現代日本風の異世界に転生した俺は言語習得に失敗する 作:肩たたき券の起源
「えー、では今日の授業はここまで。日直、号令」
現代社会の先生が教卓の荷物をまとめ、気だるそうに告げる。
キーンコーンカーンコーン、と前世と全く同じチャイムが鳴り響く中、俺は大きく伸びをした。
「……はぁ、マジで何言ってるのか分からん」
ため息と一緒に口から出たのは、もちろん流暢な日本語だ。
あれからさらに月日は流れ、俺とユナは今日も同じ高校へと通っていた。制服はブレザー、校舎は鉄筋コンクリート、廊下には自動販売機。どこからどう見ても日本の高校なのに、黒板に書かれている文字だけは、相変わらずぐにゃぐにゃしたアール語のままだ。
当然、俺の成績は壊滅的。
ぶっちぎりの学年最下位。このままだと夏休みは補習コースだな。
「ツカ、またそんな国籍不明の言葉でぼやいて。周りに聞こえたら本当に変な目で見られるわよ」
すぐ前の席から、ユナが呆れたように振り返った。
その手には、早くも次の時間の教科書が握られている。相変わらず優秀なことで。
「いいんだよ、全ては計画の内だ。それよりユナ、今日の現代社会のノート、後で写させてくれ。頼む、このままだと俺の高校初の夏休みが補修で終わる」
手を合わせて拝む俺に、ユナはニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「いいわよ。ただし――交換条件」
ユナはカバンから、一冊の小さな自由帳を取り出した。
表紙には、彼女の綺麗な字で『日本語 文法編』と書かれている。
「今日の放課後、この『助詞』っていうのの使い分けを教えなさい。『私は』と『私が』の違いが、どうしてもスッキリしないのよ。学年トップの私が、ツカの言葉で躓くなんて絶対に許せないんだから」
「……お前、自力でそこに疑問を持ったの?」
俺は戦慄した。
『は』と『が』の使い分けなんて、日本人なら無意識に使い分けている領域だ。指摘されて初めて、「そういえば――」と気づく。……少なくとも俺はそうだった。それを自発的に疑問に思うなんて、ユナの洞察力は本当に凄すぎる。
学校でも日本語を使うようになってから早数か月。最近はユナも学校でも日本語で会話してくれるようになってきたし、俺たちが謎の言語を使ってることはクラス中で認知されているはず……。
俺は周囲を見回した。
休み時間になり、教室のあちこちでクラスメイトたちがスマホをいじったり、雑談をしている。……雑談だよな?
俺のアール語の習得はこれ以上見込めない。
しかしこのまま手をこまねいていては、俺の高校生活は灰色のまま。
だったら、やるべきことは一つだ。家庭内、そして幼馴染の間だけで展開していた『日本語化計画』を、いよいよ次のステージに進めるのだ。
「ユナ、『助詞』の件は交渉成立だ。……でさ、ちょっと相談なんだけど」
「何よ、改まって」
「俺、この高校で『部活』を作ろうと思うんだわ」
「ぶかつ……?」
ユナが覚えたての日本語を不思議そうに反芻する。この世界にも『同好会』や『クラブ』の概念はあるが、『部活』という響きは新鮮らしい。
「そう。名付けて『日本語研究会』。表向きは、ツカの喋る謎の言語をみんなで解明しようっていうアカデミックな集まり。だけど実態は、俺が周りの奴らに日本語を叩き込んで、俺の学校生活をイージーモードにするための梁山泊だ」
俺の邪悪な、いや、切実な野望を聞いて、ユナは一瞬目を丸くした。
だが、すぐにクスクスと肩を揺らして笑い出す。
「ツカ、あなた本当に最高に馬鹿で、最高にイカれてるわ」
「褒め言葉として受け取っておく」
「いいわよ、その悪巧み、私も乗った。ツカの『日本語』には興味があるし、何より、あなたがカタコトで縮こまってるより、その生意気な言葉で世界を振り回してる方が、見ていて面白いもの」
ユナが力強く頷いてくれた。これ以上ない、最強の副部長(仮)の獲得だ。
「よし、まずは部員集めだな。最低でもあと三人……いや、まずは一人、"実験台"として引きずり込むか」
俺は、教室の隅に目を向けた。一人の男子生徒が、最新型のポータブルゲーム機に没頭している。
名前はケン。オタク文化が大好きな男だ。
「おいユナ、最初のターゲットが決まったぞ。現代のオタクに一番効く言語、それが『日本語』だってことを教えてやる」
俺は不敵な笑みを浮かべ、ケンの席へと歩き出した。
「おい、ケン。ちょっといいか」
俺は教室の隅でゲーム機をいじっているケンに声をかけた。
彼は一瞬だけ視線を上げると、またすぐに画面に目を戻した。
「なんだよツカ。……お前、最近はカタコトをやめてキンジョーさんと謎の言語で楽しそうに話してるんだってな。用があるなら手短に頼むぜ」
