「ありがとう」も。
「ごめんなさい」も。
いつか言えばいいと思っていた言葉ほど、
その「いつか」は、突然失われることがあります。
第六話。
届かなかった二つの言葉のお話です。
# 第六話「ありがとうも、ごめんなさいも」
雨だった。
閉店後。
ラーメン屋『中花』。
コウタとケイは先に帰り、店には海堂と筑摩だけが残っていた。
「店長さん。」
「あ?」
「少し、お話してもいいですか。」
「別に。」
海堂は食器を拭きながら答える。
「……私ね。」
「うん。」
「人に助けられたことがあるんです。」
「そうか。」
「オルフェノクに。」
海堂の手が止まる。
「……。」
「トラックに轢かれそうになった時。」
「目隠しをされて。」
「そのまま助けてくれて。」
「人間の姿に戻って。」
「何も言わずに行ってしまった。」
「……。」
「怖かったんです。」
「オルフェノクが。」
「だから。」
「通報しました。」
海堂は何も言わない。
「最低でしょう?」
「……。」
「助けてもらったのに。」
「化け物だって。」
「怖いって。」
「通報して。」
「……。」
「その人。」
「蚊みたいな羽でした。」
海堂が顔を上げる。
「何?」
「え?」
「赤い目。」
「うん。」
「細い羽。」
「……うん。」
「目隠ししたか?」
筑摩が驚く。
「何で知ってるんです?」
「出前の途中だったか?」
「そう。」
「急いでた。」
「店長が怖いって言ってたか?」
「……。」
「言ってた。」
「『店長に怒られる』って。」
海堂は俯いた。
「馬鹿野郎。」
「え?」
「そいつ。」
「ヒサオだ。」
筑摩が固まる。
「……え?」
「うちの出前。」
「モスキートオルフェノク。」
「……。」
「写真。」
「見ただろ。」
「……。」
筑摩の脳裏に。
店の写真。
笑顔の青年。
デルタのポーズ。
「……。」
「……あの子?」
「おう。」
筑摩の手から湯呑みが落ちた。
◇
「……。」
「嘘。」
「嘘でしょう?」
「本当だ。」
「だって。」
「だって。」
「元気なんでしょう?」
海堂は答えない。
「店長さん?」
海堂は、答えない。
静かな沈黙。
そして、
「……死んだ。」
筑摩の呼吸が止まる。
「え?」
「ミューズと戦った。」
「最後まで。」
「戦おうとして。」
「……灰になった。」
「……。」
「その時。」
海堂の声が震える。
「最後まで。」
「お婆さん無事だといいなぁ。」
「って。」
「言ってた。」
筑摩の瞳から涙が溢れる。
「……。」
「私を。」
「心配してたの?」
「おう。」
「通報したのに?」
「おう。」
「恨んで。」
「なかったの?」
「知らん。」
「でも。」
「ヒサオだからな。」
海堂は小さく笑った。
「馬鹿だった。」
◇
「……ごめんなさい。」
筑摩は泣き崩れる。
「ありがとうも。」
「ごめんなさいも。」
「言えなかった。」
「私。」
「助けてもらったのに。」
「通報して。」
「死んで。」
「それなのに。」
「何も言えなかった。」
「……。」
海堂はしばらく黙っていた。
「なぁ。」
「……。」
「ヒサオなら。」
「何て言うと思う?」
「……。」
「知らない。」
「『お婆さん無事ならよかった』」
「それだけだ。」
筑摩は泣いた。
声を上げて。
子供のように。
◇
その頃。
向かいの電柱。
雨。
黒いコート。
シュライクオルフェノク。
「……。」
全部聞いていた。
「何なの。」
「本当に。」
「馬鹿。」
あの女。
通報した女。
恨んでもいい。
憎まれて当然。
なのに。
泣いている。
そして。
死んだ蚊の男は。
最後まで。
女の無事を願っていた。
「……。」
「理解できない。」
シュライクは空を見る。
雨が強くなる。
「本当に。」
「馬鹿ばっかり。」
◇
店の中。
「店長さん。」
「あ?」
「私。」
「どうした。」
「ヒサオさんに。」
「ありがとうって。」
「言いたかった。」
「……。」
「ごめんなさいも。」
「……。」
「でも。」
「もう。」
「言えない。」
海堂は食器を置く。
「言えばいい。」
「え?」
「言っとけ。」
「届くかどうかなんざ知らねぇ。」
「でも。」
「言わねぇよりマシだ。」
「店長さん。」
「知らん。」
「馬鹿だから。」
筑摩は涙を拭く。
「……ありがとう。」
「ごめんなさい。」
「ありがとう。」
窓の外。
雨が降り続いていた。
そして。
そのさらに向こう。
電柱の上の女は。
初めて。
自分の胸が痛む理由を知らなかった。
◇
店内。
誰もいない。
写真立てを見ながら。
海堂が小さく呟く。
「……。」
「ありがとな。」
「馬鹿野郎。」
---
**――第六話「ありがとうも、ごめんなさいも」終――**
次回、**第七話「雨の女」**
「私はあなたを殺した。」
雨の中、電柱の上から見つめていた女。
シュライクオルフェノク。
そして彼女の口から語られる、筑摩がオルフェノクとなった真実。
その時、海堂たちは初めて知る。
筑摩もまた、人間ではないことを――。