『Corvus ―オルフェノクがいるよ―』   作:木崎真帆

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第五話です。

中花の日常は続いていきます。
けれど、その日常には、一人だけ足りない人がいました。


第五話「蚊」

第五話「蚊」

 

 朝。

 

 ラーメン屋『中花』。

 

「お婆ちゃん!」

 

「はいはい。」

 

「ネギ!」

 

「切ってるわよ。」

 

「ケイちゃん!」

 

「味玉できてます!」

 

「店長!」

 

「うるせぇ!」

 

 コウタが笑う。

 

「今日も平和ですね。」

 

「そうねぇ。」

 

 筑摩も笑う。

 

 不思議だった。

 

 居場所なんて、もうないと思っていた。

 

 それなのに。

 

 気付けばここで笑っている。

 

 

 昼過ぎ。

 

 出前の注文が入る。

 

「あ。」

 

 コウタが固まる。

 

「しまった。」

 

「どうした?」

 

「バイクのオイル交換、忘れてました。」

 

 海堂が呆れる。

 

「お前なぁ。」

 

 ケイがぽつりと言う。

 

「ヒサオさんなら。」

 

 空気が少し静かになる。

 

「……。」

 

 筑摩は首を傾げた。

 

「ヒサオさん?」

 

 コウタが少し笑う。

 

「昔、この店で配達してた人です。」

 

「優しい人だったんですよ。」

 

「優しい?」

 

「困ってる人を見つけると放っておけなくて。」

 

 海堂が鼻を鳴らす。

 

「馬鹿だった。」

 

 短い一言。

 

 それだけだった。

 

 けれど。

 

 その声はどこか優しかった。

 

 

 夕方。

 

 店の裏。

 

「店長さん。」

 

「あ?」

 

「ヒサオさんって。」

 

「そんなに優しかったんですか?」

 

 海堂は少し考えてから言う。

 

「優しいっていうか。」

 

「放っとけねぇ奴だった。」

 

「困ってる奴見ると。」

 

「自分のこと後回し。」

 

「怒っても聞かねぇ。」

 

「そういう馬鹿。」

 

 筑摩は静かに頷いた。

 

 胸の奥が少しだけ痛んだ。

 

 知らない人の話なのに。

 

 どうしてだろう。

 

 

 夜。

 

 閉店後。

 

 店内。

 

 コウタが写真立てを拭いていた。

 

「これ。」

 

 筑摩が尋ねる。

 

「ヒサオさん?」

 

「そうです。」

 

 写真の中には、笑顔の青年がいた。

 

「よく笑う人だったんですよ。」

 

 それ以上は誰も語らなかった。

 

 海堂も黙ったまま、店内を片付けている。

 

 静かな時間だけが流れた。

 

 

 夜。

 

 屋上。

 

 筑摩は一人、風に当たっていた。

 

 ブーン。

 

 一匹の蚊が腕に止まる。

 

「ふふ。」

 

「刺すなら優しくしてね。」

 

 その瞬間。

 

 ふと、思い出す。

 

 トラック。

 

 目隠し。

 

 温かい手。

 

『お婆さん、危ない!』

 

 そして。

 

 人間の姿に戻って去っていった青年。

 

 蚊のような羽。

 

 赤い瞳。

 

「……。」

 

 筑摩は小さく笑う。

 

「きっと。」

 

「今日も誰かを助けてるんだろうねぇ。」

 

 夜風だけが答えた。

 

 

 一方。

 

 向かいの電柱の上。

 

 シュライクオルフェノク。

 

「……。」

 

 今日も見ていた。

 

 中花。

 

 笑い声。

 

 筑摩。

 

「何で。」

 

「通報した女が。」

 

「笑ってるのよ……。」

 

 理解できなかった。

 

 人間も。

 

 モスキートも。

 

 そして。

 

 自分自身も。

 

 それでも。

 

 彼女は今日も去れない。

 

 ただ静かに。

 

 店の灯りを見つめ続けていた。

 

 

 翌朝。

 

「店長!」

 

「何だ。」

 

「蚊!」

 

「あ?」

 

「蚊がいます!」

 

「退治しましょう!」

 

 海堂は振り返りもせず答えた。

 

「放っとけ。」

 

「え?」

 

「腹減ってんだろ。」

 

 一瞬、店内が静かになり。

 

 次の瞬間。

 

 コウタとケイが吹き出した。

 

「店長、優しい!」

 

「うるせぇ!」

 

 筑摩も思わず笑った。

 

「変な人。」

 

 その笑い声を。

 

 向かいの電柱の上から。

 

 シュライクオルフェノクが静かに見つめていた。

 

「……。」

 

「馬鹿ばっかり。」

 

――第五話「蚊」終――

 

次回 第六話「ありがとうも、ごめんなさいも」

 

「あのオルフェノクに助けられたんです。」

 

筑摩のその一言が、止まっていた時間を動かす。

 

海堂たちは初めて知る。

 

目隠しをしてまで人を助けた青年が、最後まで案じていた"お婆さん"が、目の前にいることを――。

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