わざわざ簡易アール語で返答してくれるケンに、俺は何も言わず、カバンから一冊の「本」を取り出して机に置いた。
それは、この世界で今大人気を博している少年バトル漫画『アルカディア・ブレイド』の最新巻だ。この世界のエンタメは地球とほぼ同じ。当然、漫画文化もめちゃくちゃ発展している。……ただし、日本語特有の表現力はない。
ちなみに、「キンジョー」っていうのはユナの苗字だ。
「……あ? なんだよそれ、俺もう買ったぞ。今週のレオンの覚醒シーン、マジで神だったよな」
「まあ、見ろ」
俺は流暢な日本語で短く促し、あるページを開いて見せた。
そこはまさにケンが言った、主人公のライバルのレオンが強敵を前にして覚醒し、覚悟を決めたセリフを言い放つ見開きの大ゴマだった。
ケンの目が、そのページに釘付けになる。
「……なんだこれ? 吹き出しの上に、何か紙が貼ってあるぞ」
そう。吹き出しのアール語を隠すように、俺の手書きの文字が書かれた小さな紙片が、何枚も重なるようにして貼り付けられていたのだ。
一番上に貼られた紙には、こう書かれている。
『俺が……お前を殺す!』
「な、なんて読むんだ? これがお前の喋ってる謎の言語か?」
「『日本語』だ。ちなみにそのセリフはこう読む――『俺が……お前を殺す』」
俺は感情を込めてそのセリフを読み上げてやった。
「おお、迫力あるな……って、おい、まだ下に紙があるじゃねえか」
ケンがそっと一枚目の紙をめくった。二枚目にはこうあった。
『僕は……君を殺す!』
「は? ……文字が変わった」
俺がそれも感情を込めて読んでやると、ケンは次々と紙片をめくり始めた。
『我が……其方を殺そう』
『私が……あなたを殺します!』
『オレが……テメェをぶっ殺す!』
『オレ様が、テメェをぶっ殺してやるよ!』
『余が……貴様を殺してやろう』
『拙者が……お主を殺すでござるよ』
めくっても、めくっても、同じシーンの、同じ吹き出しの中から、全く異なる形状の文字(日本語)が現れる。ケンはゲームの手を完全に止め、狂ったように紙片を凝視している。
「な、なんだよこれ……! なんでこんなに種類があるんだ!? アール語なら『アール(私)』と『ルガ(殺す)』で終わりだぞ! なんでこんなに言い方があるんだよ!」
「ちょっとツカ、何よこれ!?」
ケンの叫びに混じって、俺のすぐ後ろから抗議の声が上がった。
覗き込んできたユナが、信じられないものを見るような目で俺を睨みつけている。
「私、こんなのまだ教わってないわよ! 一人称は『オレ』と『ぼく』と『わたし』だけじゃなかったの!? なんでこんなに大量にあるのよ!? 『ござる』って何!? 意味がわからないわ!」
「まあ落ち着けって、ユナ。これは漫画とかでよく使う、日本語特有の『キャラ付け』なんだよ」
アール語は合理的な言語だ。一人称は老若男女問わずほぼ一つだし、語尾でキャラクターのニュアンスを変えるような無駄な機能はない。だからこそ、この世界の漫画は「地の文」での説明が多くなりがちだった。
だが、日本語は違う。
一人称を変えるだけでも、そのキャラクターの身分、年齢、性格、さらには相手との距離感までが、たった一言のセリフからにじみ出るのだ。
「このレオンの覚醒シーン。日本語を使えば、彼の立場、心の内の葛藤や決意を、一人称や言葉遣いを変えるだけで読者に伝えられるんだよ」
「一人称と、言葉遣いの変化だけで……!」
オタクという生き物は、「設定の深さ」や「解像度の高さ」という言葉に滅法弱い。
ケンは手書きの紙片を見つめたまま、ぶるぶると震えていた。彼にとって、目の前にあるのは単なる異国の言語ではない。お気に入りの漫画のキャラクターたちが、さらに深く、魅力的になるための「魔法のツール」に見えているのだ。
そしてユナもまた、ノートを握りしめたまま呆然と立ち尽くしていた。
「そんな、言葉をちょっと変えるだけで、キャラクターに深みを与えるの? 助詞どころの騒ぎじゃないじゃない。日本語って、一体どこまで奥が深いのよ……」
「ツ、ツカ! これはなんて読むんだ!? レオンはどのセリフが一番しっくりくるんだ!? 教えてくれ、頼む!」
ケンが俺に食ってかからんばかりの勢いで身を乗り出してきた。
すかさずユナが、驚愕から立ち直って不敵な笑みを浮かべ、ケンの机を叩きつける。
「知りたいなら放課後、この教室でね。ツカ! 私もその『日本語の表現力』ってやつ、一からじっくり教えてもらうからね」
「放課後だな! うおおおおお、楽しみだぜ!」
こうして、俺は最初の"実験台"の確保に成功したのだった。