【改訂版】ひねくれ姫王は美貌の伴侶に幻滅したい 作:のぎあおまさ
その夜、かすかな衣擦れの音さえ耳を衝く静寂の中。寝台に身を委ねるシグナスを横目にアルマは暫し逡巡したのち、結局はいつものように手を差し出した。一拍置いて、シグナスの白い手がそっと重なる。
今ではすっかり夜ごとの習わしとなった行為であるが、その慎ましい温もりを感じる度、アルマはむず痒い羞恥に駆られる。この男が身に纏う「美」という名の幻想が、アルマを惑わせるのだ。今に見ていろ。必ずやその優美な鉄兜を引き剥がし、巧妙に隠された本性を引きずり出してやる。
そう、これは試練。あえて苦境に身を置くことで今一度初心に立ち返るため自らに課した試練なのだ。…でなければこんな、こんな新婚ほやほやの浮かれきった熱々夫婦のような真似が出来るかっ!
「陛下、今朝は本当に──」
胡乱な思考が脳内を駆け巡る最中、突如降って来た声にアルマは内心飛びあがりながら、勢いよくシグナスの方へ向き直る。
「驚かせてしまいましたか、申し訳ありません」
「い、いや、少々考え事をしておってな。で、どうした。何用だ」
「いえ、ただ今朝のお礼を申し上げたいと思いまして」
「ああ…」
その言葉にアルマは小さく肩をすくめた。まったく、この男の律儀さには舌を巻く。まあ、何だ。悪い気はしないが。
「そう何度も礼を述べずともよい。それとも何か、そなたは我を物忘れの激しい老いぼれとでも思うておるのか?」
「ふふ、どうかお許しください。この胸の感謝を表す方法が他に思いつかないものですから」
わざわざ言葉にせずとも、ただこの国で日々穏やかに過ごし幸福の中微笑む姿を見せてくれればそれでよいのだが。…断っておくが、ガルドに生きる民草の幸せを願い邁進することは王に課せられた使命であるからして。そこには無論シグナスも含まれるという、それだけの話である。
「…ふん、そんなに本が好きか。物好きな奴め」
「無論読書は好きですが…何より、この私に本とお母様の部屋を与えてくださった陛下の御心が嬉しいのです」
そう言い終えると、シグナスはどこかはにかむように目を伏せた。
心などという、形も定かでない代物を殊更ありがたがるとは。やはりこの男は相当の好き者に違いない。人の内にある曖昧なものなど、些細な事で揺らぎ移ろうというのに。
けれどその言葉に、胸の奥が不思議と疼くのもまた事実で。夜闇にあってなお眩しく映る男の相貌を、アルマは暫し言葉もなく見つめていた。すると。
「陛下は…」
「ん?」
再びシグナスの瞳がこちらを捉え、二人を繋ぐたおやかな手に僅かばかり力がこもる。まるで祈るかのように、縋るかのように。
「陛下はなぜ、これ程までに私の事を気に掛けてくださるのですか?」
理由など、言うまでもない。シグナスへの配慮は全て王として、妻としての役割に基づくもので。それこそ心などという、不確かな存在が入り込む余地はどこにもない、筈で。
「…妻が、夫をぞんざいに扱う理由もなかろう」
──瞬間、シグナスはふと笑った。
それは夢を、幸福を、可能性を、あるいは恋を。何かを諦めた者が見せる、哀愁に満ちた微笑みだった。
これまで見た事もない物悲しいその笑みに、アルマはどうしようもない焦燥に駆られ思考がたちまち軋み出す。
「…私も夫として陛下のご厚意を裏切らぬよう、今後とも誠心誠意お仕えしてまいります」
まだ半月にも満たぬ付き合いであるが、それでも分かってしまう。これは、シグナスという男の本心ではないのだと。全くの嘘ではないが、かといって何もかもを晒け出した本音というわけでもない、上辺だけを取り繕った綺麗事。
アルマはその言葉の裏に潜む真意を見出そうと、いつにも増して底知れぬ輝きを放つ双眸を覗き込んだ。しかし男は逃れるように、そっと両の目を閉じてしまう。まるで、あなたが知る必要はないのだと言わんばかりに。
なぜそうも悲し気に笑うのか。己にどんな答えを求めていたのか。その瞼の裏に何を隠したのか。知りたいと、確かめたいと願わずにはいられない。
けれども。その問いを口にした途端、これまで目を逸らし続けていた何かに気付いてしまう、そんな気がして。喉元まで込み上げた言葉が、形を成さぬまま沈んでゆく。
結局アルマは何一つ問えぬまま、冷たい夜の沈黙を受け入れるほかなかった。