中花の日常は続いていきます。
けれど、その日常には、一人だけ足りない人がいました。
第五話「蚊」
朝。
ラーメン屋『中花』。
「お婆ちゃん!」
「はいはい。」
「ネギ!」
「切ってるわよ。」
「ケイちゃん!」
「味玉できてます!」
「店長!」
「うるせぇ!」
コウタが笑う。
「今日も平和ですね。」
「そうねぇ。」
筑摩も笑う。
不思議だった。
居場所なんて、もうないと思っていた。
それなのに。
気付けばここで笑っている。
◇
昼過ぎ。
出前の注文が入る。
「あ。」
コウタが固まる。
「しまった。」
「どうした?」
「バイクのオイル交換、忘れてました。」
海堂が呆れる。
「お前なぁ。」
ケイがぽつりと言う。
「ヒサオさんなら。」
空気が少し静かになる。
「……。」
筑摩は首を傾げた。
「ヒサオさん?」
コウタが少し笑う。
「昔、この店で配達してた人です。」
「優しい人だったんですよ。」
「優しい?」
「困ってる人を見つけると放っておけなくて。」
海堂が鼻を鳴らす。
「馬鹿だった。」
短い一言。
それだけだった。
けれど。
その声はどこか優しかった。
◇
夕方。
店の裏。
「店長さん。」
「あ?」
「ヒサオさんって。」
「そんなに優しかったんですか?」
海堂は少し考えてから言う。
「優しいっていうか。」
「放っとけねぇ奴だった。」
「困ってる奴見ると。」
「自分のこと後回し。」
「怒っても聞かねぇ。」
「そういう馬鹿。」
筑摩は静かに頷いた。
胸の奥が少しだけ痛んだ。
知らない人の話なのに。
どうしてだろう。
◇
夜。
閉店後。
店内。
コウタが写真立てを拭いていた。
「これ。」
筑摩が尋ねる。
「ヒサオさん?」
「そうです。」
写真の中には、笑顔の青年がいた。
「よく笑う人だったんですよ。」
それ以上は誰も語らなかった。
海堂も黙ったまま、店内を片付けている。
静かな時間だけが流れた。
◇
夜。
屋上。
筑摩は一人、風に当たっていた。
ブーン。
一匹の蚊が腕に止まる。
「ふふ。」
「刺すなら優しくしてね。」
その瞬間。
ふと、思い出す。
トラック。
目隠し。
温かい手。
『お婆さん、危ない!』
そして。
人間の姿に戻って去っていった青年。
蚊のような羽。
赤い瞳。
「……。」
筑摩は小さく笑う。
「きっと。」
「今日も誰かを助けてるんだろうねぇ。」
夜風だけが答えた。
◇
一方。
向かいの電柱の上。
シュライクオルフェノク。
「……。」
今日も見ていた。
中花。
笑い声。
筑摩。
「何で。」
「通報した女が。」
「笑ってるのよ……。」
理解できなかった。
人間も。
モスキートも。
そして。
自分自身も。
それでも。
彼女は今日も去れない。
ただ静かに。
店の灯りを見つめ続けていた。
◇
翌朝。
「店長!」
「何だ。」
「蚊!」
「あ?」
「蚊がいます!」
「退治しましょう!」
海堂は振り返りもせず答えた。
「放っとけ。」
「え?」
「腹減ってんだろ。」
一瞬、店内が静かになり。
次の瞬間。
コウタとケイが吹き出した。
「店長、優しい!」
「うるせぇ!」
筑摩も思わず笑った。
「変な人。」
その笑い声を。
向かいの電柱の上から。
シュライクオルフェノクが静かに見つめていた。
「……。」
「馬鹿ばっかり。」
――第五話「蚊」終――
次回 第六話「ありがとうも、ごめんなさいも」
「あのオルフェノクに助けられたんです。」
筑摩のその一言が、止まっていた時間を動かす。
海堂たちは初めて知る。
目隠しをしてまで人を助けた青年が、最後まで案じていた"お婆さん"が、目の前にいることを――。