境界線 ―1999、世界は十三分止まった― 作:seventh84
青年は、机の上に置かれた資料から視線を上げられなかった。
そこに記された地名。
知らない場所。
訪れた記憶もない。
それなのに。
胸の奥だけが、妙に反応していた。
初めて見るはずの文字列。
なのに、以前から知っていたような感覚。
記憶ではない。
もっと曖昧なもの。
身体だけが覚えているような、不自然な既視感だった。
向かいに座る男――神崎は、その様子を黙って見ていた。
急かすこともない。
答えを求めることもない。
ただ、青年が自分自身で受け止めるのを待っている。
部屋には時計があった。
壁に掛けられた古いアナログ時計。
秒針は規則正しく動いている。
その音が、静かな室内へ響いていた。
青年は無意識に時計を見る。
動いている。
当たり前のことなのに。
それだけで少し安心した。
「混乱していると思います」
神崎が口を開いた。
「当然です。私も最初はそうでした」
青年は顔を上げる。
「……あなたも?」
神崎は小さく頷いた。
「最初からこちら側にいた人間ではありません」
その言葉に、青年の警戒が少しだけ緩んだ。
この人物もまた、自分と同じように。
ある日突然、知らない世界へ足を踏み入れた人間なのかもしれない。
「改めて名乗ります」
神崎は姿勢を正した。
「神崎です」
一拍置く。
「時間異常調査局に所属しています」
その名前を聞いた瞬間。
青年はわずかに眉を動かした。
時間異常調査局。
現実に存在する組織名とは思えない。
だが。
目の前の男は冗談を言っているようには見えなかった。
青年は室内を見る。
古い机。
並べられた資料。
年代ごとに整理されたファイル。
派手な装置もない。
秘密組織という言葉から想像するものとは、あまりにも違った。
神崎は青年の視線に気づいた。
「もっと特殊な場所だと思いましたか」
青年は否定しなかった。
「実際は、こんなものです」
神崎は机の資料へ目を落とす。
「私たちが扱うものは特殊ですが、やっていることは単純です」
「単純?」
「記録することです」
青年は黙った。
神崎は続ける。
「説明できない出来事を、なかったことにしない」
その言葉だけが、妙に残った。
神崎が開いたファイルには、管理番号だけが記されていた。
タイトルはない。
内容も、ほとんどが伏せられている。
黒く塗られた部分。
欠けた記録。
消された情報。
青年は眉をひそめた。
「これを見せて大丈夫なんですか」
「全部ではありません」
神崎は答えた。
「見せられる部分だけです」
ページをめくる。
そこには、短い報告が並んでいた。
原因不明。
確認不能。
継続調査。
どれも、事件として扱われなかったものだった。
「私たちは異常を解決する組織ではありません」
青年は顔を上げる。
「では、何を?」
神崎は資料を見る。
「観測します」
「観測?」
「いつ、どこで、何が起きたのか」
静かな声だった。
「それを残します」
青年は棚を見る。
大量のファイル。
何年分なのか分からない記録。
誰にも知られなかった出来事が、ここには積み重なっていた。
「二十七年前のことも……」
青年が呟く。
神崎は少しだけ表情を変えた。
「はい」
短い返答。
「あの日以降、記録の意味は変わりました」
机の上へ、一枚の写真が置かれる。
日付。
《1999.9.10》
写真には数人の男女が写っていた。
笑っていない。
疲れた顔をしている。
それでも。
視線だけは強かった。
「これは?」
「最初期の調査記録です」
神崎は答えた。
「世界が十三分止まった後、最初に集められた人間たちです」
青年は写真を見る。
二十七年前。
自分が知らない場所で。
誰かは、ずっと調べ続けていた。
昨日まで知らなかった世界が。
実はずっと存在していた。
その事実だけが重かった。
神崎は、別の資料を取り出した。
今度のものは薄かった。
「これは、あなたに関係する記録です」
青年の表情が変わる。
「自分の?」
「正確には、あなたが経験した現象についてです」
資料には簡単な記録だけがあった。
発生日時。
午後十一時三十一分。
確認事項。
複数の時計停止。
不明な表示。
そして。
最後の項目。
『対象者による認識』
青年はその文字を見つめた。
「対象者……」
神崎は頷く。
「私たちは、異常に遭遇した人間をそう呼ぶことがあります」
「実験対象という意味ですか」
青年の声に警戒が混じる。
神崎は首を横に振った。
「違います」
即答だった。
「観測した人間です」
その言葉に、青年は少しだけ息を吐いた。
だが。
疑問は残る。
「なぜ、自分なんですか」
神崎はすぐには答えなかった。
「分かっていません」
意外な答えだった。
「分からない?」
「はい」
神崎は資料を閉じる。
「だから調べています」
万能な答えを持っているわけではない。
神崎もまた、未知を追っている側だった。
「ただ、一つだけ分かっていることがあります」
青年を見る。
「異常は、人を選んで起こるわけではありません」
沈黙。
「では……」
青年が問いかける。
神崎は静かに続けた。
「異常に気づいた人間が、関わることになります」
その言葉が胸に残った。
あの夜。
自分は時計が止まったと思った。
違った。
止まったのは時計だけではない。
自分の日常も。
あの瞬間から、少しだけ止まっていたのかもしれない。
神崎は最後の資料を差し出した。
そこには、一つの地名が書かれていた。
第三章で見たものと同じ場所。
青年は紙を受け取る。
「ここへ行けば……」
神崎は首を振った。
「答えがあるとは限りません」
一拍。
「ですが、始まりはあります」
青年は紙を見る。
知らない場所。
それでも。
胸の奥では、何かが反応していた。
世界の境界。
その向こう側へ続く入口。
青年はまだ知らなかった。
この一枚の紙が。
二十七年前から続く記録の先へ、自分を導くことを。