【改訂版】ひねくれ姫王は美貌の伴侶に幻滅したい 作:のぎあおまさ
そこには一人の男が立っていた。いや男というよりも、夜をあまねく照らす月の如き輝きがそこにはあった。
艶やかな銀の髪は午後の光を反射して淡雪のように煌めき、肌は白磁のように滑らかで、硝子細工を思わせる儚さを帯びている。灰と青と紫が入り混じる瞳は瞬きのたびに色を変え、見る者の視線を捉えて離さない。目元を縁取る長く繊細なまつ毛が、その幽玄な瞳にかすかな翳りを落としていた。
美は欠損の中に宿るというが、目の前の男にはそれがない。神が気紛れにも月光に人の姿を与えたのではないか。そんな馬鹿げた考えが思い浮かぶほどに、男は美しかった。
その優美な造形に見惚れるあまり、気づけばアルマは息をすることさえ忘れ、静かに立ち尽くしていた。思考は歩みを止め、ただ心だけが波のように揺れ動き、言葉にならぬ感情が押し寄せる。
──この男は一体どのように笑うのだろう。
そんな疑問とも呼べぬ些細な好奇心が胸をよぎったその瞬間。男はまるで答えを差し出すかのように、両の目を僅かに細めゆったりと唇の端を持ち上げた。
その微笑みがあまりに優しく、あたたかで、穏やかなものだから。アルマはたまらず、たまらず──────咄嗟にドアノブを引き戻し。
バタン!!!
回廊中に響き渡るド派手な衝撃音と共に、男の姿は再び扉の向こうへ消えていった。
「…陛下、いかがなさいましたか?」
途端まるで長い夢から引き戻されたかのように、視界がにわかに広がり心臓の鼓動が耳をつく。声のする方を見れば、怪訝な表情を浮かべたルシャードの顔がそこにあった。
何か言い返さねばと思うのに、アルマ自身己が何故こうも動揺しているのか分からず、言葉に詰まってしまう。これ程までに取り乱すのは生まれて初めての事だった。
「う、うむ…ルシャード、その、我の婿となるシグナスはどんな男かもう一度聞いてもよいか?」
アルマが何とか捻り出した言葉に対し、ルシャードは盛大に眉をしかめた。なんだって今更そのような事を尋ねるのか。そう言わんばかりの態度であった。つくづく腹の立つ男である。
「…先程も申し上げましたが、シグナス殿は現ルナリア帝国皇帝コルバス陛下の弟君で、才知に長けた貴公子として帝国でも評判の殿方と聞き及んでいます。私もこれまでに幾度かお会いしたことがありますが、博学多才で人柄もよく陛下の伴侶として申し分ない人物かと」
……。
…………いやもっと、もっと他に褒めるべきところがあるだろうがっ!!!
なんだってこの男はあれ程美しい人間に対し、やれ頭がいいだの人柄がどうだの内面にばかり着目するのか。その眼鏡は飾りか? ちゃんと度が入っているのか? と問いただしたい衝動をぐっと堪え、ならばとアルマはレオンの方へ向き直る。
「お前はどう思うレオン、その、あやつを見て何かこう、感じなかったか!?」
「俺か? そうだな、見たところ武術の心得はない。陛下であれば余裕で勝てる相手と思うが」
その返答にアルマは思わず天を仰いだ。この朴念仁どもが城下の民、とりわけご婦人方から大層な人気を集めているというのだからたまらない。
彼女らは知らぬのだ。ルシャードという男がいかに口煩く、頑なで、融通の利かぬ性格をしているか。レオンという男がいかに自由奔放で、その手綱を握るのにどれ程苦労するか。知らぬからこそ、恋い慕うのだろう。
そう、知らぬからこそ──。
ふとアルマは、己もまたシグナスという男の外見や美名しか知らぬことに気付いた。あの涼し気な眼差しの奥にあるものをアルマは知らぬのだ。
知りたいと、アルマは思った。いや、知らねばなるまいと思った。
あの美しい影に潜むのは弱さか、歪みか、欠落か。その一片でも目にすれば、男への幻想はたちまち崩れ去るに違いない。というかそうなってもらわねば困るのだ、切実に。夫の顔にいちいち見惚れていては新婚生活どころの話ではない。見惚れる? いや別に見惚れていたわけではない、うん。決して。
…いかん、どうにも考えが纏まらない。アルマは散乱する思考を払いのけるように大きくかぶりを振った。
「陛下、シグナス殿に何か不満がおありでしたら後でいくらでもお聞きします。とりあえず今はご挨拶を」
「…ああ」
ルシャードの言葉にアルマは不承不承頷くと、一度呼吸を整えるべく深く息を吸い込む。そして再び、目の前にそびえ立つ扉へ手を伸ばした。