【改訂版】ひねくれ姫王は美貌の伴侶に幻滅したい 作:のぎあおまさ
さほど厚みのある本ではない。薄桃色の表紙に金文字で題名が綴られている。『虐げられたワケあり令嬢は氷の宰相閣下に溺愛される』──いや、あらすじだろうか? 裏を返すと下部に『ブーフ貸本店』の判が押されていた。この店で借りた本なのだろう。
表紙をめくると久しく嗅いでいなかった紙の匂いが鼻をくすぐり、シグナスは思わず笑みを深める。
風変わりな題名であるが、内容は思いの外しっとりしている。筆跡からして、作者は高等教育を受けた良家の子女に違いない。文体は真に迫るものがあり、登場人物たちの息遣いさえ感じられる。
読み進めるうち、シグナスは主人公であるうら若き令嬢の健気さにすっかり入れ込んでしまい、気付けば彼女を苦境から救い出す「氷の宰相閣下」の登場を今か今かと待ちわびるようになった。好奇心にかき立てられるまま、ページをめくる指に力がこもる。そして、遂に待望の瞬間が訪れた。
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その時。
『おやめなさい』
雑然とした路地裏に、重く滑らかな声が響いた。次いで影の中から一人の男が姿を現す。
『な、なんと…
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…。
……。
………待った。まだ判断を下すには早い。この「ルシャード宰相閣下」なる男とシグナスの思い浮かべる「ルシャード」が果たして同一人物であるのか。断じるに足る根拠はまだないのだ。シグナスが知らぬだけで、ガルドにはこれまでもルシャードという名の宰相がいた可能性は大いにある。…あって、ほしい。
切実な祈りを込めながら、シグナスは震える指先でページをめくった。
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『閣下がなぜこのような場所に…』
ルシャードは周囲の困惑を跳ねのけるように、冷たく言い放った。
『アルマ陛下のご命令、とだけ申しておきましょうか。それよりも、その薄汚い手をさっさと退けることです。貴方如きが、彼女に触れる権利などありはしない』
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…悲しいかな。シグナスの儚い希望は早々に打ち砕かれてしまった。もはや言い訳の余地はない。どうやらこの本は架空の令嬢とルシャードの恋模様を描いた小説である、らしい。
まさか夢幻小説に登場する「実在の人物」が歴史上の偉人や有名人ではなく、現代の人間であったとは。何と言うべきか、このような読み物が市場に流通しているのも陛下による寛大な治世の賜物…なのだろうか。
いや、だが。知人が登場する点を除けば、話の筋は中々に巧みで惹かれるものがある。潮の満ち引きが如し安堵と緊張の連続。交錯する二人の想い。背後で蠢く陰謀の影。文字の連なりが微細な世界を形づくり、思考が静かに浚われてゆく。
いつしかシグナスはルシャードの存在も気にならぬ程に無心で目の前の本を読みふけっていた。のだが。
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『やあ、可愛い子ちゃん。一人とは珍しいね。あのお邪魔虫がいないとは、今日はツイてるな』
そう声を掛けてきたのは、ルシャードと共にガルドの双璧と謳われる王国一の剣士。平民出身でありながら若くして近衛騎士団長の地位に上り詰めた赤曜の
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「ん˝ぅ˝っ────」
話も中盤に差し掛かる頃、唐突に「レオン」なる近衛騎士団長があまりに気障な台詞を引っ提げて登場したものだから、思わず喉の奥からとんでもない笑い声が飛び出そうになり、シグナスは慌てて口を押さえた。
「どうだ。あのしかめっ面のルシャードがこんな甘ったるい台詞を口にすると思うと、笑えて来るだろう」
「そ、そうですね。確かに、中々…」
