現代日本風の異世界に転生した俺は言語習得に失敗する 作:肩たたき券の起源
「じゃあ、これは?」
「『電子レンジ』」
「……ねえツカ、ちょっと待って」
放課後のツカの部屋で、私はテキスト代わりの手書きノートを指で叩いた。
一か月が経ち、私たちの「日本語」の授業は、身の回りの家電や日用品の名前へと進んでいた。
「『冷蔵庫』や『洗濯機』はわかるわ。漢字の組み合わせも『冷やす箱』『洗濯する機械』で意味が通るもの。でも、この『電子レンジ』の『れんじ』って何? 漢字はないの?」
ツカは一瞬だけ視線を泳がせ、頭をかいた。
「あー……それは『レンジ』ってカタカナで書くんだよ。外来語っていうか、まあ、そういう専門の道具を指す言葉なんだ」
「ふーん……。じゃあ、居間にある『てれび』とか、私たちが持ってる『すまーとふぉん』は?」
「それもカタカナ。『テレビ』と『スマートフォン』。略してスマホ」
ツカはいつものように「こういう決まりだから」と笑って誤魔化そうとする。
だけど、私の脳は、その違和感をどうしてもスルーできなかった。
ひらがな、カタカナ、漢字。これだけでも三つの文字体系が混ざり合っていて異常なのに、カタカナで表記される単語――特に高度な機械類――には、明らかに「日本語」とは異なる別の言語の響きがある。スマートフォン、テレビ、レンジ。もしかするとこれらは、別の国の言葉に発音の近いカタカナを当てたものではないだろうか。
(ツカは……一体どれだけの言語を脳内に隠し持っているの?)
「じゃ、いってきま-す!」
日本語の授業が終わり、ツカが夕飯の買い出しのために部屋を出た後も、私の胸のざわつきは収まらなかった。
「ユナちゃん、麦茶おかわりいる?」
「あ、ありがとうございます、ミサさん」
リビングで私はミサさんと二人、ソファに座った。
ミサさんもこの一か月で随分と日本語に馴染んできていて、時折「ありがとう」や「美味しい」を自然に口にするようになっている。
私は手元のノートを見つめたまま、意を決して口を開いた。
「ミサさん。……少し、真面目な話をしてもいいですか」
「ん? どうしたの、怖い顔して」
「ツカの『日本語』のことです。私、この一ヶ月間、あの言葉の構造を必死に勉強してきました。母音と子音の完璧な整理、状況に合わせて使い分ける三つの文字、それに『漢字』だって沢山あるのに、ただの落書きじゃなくて、なんらかの規則性がある……」
私はノートを開き、ミサさんに見せた。
「これ、絶対に人間が一人で、たった十五年で作り出せるような規模の言語じゃないんです。それだけじゃありません。さっきツカに家電の名前を教わったんですが、そこには日本語ともアール語とも違う、また別の未知の言語が混ざっていると感じました」
ミサさんは静かに私の言葉を聞いている。
「突飛な話だってことは分かっています。でも……ツカは単に頭の回転が速いとか、そういう次元じゃないと思うんです。ツカには、私たちの知らない『前世の記憶』みたいなものがあって……あの日本語は、どこか遠い別の世界の言語なんじゃないかって。そうじゃなきゃ説明がつかないんです」
一気にまくし立てた私の背中を、冷たい汗が伝う。
実の息子が「元は宇宙人や異世界の人間かもしれない」と言われたのだ。怒られるか、呆れられるのが普通だと思った。
けれど、ミサさんはただ、穏やかに微笑んだ。
「……そうね。私もね、薄々そうなんじゃないかって思ってたのよ」
「えっ……? 気づいて、いたんですか?」
驚く私に、ミサさんは麦茶のグラスをテーブルに置きながら、優しく目を細めた。
「だって、あの子が急に流暢に喋り出したとき、あまりにも自然だったもの。自分で作った言葉を喋っている人の顔じゃなかったわ。どこか懐かしい自分の家に帰ってきたみたいな、そんな顔をしてた」
「じゃあ、怖くないんですか? ツカが、自分の知らない別の誰かかもしれないなんて……」
私の問いに、ミサさんは首を横に振った。
「全然。そんなことよりね、私、とっても嬉しかったの」
「嬉しい……ですか?」
「ええ。あの子、ずっとアール語が上手く喋れなくて、いつも同年代の子たちの後ろに隠れるようにして生きてきたでしょう? 母親として、あの子の考えていることが分かってあげられなくて、ずっと苦しかった。……でもね、違ったのよ」
ミサさんは愛おしそうに、ツカの手書きのノートに触れた。
「あの子の頭の中には、こんなに広くて、豊かで、温かい世界があった。あの子は何も諦めていなかったし、ちゃんと大人の目線で私たちのことを見ていてくれた。それが分かっただけで、私はもう十分。前世がどうとか、どこの世界の言葉だとか、そんなの些細なことよ」
「ミサさん……」
「どんな言葉を使っていても、あの子が私の大切な息子であることは変わらないもの。……それにね」
ミサさんは悪戯っぽくウインクをした。
「あの子、私のことを日本語で『お母さん』って呼ぶとき、アール語のときよりずっと甘えた声を出すのよ? 可愛いでしょ」
「あはは……確かに、それはそうかも」
胸の奥に仕えていた重い塊が、すうっと溶けていくのが分かった。
異世界の言語による侵略。ツカの企みはとんでもないものだと思っていたけれど、この母親の無条件の愛の前では、そんな大それた野望もただの「親子のコミュニケーション」に還元されてしまうらしい。
「ただいまー。いやー、スーパーの自動ドア開けた瞬間、思わず『自動ドア』って日本語で呟いちゃったわ」
買い物袋を下げたツカが、能天気な声を上げてリビングに入ってくる。
「おかえり、ツカ」
「あ、ユナまだいたんだ。じゃあ夕飯食ってく?」
「もらうわよ。その代わり、ご飯食べたらさっきの『別の言語』について、徹底的に問い詰めるから覚悟しなさい」
「えっ、何のこと!?」
慌てるツカの横で、ミサさんがクスクスと笑う。
少しずつ、だけど確実に私たちの世界が日本語で染まっていく。その始まりの場所は、どこまでも温かい光に満ちていた。