境界線 ―1999、世界は十三分止まった― 作:seventh84
約束の日まで、数日が過ぎた。
青年は、普段と変わらない生活を続けていた。
朝になれば起きる。
仕事へ向かう。
決められた時間を過ごし、夜になれば帰宅する。
外から見れば、何も変わっていない。
だが。
青年自身だけは分かっていた。
あの夜を境に、世界の見え方が少しだけ変わってしまったことを。
以前なら気にも留めなかった時計。
街中にある時間表示。
誰かの何気ない会話。
そうしたものが、妙に意識へ残るようになっていた。
《23:31》
その数字を探しているつもりはなかった。
それでも、目に入るたびに心が反応する。
理由は分からない。
ただ。
あの時間には意味がある。
そう感じていた。
青年はスマートフォンを見る。
数日前の着信履歴。
そこには、あの番号だけが残っていた。
名前はない。
登録した覚えもない。
検索しても情報は出てこなかった。
普通なら削除している。
しかし、消す気にはなれなかった。
まるで。
それを消してしまえば、あの夜の出来事まで否定してしまうような気がしたからだ。
指定された場所は、駅から少し離れた古いビルだった。
時間。
場所。
それ以外の情報はない。
普通なら行く理由などなかった。
知らない相手。
説明のない連絡。
信じる根拠もない。
それでも、青年は向かうことを決めた。
怖くないわけではない。
危険かもしれない。
罠かもしれない。
そう考えた上で、それでも確かめたかった。
自分が見たものは、本当に存在したのか。
あの時間に何が起きたのか。
それだけは、知らなければならなかった。
ビルの前に立つ。
古びた外壁。
曇ったガラス。
そこへ映る自分の姿。
疲れた表情。
少し乱れた髪。
それでも、昔から変わらないことがある。
初対面の相手には、実際より若く見られること。
青年は視線を逸らした。
その時だった。
妙な感覚が走る。
見覚えがある。
そう思った。
しかし、すぐに否定する。
来たことなどない。
この場所を知っているはずがない。
それなのに。
胸の奥に、小さな引っかかりが残った。
青年は入口へ近づく。
その瞬間。
腕時計が震えた。
一度だけ。
針は動いていない。
時間が止まったわけでもない。
ただ。
秒針が一瞬だけ揺れた。
そして。
表示された数字。
《23:31》
青年は息を止めた。
偶然ではない。
そう思った。
誰かが、この時間を知っている。
そして。
自分がここへ来ることも。
青年は扉へ手を伸ばした。
もう戻ることはできない。
そう思いながら。
ビルの中は、外観とは違って静かだった。
扉が閉まる音だけが、長い廊下へ響く。
受付はない。
案内板もない。
ただ古い照明だけが、奥へ続く道を照らしている。
「こちらです」
声がした。
青年が顔を上げる。
一人の人物が立っていた。
年齢も、立場も分からない。
ただ。
自分を待っていた。
その事実だけは理解できた。
青年は無意識に周囲を見る。
入口。
廊下。
逃げ道。
知らない場所へ入る以上、それくらいの確認はしていた。
だが、不思議と恐怖はなかった。
警戒はしている。
しかし。
帰りたいとは思わなかった。
案内された部屋には、机と椅子だけが置かれていた。
相手は座るよう促した。
「突然呼び出して申し訳ありません」
青年は相手を見る。
「あなたは誰なんですか」
問いかける。
相手はすぐには答えなかった。
代わりに、一枚の資料を机へ置く。
そこには。
見覚えのある数字があった。
《23:31》
青年の表情が変わる。
「この時間について確認したいことがあります」
相手は静かに言った。
「あなたが経験したことと、こちらの記録が一致するか確認したい」
こちら。
その言葉が引っかかった。
「こちら、とは?」
問いかける。
しかし相手は、少しだけ沈黙した。
「今は、まだ説明できません」
青年は資料を見る。
隠している。
そう感じた。
だが、それ以上に気になった。
この人物は。
自分が見たものを知っている。
それだけで十分異常だった。
「一つ確認します」
相手が言う。
「あの夜、時計以外に何かありませんでしたか」
青年は黙った。
時計。
スマートフォン。
紙。
《記録開始》
思い出す。
異常は、一つではなかった。
そして。
自分が気づいていないものが、まだ存在するのかもしれない。
机の上に置かれた資料。
青年は、その一枚目から視線を離せなかった。
そこには、簡単な記録だけが書かれていた。
時間。
場所。
発生状況。
しかし。
一つだけ共通する項目があった。
『通常の記録との不一致』
青年は顔を上げる。
「これは……何ですか」
相手は答える。
「私たちが調べている現象です」
「現象?」
「はい」
それ以上は言わなかった。
だが、その言葉だけで十分だった。
自分の周囲だけで起きた異常ではない。
世界のどこかで。
同じようなことが起きている。
青年は資料を見る。
「なぜ、自分なんですか」
それが一番知りたかった。
特別な人間ではない。
何かを成し遂げたわけでもない。
ただ。
あの夜、そこにいただけだ。
相手は少し考えてから答えた。
「現時点では、分かっていません」
意外な答えだった。
もっともらしい理由を言われると思っていた。
しかし。
返ってきたのは、分からないという答えだった。
「分からない?」
「はい」
相手は続ける。
「だから調べています」
その言葉には重みがあった。
すべてを知る者の言葉ではない。
知らないものを追い続ける者の言葉だった。
「ただ、一つだけ分かっています」
相手は青年を見る。
「異常は、人を選んでいるわけではありません」
一瞬の沈黙。
「では……」
青年が問いかける。
相手は静かに続けた。
「見つけた人間が、境界を越えることになる」
その言葉の意味を、青年は理解できなかった。
だが。
胸の奥では、何かが繋がっていた。
あの夜。
時計が止まった瞬間。
自分は異常を見つけたと思っていた。
違った。
もしかすると。
自分は最初から、見つけられていたのかもしれない。
相手は最後の資料を机へ置いた。
そこには、一つの地名だけが記されていた。
青年は、その文字を見る。
知らない場所。
そのはずだった。
なのに。
なぜか懐かしい。
なぜか知っている。
そんな矛盾した感覚だけが残った。
境界の向こう側。
そこに何があるのか。
青年は、まだ知らなかった。