「帰ってきていい。」
その一言はありません。
それでも、
誰かを迎える灯りがあり、
湯気の立つ一杯があり、
「いただきます」と言える場所がある。
それだけで、
居場所になることがあります。
# 第八話「中花」
朝。
ラーメン屋『中花』。
「お婆ちゃん!」
「はいはい。」
「ネギ!」
「切ってるわよ。」
「ケイちゃん、味玉!」
「できてます!」
「コウタ、チャーシュー!」
「はい!」
「うるせぇ!」
海堂の怒鳴り声。
笑い声。
湯気。
ラーメンの匂い。
いつもの朝だった。
ただ一つ。
変わったことがある。
「また見てる。」
筑摩は窓の外を見て笑った。
向かいの電柱。
黒いコートの女。
シュライクオルフェノク。
今日もいる。
「見てない。」
「見てる。」
「見てない。」
「そう。」
「見てない。」
シュライクは顔を逸らした。
◇
昼。
出前から戻ったコウタが笑う。
「またいましたよ!」
「あ?」
「電柱の上!」
海堂が顔を上げる。
「……。」
「暇なんだな。」
「店長!」
「呼びます?」
「うるせぇ。」
「余ってねぇ。」
ケイが笑う。
「余ったら呼ぶんですね?」
「知らん。」
◇
夕方。
閉店後。
筑摩は店の外に出た。
「今日も来てたわね。」
「来てない。」
「見てた。」
「見てない。」
「じゃあ。」
「何してたの?」
「……。」
「知らない。」
シュライクは空を見る。
「帰る場所なんて。」
「ないし。」
「だから。」
「何となく。」
筑摩は微笑んだ。
「あるじゃない。」
「え?」
「中花。」
「嫌。」
「何で?」
「私は。」
「オルフェノク。」
「うん。」
シュライクは視線を落とした。
「化け物。」
「うん。」
雨に濡れた手が小さく震えている。
「人殺し。」
「……。」
「だから。」
「入れない。」
筑摩は少し考えて。
優しく笑った。
「じゃあ。」
「お客様になれば?」
「は?」
「食べるだけ。」
「嫌。」
「美味しいのよ?」
「いらない。」
「本当は?」
シュライクは少し黙った。
「……知らない。」
◇
その夜。
店の裏。
「おい。」
海堂だった。
「!」
「何。」
海堂はどんぶりを差し出す。
「余った。」
湯気の立つラーメンだった。
「食うか。」
「いらない。」
「そうか。」
海堂はそのまま店へ戻ろうとする。
「……。」
「待ちなさい。」
「何だ。」
「……本当に余ったの?」
「知らん。」
「嘘。」
「うるせぇ。」
「冷める。」
「……。」
シュライクは受け取った。
一口。
「……。」
「不味いか?」
「……。」
「変。」
「何が。」
「温かい。」
「当たり前だ。」
「そういう意味じゃない。」
「知らん。」
海堂は店に戻っていく。
「……。」
「変。」
シュライクは呟いた。
◇
翌日。
「店長。」
「あ?」
「一つ聞いていい?」
「何だ。」
「ヒサオさん。」
「……。」
「よくここで食べてた?」
海堂は返事をしなかった。
鍋だけをかき混ぜている。
「……。」
「いや。」
「何でもねぇ。」
◇
夜。
閉店後。
暖簾は下ろされている。
「おい。」
「何。」
海堂は暖簾を親指で指した。
「入れ。」
「嫌。」
「うるせぇ。」
「余った。」
シュライクは暖簾を見つめた。
「嘘。」
「本当だ。」
「嘘。」
「知らん。」
「……。」
筑摩が笑う。
「一回だけ。」
「嫌。」
「一回。」
「……。」
「一回だけ。」
その暖簾の向こうから、
光。
ラーメンの匂い。
笑い声。
が漏れていた。
怖かった。
入ったら。
失うかもしれない。
でも。
「……。」
「一回。」
暖簾をくぐる。
「お!」
コウタが立ち上がった。
「いらっしゃい!」
「え?」
ケイも笑う。
「初めまして!」
シュライクは店内を見回した。
誰も警戒していない。
「……。」
「お客様です。」
筑摩が嬉しそうに笑う。
「座って。」
「嫌。」
海堂が空いた席を顎で示した。
「座れ。」
そう言いながら、どんぶりを置いた。
「ほら。」
「……。」
「いただきます。」
誰も笑わない。
誰も驚かない。
ただ。
当たり前のように。
海堂が箸を取る。
「いただきます。」
「いただきます!」
「いただきます!」
「いただきます。」
シュライクは小さく呟いた。
「……いただきます。」
一口。
「……。」
「どう?」
筑摩が聞く。
シュライクは少しだけ考えてから答えた。
「変。」
「え?」
「温かい。」
コウタが笑う。
「店長、褒められてますよ!」
「うるせぇ。」
ケイも笑う。
「よかったですね!」
海堂は背中を向けたまま。
「知らん。」
シュライクは周りを見る。
笑い声。
湯気。
ラーメン。
そして。
壁の写真。
ヒサオ。
「……。」
「馬鹿。」
小さく呟く。
「本当に。」
「馬鹿。」
その目から涙が一滴落ちた。
◇
帰り道。
赤信号。
筑摩とシュライク。
「ねえ。」
「何。」
信号待ちの風が二人の間を吹き抜ける。
「帰る場所。」
「……。」
シュライクは前を向いたまま小さく笑った。
「できちゃった。」
「そう。」
信号が赤のまま、二人は並んで立っていた。
「嫌?」
「……。」
シュライクは青に変わりそうな信号を見つめた。
「変。」
「何が。」
「温かい。」
筑摩は笑った。
「そうね。」
「温かいの。」
信号が青になる。
二人は歩き出す。
その上を。
一匹の蚊が飛んでいく。
その姿を見上げて。
シュライクが小さく呟く。
「……馬鹿。」
筑摩は笑う。
「そうね。」
「本当に。」
「馬鹿だったわね。」
雨はもう降っていなかった。
中花の灯りは、
今日も、
誰かの居場所を照らしていた。
人も。
オルフェノクも。
分け隔てなく。
誰かが帰ってこられる場所として。
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**――第八話「中花」終――**
次回、最終話。
「オルフェノクがいるよ」
あの日。
一人の青年は、
誰にも知られないまま、
一人の命を救った。
そして今度は、
救われた命が、
誰かの居場所になろうとしている。
「オルフェノクがいるよ」
その言葉の意味が、
静かに変わる。