【改訂版】ひねくれ姫王は美貌の伴侶に幻滅したい 作:のぎあおまさ
咲き誇る花々に目を留めながら暫し石畳の上を行くうち、ふと小径を外れた隅のベンチに人影を認めたシグナスは、遠巻きにその姿を伺った。
無造作に伸ばされたくすみの無い赤髪、眠たげに垂れた瞼の奥で鈍く光る灰色の瞳、耳元で揺れる紫水晶のイヤリング。間違いない、近衛騎士団長のレオンである。
一見すると軽薄で無気力な若者に映るが、実際は宰相のルシャードより二つか三つ年上なのだとか。背丈はシグナスとさほど変わらない──恐らくは
見慣れた騎士団の制服ではなく袖なしの黒い貫頭衣を着ている所を見るに、今日は非番なのだろう。日頃腰に佩いている長剣は脇に置かれ、その眼差しは手元の本に注がれている。見れば、ベンチの上にも何冊かの書物がぞんざいに積まれていた。
さほど彼について知っているわけではない。しかしアルマやルシャードから度々その奔放ぶりを聞かされていたものだから、よもや読書家とは思わなかった。
今話しかけては迷惑だろうか。シグナスは少しばかり躊躇いながらも、ゆっくりとベンチの傍に歩み寄る。
「こんにちは、レオン殿」
シグナスの呼びかけに、レオンは悠然と視線を上げた。驚くでも煙たがるでもなく、その瞳はあたかも雲を眺めるかのように、ただぼんやりとシグナスを見つめていた。
「お隣、よろしいでしょうか」
「好きにするといい」
「ありがとうございます」
ベンチに腰を下ろしながらシグナスは会話の糸口を探す。だが意外にも、先に口火を切ったのはレオンの方であった。
「お前も耳を鍛えているのか」
「え?」
あまりに唐突な問いかけにシグナスは一瞬言葉を失い、思わず隣にあるその涼しげな顔をまじまじと見つめてしまう。
「耳、ですか?」
「イヤリングを付けているだろう」
「え、ええ」
どうやらレオンはイヤリングを身に付ける理由を尋ねているらしい。質問の意図はおおよそ理解したが、さりとてどう答えたものか。
「私の場合は、そうですね…自分を着飾るため、でしょうか」
「そうか」
シグナスの返答は果たして納得のいくものであったのか。レオンの返事はあまりに簡素で、その胸中を伺い知ることは出来なかった。
「レオン殿は──」
「『殿』はいらない。レオンでいい」
突然の申し出に、シグナスはまたもや面食らう。これまで友に恵まれなかった──否、兄の目を恐れ自ら人を遠ざけていた──身ゆえに、親族以外の人間を呼び捨てにする機会などまるで無かったのだ。
「よろしいの、ですか?」
「陛下もルシャードも、俺に『殿』なんて付けない。それなのにお前だけ俺を『レオン殿』と呼ぶのは変だろう」
「そう、かもしれません、ね…?」
レオンとの会話は想定外の連続だ。けれど、友人とのお喋りとは案外このように手探りで、ままならぬものなのかもしれない。
「では…レオ、ン」
たった一言、その名を呼ぶだけで。二人を隔てる境界線が、ふわりと揺らいだ気がした。少しばかり、照れくさい。けれど悪くない、気分だった。
「何だ」
「レオンは、耳を鍛えるためにイヤリングを付けてらっしゃるんですか?」
「ああ」
曰く。レオンが近衛騎士団に入団して間もない頃、ベルトラム公爵家主催の舞踏会に招かれ慣れぬ礼服を着用する機会があり。その時初めてイヤリングを身に着けたところ、耳たぶを引きちぎられる思いをしたとか。
後日、件の礼服一式を用意したルシャードに抗議した際『常にイヤリングを付けていれば自然と耳も鍛えられるかと』なる助言を受け──恐らくは嫌味のつもりであったのだろうが──。以来毎日のようにイヤリングを付け耳たぶを鍛えている、との事であった。
レオンの話を聞くうち、シグナスは己の口元が綻んでゆくのを感じた。
アルマが彼に対する不満を零す時、言葉の端々に拭いきれぬ親愛が滲んでいたのを思い出す。今ならば、その理由が分かる気がした。
レオンという青年は無自覚に周囲を振り回す幼子のような奔放さと、力を求め愚直に鍛錬を重ねる剣士としての覚悟が、一つの肉体に矛盾なく共存しているのだ。ゆえに、アルマも彼を憎み切れぬのだろう。
ひとしきり話し終えるとレオンは膝の上に置かれた本へと視線を戻し、何事もなかったかのようにページを捲り始める。よく見ると、中々に愛らしい装丁の本である。児童書か、あるいは恋愛小説の類いであろうか。
「レオンはどのような本をご覧になるのですか?」
「俺が読んでいるのは、確か…夢幻《むげん》小説といったか」
「夢幻小説?」
夢幻小説。初めて耳にしたその響きに、シグナスはいたく興味をそそられた。
「貸本屋の店員が言うには『実在する人物との架空の交流を描いた夢幻《ゆめまぼろし》のような物語』だそうだ」
「伝記や歴史小説とはまた異なるのでしょうか?」
「俺も詳しい違いはよく分からん。どんな話か気になるなら一冊読んでみればいい」
シグナスはちらりと、脇に積まれた本の山へと目を向けた。
新たな本との出会いはいつだって胸をくすぐるものだ。思えば幼い頃は自由時間の殆どを読書に費やしていた。本のページをめくる度、未知の世界に誘われる感覚が好きだった。
けれども、最初は兄が。そしていつしか父も、母も、家臣すらも。知識を欲する行為を、帝位への野心と結びつけるようになって。その息苦しさから逃れるべく、シグナスは本を手放した。
──だが、今は?
そっと辺りを窺えば、他には誰の姿も見当たらない。あるのは陽だまりと、邪推とは無縁の自由気ままな青年。それと臆病者が、一人。
シグナスは意を決し、山の中から一冊の本を手に取る。かさついた紙の感触さえ、今はひどく心地よかった。