3.4.5話、まとめて投稿します。
「そういえば」と思い出したように、ポケットから缶コーヒーを取り出して、机の上に乗せた。白い靄は出ない。
ホワイトボードには、書き殴ったような文字で”高次元の何かだ……”と、下の方、その隅に小さく書かれている。
クサィナー氏とピーブリッツ氏がこちらに顔を向ける。
幽霊が極限まで収束し、人間の身体を、脳神経の網目構造まで寸分違わず再現したらどうなるのか…………。
虚数の領域にもう1人の自分を送り込むことができるのではないか?
時間や空間の概念を超越した位置から、宇宙を観測できるのではないか?
先日、戯れのように、しかし本気で提示した問いかけだ。
クサィナー氏も、ピーブリッツ氏も驚きはしたが否定も蔑みもしなかった。薄々は、同じことを考えていたのだろう。それから、何も言う必要はなくなった。
『問題は、幽霊になって飛び回ったあとで、その経験が実数軸上の自分自身にどうアップロード……いや、ダウンロードか?されるのかということだ。』
クサィナー氏が、グイと前のめりになって話しかけてくる。まだ何も言っていないのに、だ。
『一度”幽霊になれば、どういう条件で身体が重くなるか”を検証するしかないのでは?』
ピーブリッツ氏がリラックスしたまま意見を上げ、クサィナー氏の言葉が続く。
『幽霊状態でも自身の変化を知覚できるかがわからないぞ?あくまでも、”その一瞬”を切り取ったものになるとも考えられる。それに、相対的な変化だった場合は、客観的な物差しとなるものが必要だ。』
『今のところ、幽霊に触れたことは…………ないですね……。』
わたしが、やはり空想だなと自嘲すると、コトリとコーヒーカップを置いて、アサカ女史が参加してきた。
『とはいえ、触れているも同然です。「そうなるかもしれない」という”面”から、「こうなっている」という”線”へと次元が落ち込むのなら、”変化の主体が環境との相互作用を持っていると考えた時、環境が持つ情報が主体が持つ情報へと変換される”という理屈も成り立ちます。視えているのですから。』
『情報といっても、人間の脳にとっては電気信号だ。外部から電磁波として送り込まれれば、ニューロンたちだって適応するだろう。アニメで見たんだ。』
ピーブリッツ氏が冗談めかして言う。
『虚数の領域で見たものを記録した幽霊のレコードを、電磁波として再生するか。「こうなった」という領域で、白い靄が都合良く”磁石”を揺らしてくれるだろうか……』
わたしが顎に触れて思案する姿に同調するように、クサィナー氏が、腕を組んで目を伏せる。
『とはいえ、順序があるのは良いことだ。虚数の領域で幽霊がレコードを吹き込む。複素数的な”アンカー”が針となってレコードを再生する。電磁波となって生身の身体に聞かせる。』
アサカ女史が、自信のありそうな様子で話し続ける。
『もしかしたら、媒介そのものが必要ないかもしれません。幽霊と生身にリンクがあるのならば、必ずフィードバックされるはずです。素粒子レベルで同調する程の、強い重なりなら。』
アサカ女史が続ける。
『現にわたしたちは、幽霊たちのイタズラがなければここにはいません。』
ピーブリッツ氏がふらりと椅子を捻りながら話す言葉へと、アサカ女史は真っ直ぐに返す。
『例え話の域を出ていないのでは?』
『数学も同じですよ?事象や概念に名前をつけて、予測計算を行っているだけです。でも、人間が扱えば、それは事象です。』
『これは何ですか?』
アサカ女史が、両手で何かを持つような仕草をしてみせる。
『そうか!揺らぎか!真空の揺らぎだろう!?』
クサィナー氏が、堰を切ったように話し始める。
『幽霊となっても、素粒子サイズまで精巧に写し取った影は、”隙間”すら正確に写し取っているということだ。それは、虚無とは違うものだ。』
『白い靄という認識となって現れていることが、その証拠だ。』
『”同時に存在する”からこそ、”同期していなければならない”。』
『”虚数領域へ行くという意思決定”が物質的な確率収束する瞬間の一点なら、次の瞬間には”虚数領域へ降り立っている”という因果律がなければ破綻してしまう。』
『真空の揺らぎを因果律という連続性の寝床だとするのならば、無限の広さを持った寝床が、使用者の体温を伝播させようとするようなものだ!』
『幽霊たちは、収束という自らの本能に基づいて、人を縄張りへ迎え入れる必要があるというわけだ!そして、旅人が何処から来たのかをずっと、噂話のように伝え続ける!』
ピーブリッツ氏が、話をまとめに入ってくれる。
『我々、実時間の住人にとって、虚数の時間が横向きであるように、虚数の幽霊たちにとっては、実数の時間が横向きに見える。つまり、面積だ。』
『過去は変えられないから壁になっているとして、未来へは、自分自身が揺らぐから移動できない。』
『幽霊化というゼロポイントからなら、一方向へは行ける。あとは、クサィナー氏のおっしゃった通り。』
クサィナー氏が、自分に語らせろと言わんばかりに話しの続きを引き受ける。