実の所、ルシャードの方はそこそこ忠実に描かれていたので大して笑いを堪える必要も無かったのだが。本人を前に吹き出した経緯を説明する訳にもゆかず、シグナスは曖昧に頷いた。
どうやらこの本の作者はルシャードの性格や口調は概ね把握しているものの、レオンについてはあまり知らぬと見える。
だがレオンの人となりを思えば、それも致し方あるまい。進んで社交の場へ顔を出すような方ではないから、騎士団の人間や宮仕えの者でもなければそうそう言葉を交わす機会もないのだろう。それゆえ「ガルドの双璧」や「王国一の剣士」といった名声のみが一人歩きしているのだ。
「…この本にはルシャード殿だけでなくレオンも登場するのですね」
「ん? ああ、そうだな」
「その、見るからにルシャード殿の恋敵として書かれていますが、よろしいのですか?」
「俺はただルシャードが柄でもないクサい台詞を言うところを見たいだけだ。それ以外はどうだっていい」
「なる、ほど」
聞けば先日、児童書でも何でもとにかく本を読んで文章の書き方を学べとルシャードから口酸っぱく言われ。渋々目に付いた貸本屋に入り適当に借りた本の中に偶然、ルシャードが登場する夢幻小説があり。以来本の「面白さ」に目覚めたレオンは足しげく貸本屋に通っているのだとか。
淡々と語られる事の次第に、シグナスはつい苦い笑みを浮かべてしまう。よく見れば、その武骨な手に抱かれた本の表紙にも「宰相」なる文字が確認出来る。ベンチに積まれた他の本も同様だ。…どうやらルシャードは、この界隈において大層な人気者であるらしい。
ふと、思ったが。もしやこの国には、アルマを題材とした夢幻小説も存在するのだろうか。本の中で彼女はどのように描かれるのか興味をそそられる反面、アルマが自分ではない他の誰かと心を通じ合わせるさまを想像すると、少しばかり胸が痛む。
…ああいや、何を考えているのだ自分は。二人の婚姻はあくまで政略に基づくものであり、そこに個人的な感情が介在する余地はなく。例えアルマが六つも年の離れた男より、同年代の少年少女と気ままな恋を楽しみたいと願っても、シグナスにそれを咎める権利はないのだ。
そんな事、百も承知の筈であったのに。
何故だろう。暖かな日差しの中にありながら、一人冬の底へ取り残されたような心地で。
重く冷たい寂寥から逃れるように、シグナスはそっと本を閉じた。表紙を軽く払い、礼と共にレオンへ差し出す。
「ありがとうございました、レオン。大変興味深い内容で…思いがけず、よい本と出会うことが出来ました。やはり楽しいものですね、読書は」
「そんなに本が好きなら陛下に頼んで、城の書庫を開けてもらえばいい。まあ難しい上にさして面白くもない本ばかりだが」
そのあまりに無邪気な一言に、シグナスは息を呑んだ。
…あの方は、その望みを善しとするだろうか。
ルナリアでの日々は、未だ癒えきらぬ古傷のように疼く。陛下の機嫌を損ねはしないか。不興を買う真似だけは避けたい。嫌われたくない。幻滅されたくない。いつだって、彼女が望む「シグナス」でありたい。
兄の猜疑から逃れるためならば、己が持つ全てを投げ捨て故郷を去ることになろうと惜しくはなかった。それなのに。今は、この陽だまりのような幸せを失うことが何より恐ろしい。
「その、陛下は…私が知恵をつけることを嫌がりませんでしょうか」
そう恐る恐る切り出したシグナスに対し、レオンはあまりにあっけらかんと答えた。
「嫌がる? 陛下はお前といると楽しそうで、お前が笑うと嬉しそうだ。お前が喜ぶなら、陛下も喜ぶだろう」
思ってもみなかったレオンの言葉に、シグナスは思わずその目をしばたいた。
「そ、そうでしょうか」
「ああ」
陛下が、楽しそう? 嬉しそうに、している? まるで身に覚えがない。だが自分よりずっとアルマと付き合いの長いレオンが断言するのであれば、そう、なのだろうか。
自分と、同じように。
あの方も、この日々を愛しいと。
胸の奥で凍てつく影が、ひそやかに溶けてゆく。風にそよぐ木々の音も、日向を揺蕩うぬくもりさえも、その全てが芽生え始めたかけがえのない幸福を優しく取り巻いていた。