わたしは、実時間というルールを破ってしまったことを後悔した。
景色が前方一点に集中するということは、速度が、正真正銘の最高速度に達したということだ。
やってしまった…………
幽霊たちの領域に近づきすぎた。もしかしたら、座標のイメージを失うかもしれない。
しかし、未来への移動はしていないのは確かだ。”わたし自身”が、まだここにいるからだ。一歩でも未来方向へ移動すれば、幽霊の身体は、”確率の揺らぎ”で輪郭がぼやけていくはずだ。こうして自己認識できているという事実そのものが、わたしが現在という地面に足を付けている証拠だ。
暗闇が、前方から全てを飲み込んだ。
夢から覚めたような瞬間と、夢の中に入ったような瞬間が、同時に現れた。
それは、幼い頃に走り回っていた下町の景色だった。
木造の家々。何気なく流れる小川。
風にそよぐありきたりな草。
入道雲と大気の青さ。
鉄塔。校舎。工場。
ここが宇宙の最果てなのだろうか……
もはや、人間には計り知れないという事実そのものが、宇宙の最果てそのものなのだろうか。
方向にしても振動にしても、”そこにある”ということは変えられない。”そこになにもない”ということが真実の意味ならば、自分が自分であるという事実だけが、そこに現れるのかもしれない。
懐かしいな…………
グッと、自分の心の中に入っていったような、不思議な感覚だった。
揺らめいているような、ただ寝転んでいるような……
わたしという存在を、幽霊たちが完璧にトレースしたのならば、わたしがわたし足り得るもの全てが、そこに映っているのだろうか。
宇宙の図鑑を抱えて歩いたあの道を、再び歩いてみる。
あの時に座っていたベンチに、何気なく腰掛ける。
走馬灯すら浮かんでこない。
わたしは今、安心してしまっているのだ。
わたしは、ここにいる……
わたしは、天才の如き遊び心で、閃きを実践することにした。
せっかくなのだし、子どもの頃のように、あの草陰で黄金の放物線を描いてやろう。
わたしはファスナーを降ろす振りをし、尿という名の、人間讃歌と不名誉の証の二重性を表現しようとした。
一瞬のことだった。幽霊としての全ての記憶が、一冊の本のように重ねられ、わたしの視覚には、幽霊研究会の、あの寂れた建物のくすんだ天井が映っていた。
クサィナー氏、ピーブリッツ氏、アサカ女史、いつものメンバーが、見送ってくれた時と全く同じ姿で迎えてくれた。
計算通り、一瞬で遥か彼方へ行き、一瞬の内に戻ってきたのだ。
『やあ。久しぶりだね。』
『見えたのか!?虚数の、虚数の世界が!!』
『クサィナー氏。落ち着いてください。』
『頭痛くない?話せるかい?』
『うっ…………』
思い出したように頭が熱くなる。
ピーブリッツ氏が、『ほら』と熱冷ましのシートを渡してくれる。額にシートを貼り付けたタイミングで、水と、熱冷ましの錠剤も渡してくれる。
アサカ女史が、氷嚢をそっと右側頭部に当ててくれ、クサィナー氏までもが、負けじと左側頭部に氷嚢を押し付けてくる。
『ふぅ〜〜………………』
『……すばらしい体験でしたね。』
『お、おぉ…………ど、どんな、どんな体験だったのかね!?』
クサィナー氏は、興奮のあまり鼻息をフンフンと鳴らしている。
『”あなたが”落ち着いてください。』
ピーブリッツ氏が、クサィナー氏に水を渡す。
わたしは、虚数領域の光景、光速を超えてしまった瞬間、宇宙の最果てと思われる場所について、そして、帰還する瞬間のできごとをできるだけ客観的に、論理的に説明した。
『すばらしい……!すばらしいぞ!!ヒン博士!!ヒン・ニョープシャー博士!!』
『落ち着いてください。ベン・クサィナー博士。』
ピーブリッツ氏は、わたしに掴みかかろうとするクサィナー氏の白衣を、ゆったりと座ったまま、掴んでグイグイと引っ張っている。
わたしが横長のソファーに横になっている間、クサィナー氏、ピーブリッツ氏、アサカ女史の3人で、わたしの体験を考察していた。
特に、宇宙の最果てと思われる場所での体験に対し、”計算上そうなるはず”という着地点が、三者三様の予測になっている。
ホワイトボードには、わたしが考案した恥ずかしい演算記号が書かれている。重さも何も無い相手を推し測るには、それに頼るしか方法がないのだ。
準備状態という意味で考えた”st”は、情報的な相互作用と再定義され、確定する確率が高いという意味で考えた”end”は、”st”に対する反動、あるいは、情報的な重さとして再定義されている。
何の機材も使っていない、思考実験の延長のようなできごとだったが、なじみの薄い他のメンバーにも共有した。
興味津々といった様子だったのは3人だけで、残りのメンバーからは、情報共有に対する当たり障りのない謝辞が送られてきた。
わたしをNANKASAへ誘った友人、オエイ・モドシターも、ようやくこちらへ顔を見せた。オエイは、せっかくの体験をしっかりとした論文にしたいようで、なんとかして物質的な観測ができないかと食らいついていた。
あれから、この研究室で幽霊現象は起こっていない。
わたしが、虚数領域で宇宙の果てまで飛んでいったことで、幽霊粒子たちを彼方まで連れ去ってしまったのではないかという結論になった。
それか、幽霊たちにとって、実数の存在と関わることは思った以上にエネルギーが必要なことなのかもしれない。
しかし、人が言葉を交わして明日の予定を決め続ける限り、幽霊たちは再び集まってくるだろう。正体を完全に暴くまで、わたしたちは、この建物のトイレを使い続けるのだ。
NANKASAへ、子どもたちが見学にやって来た。
幽霊研究会には来ないだろうと思っていたが、オエイからの推薦があったようで、こちらにも来るそうだ。オエイからは、是非とも話してあげてほしいと言われている。
寂れた建物と、乱雑だが纏められた書類に、書籍に論文。3台も用意されたホワイトボードにびっしりと書かれた仮説につぐ仮説と、代数だらけの計算式。そして、色のくすんだ数台のパソコンと、サーバーが押し込まれた棚。
とてもじゃないが、子どもたちがロマンを感じるような場所じゃないと思う。
10人ほどの子どもたちが、ワラワラと入ってくる。クサィナー氏が、チームの代表として迎えている。
ピーブリッツ氏は、壁に寄りかかって、にこやかに見守っている。
宇宙オタクの集まりのような空気感のこの部屋に、久しぶりに新鮮な空気が入ってきたように思える。
ホワイトボードの前に集まった子どもたちに対して、クサィナー氏が脂汗を滲ませつつ、必死になって数式の説明をしている。
アサカ女史が、笑いをこらえている。
わたしは、子どもたちの後ろで、一緒になってクサィナー氏の説明を聞いていた。
隣にいた宇宙の図鑑を抱えた少年が、ホワイトボードの片隅に書かれた一文を指差した。
「宇宙の果て」
と書かれている。少年は、真っ直ぐにわたしの顔を見つめて、聞いてきた。
「宇宙の果てには、何があるの?」
わたしは、しゃがんで、少年と目線を合わせた。自分の体験を話すべきかとも思ったが、やめた。
「何があるんだろうね。いつか、行ってみたいね。」
おわり
めっちゃ拙い作品だったと思いますが、読んでくれてありがとうございました。