ヒサオを失ったあと、それぞれの日常は少しずつ動き始めます。
今回は筑摩を中心としたお話です。
第四話「居場所」
雨だった。
高架下を、一人の老婆が歩いていた。
筑摩。
濡れたコートは重く、足取りも覚束ない。
どれくらい歩いただろう。
行く当てもなく、ただ雨を避けるように歩き続けていた。
遠くを車が走り去る。
人影はある。
だが誰もこちらを見ない。
雨音だけが静かに響いていた。
ベンチへ腰を下ろす。
「……。」
帰る場所がない。
家へ戻れば、近所の人に見つかるかもしれない。
病院には戻れない。
警察も。
スマートブレインも。
頼れない。
あの日。
自分を助けた青年。
目隠しをされても分かった。
オルフェノクだった。
だから通報した。
人間が安心して暮らすためには必要なことだと思っていた。
それなのに。
今。
自分も同じ存在になっている。
「罰なのかねぇ……。」
ぽつりと呟く。
頬を伝うのは雨なのか涙なのか、自分でも分からなかった。
「お腹すいた……。」
その時だった。
「お婆ちゃん。」
「!」
目の前に、一人の男が立っていた。
長い髪。
ぶっきらぼうな顔。
「そんなとこで何してんだ。」
「……。」
「家ないのか?」
筑摩は答えられない。
「腹減ってる?」
小さく頷く。
「……。」
「ついてこい。」
「え?」
「別に。」
「余ったから。」
ラーメン屋『中花』。
「店長、お帰りなさい!」
元気な声。
コウタだった。
「海堂さん?」
ケイも顔を出す。
「何ですか、そのお婆ちゃん。」
「拾った。」
「猫じゃないんですから。」
「うるせぇ。」
筑摩は慌てて頭を下げた。
「ごめんなさい。」
「すぐ帰ります。」
「帰る場所あるのか?」
「……。」
「ない。」
「じゃあ帰るな。」
「え?」
「ラーメン食え。」
目の前へ置かれた一杯。
立ち上る湯気。
醤油の香り。
湯気が眼鏡をふわりと曇らせる。
その温かさだけで、胸の奥が少しほどけた。
「いただきます。」
一口。
身体中へ温かさが広がる。
涙がこぼれた。
「美味しい……。」
「そりゃよかった。」
海堂は鍋へ向き直る。
それ以上、何も言わなかった。
数日後。
「お婆ちゃん、ネギお願い!」
「はいはい。」
「ケイちゃん、卵茹でたわよ。」
「ありがとうございます!」
「店長さん、これでいい?」
「おう。」
気付けば。
自然と店を手伝うようになっていた。
「すっかり馴染んじゃいましたね。」
コウタが笑う。
「追い出す?」
「何でだ。」
「いや。」
「別に。」
海堂は照れ隠しのように背中を向ける。
筑摩は思わず笑ってしまった。
閉店後。
静かな店内。
壁には何枚もの写真が飾られている。
「賑やかですね。」
「あ?」
「昔からのお仲間ですか?」
「まぁな。」
海堂は短く答える。
写真の中。
若い青年が笑っていた。
その笑顔を見た瞬間。
なぜか胸が少しだけ痛んだ。
「……。」
しかし筑摩は首を振る。
知らない。
知るはずもない。
あの日、自分を助けた青年の顔など、見えていなかったのだから。
夜。
店の屋上。
筑摩は夜空を見上げていた。
「……。」
人間じゃない。
誰にも言えない。
ここを追い出されたら。
もう居場所はない。
「どうした。」
海堂だった。
「店長さん。」
「眠れねぇのか。」
「少し。」
「そうか。」
缶コーヒーを一本、隣へ置く。
「店長さん。」
「あ?」
「どうして。」
「どうして親切なんですか?」
「知らん。」
「え?」
「困ってたから。」
「……。」
「それだけだ。」
そう言うと海堂は階段を下りていく。
筑摩は缶コーヒーを握りしめ、小さく笑った。
「変な人。」
その様子を。
向かいの電柱の上から、一人の女が見つめていた。
黒いコート。
雨粒が肩を伝い落ちる。
背には、濡れた黒い翼。
シュライクオルフェノク。
「……。」
「生きてる。」
「失敗したのね。」
冷たい瞳は店へ向けられたまま動かない。
だが、その足は一歩も踏み出さなかった。
まるで。
自分もまた、帰る場所を失った鳥であるかのように。
――第四話「居場所」終――
次回 第五話「蚊」
海堂たちの口から語られる、一人の青年。
困っている人を放っておけなかった、馬鹿な配達員。
そして筑摩は、まだ知らない。
その青年こそ、自分を助け、そして自分の通報がきっかけで命を落としたオルフェノクだったことを――。