱり、あんただったか」
史耶は周囲の風をふっと落ち着かせ、眩しそうに私を見上げた。
「急に、自分の頭の中に『別の思考』が流れ込んできたからさ。誰かと思えば」
「え? 別の思考って……?」
彼の奇妙な物言いに、私は小首を傾げる。
史耶はそれには答えず、不敵に笑うと、今度は周囲の草木が彼の意思に応えるかのように一瞬だけさざ波のように波打った。
人間の運動速度を遥かに超越した、まさに木属性の力を宿し、森そのものを味方につけたような身のこなし。
彼は上半身が完全に裸で、下半身はジーンズだけを身につけていた。激しい動きをしたせいか、その肌は健康的な汗に濡れている。
(あんな高所から、よくもまあ平気で飛び降りてこられるなぁ……)
と、最初は素直に感心していたのだが。
彼が朝日の下へとはっきりと一歩踏した瞬間、私は「ハッ」と息をのんだ。
衝撃のあまり思考が完全にフリーズした。
彼の左の鎖骨から肩、そして背中全域にかけて────硬質で禍々しい『青色の鱗』が、びっしりと皮膚を覆い尽くしていたのだ。
その異形は、彼の逞しい右腕の半分にまで、まるで木々が根を張るように侵食して広がっている。
朝日に照らされたその鱗は、深い森の奥底に眠る秘宝のような、妖しい輝きを放っていた。
史耶は、私が完全に怯え、凍りついている視線に即座に気付いた。