『虚数領域を一方向へ移動するということは、特異点が宇宙空間として広がるようなもの。』
誰がどの言葉を発したか、もはやどうでもよかった。
『三次元の広がりは持たず、二次元のまま、距離だけが伸びていく。』
『幽霊自身が無限の分布を持っていれば、空間の変わりをしてくれる。』
『過去が地面。未来は手の届かない空。そして、平面だけが存在する宇宙…………。』
『平面に着けた足跡が、因果律の同期として生身にフィードバックされる……。』
『真空の振動として…………脳へ……。』
わたしたちは、普段はクサィナー氏に使ってもらっている大きめのソファーの周りに集まっていた。
あれから、善は急げとでも言わんばかりの勢いで、旅に出てみろと言われ続けた。
しかし、これにはどうしようもなく、タイミングというものがある。幽霊たちが極限まで収束した状態――それがさらに収束を重ねて、人間を”まるごと”、”ありのまま”に写し取るほどの密度になるのを待たなければならない。
だからこそだ。わざと言葉にして約束させ、未来を強く決定しなければならないのだ。
こうなると、誰が行くかも重要になるのだが、言い出しっぺの法則とでも言うのか、わたしが行くのが既定路線のようだった。
議論も何度も繰り返して行い、論理的な整合性に破綻がないか、思索を重ね続けた。『これで行ける』との強い確信も湧いてくる。
そうして幽霊研究会の建物は、四六時中白い靄が歩き回るようになり、いつも議論を行っている机と、いつも座っている椅子には、必ず白い靄が座っている状態にまでなった。
さらに数日が過ぎ、トイレで黄金の放物線を描いていた時、空っぽのはずの幽霊の放物線が、たしかに温かく感じられた。
いよいよだと、思うことができた。
『1秒経っても目を開けなかったら、葬式の準備を始めるぞ。』
『わかってますよ。』
『真っ直ぐ行って真っ直ぐ帰ってくるだけだぞ!?』
『わかってますよ。』
『記念に旗を立ててきてください。』
『虚数でできた旗を用意してくれるのならね。』
ソファーの上には、確かにわたしの輪郭を作っている白い靄が、身を沈めている。尿意には、まだ余裕がある。
わたしは、白い靄と重なった。現実世界が、上から下へとパタンと折り畳まれ、そして、わたしの身体が白い靄となった。
白い靄となったわたしが、その不思議な平面に立った。
人類で初めて、時が止まった世界へとやって来たのだ。
足下には過去が、頭上には未来がある。
幽霊の身体で、幽霊自身が作る空間を眺めれば、それは、アクアリウムの内側のような煌めき、そして、南国の透明な海の、珊瑚礁のように思えた。
足下の過去は、鏡のようにも見える。奥行きがあるように見えて、その実、硬い平面だ。頭上の未来は、目が眩んだ時のようにぼやけて、揺らめいている。
わたしは一時、尿意すらも忘れて見入った。
これが、幽霊たちが見ている景色なのだな…………
わたしは、トイレに行きたくなる前に、宇宙の果てを見に行くことにする。
どんなに長い旅になっても、実時間では1ミリたりとも時間は進んでいないのだ。
一歩を踏み出そうと足を上げた瞬間から、落下速度を思わせるような、とてつもない速さで景色が後ろへと流れていく。
幽霊の速度は無限大。しかし、映し出されたわたし自身は、光速でしか動けないようだ。幽霊たちも律儀に、物質が物質たり得る前提を守っているのだ。
踏み出した一歩が、地面を捉える。その足跡を見たくて、後ろへ向き直る。
星空だ…………
足跡の形に穴が空いたように、その向こう側には、宇宙空間が見える。
わたしが、実時間の住人だからだろうか。
この速度無限大の幽霊が過去に、たとえ一瞬の過去であっても、それに触れるということは、確率の収束に引き寄せられる性質を持った幽霊たちにとっては、矛盾が極限まで膨らむことだ。無限大の分布が点に収まる。点と無限大が等しくなる。点が無限大に広がる。
幽霊たちに、わたしたちと同じ時間が流れていれば、綺麗なループになっていただろう。
しかし、幽霊たちには、そうした順番がない。点と無限大が、最初から等価値なのだと思う。
だからだろう。虚数でありながら実数であるわたしの足跡は、その靴裏の面積だけを横向きの時間へと連れ去ってしまうのだ。
わたしは再び前を向き、光速での移動を再開した。
実数の宇宙では、何光年の距離を進んだのだろうか。わたしの一歩は、十数万キロメートルはあるはずだ。宇宙からすれば、たったの十数万キロだ。
それから、飽きもせずに歩き続けた。疲れることはない。飽きることもない。意識だけがどんなに巡っても、本当の身体は一歩も動いていないからだ。
あれから何年が過ぎたのだろうか。天の川銀河は出たのだろうか。
あれから何十年が過ぎたのだろうか。天の川銀河は、もう彼方へ置いてきたのだろうか。
未だ、飽きもせず、疲れもせず、しかし、近道くらいなら試してみても良いのではないか?
『今のわたしは、虚数だ。』
突如として、目の前の景色が前方一点へと集中していく。