この漁師と出会ったのは随分と昔のことだった。
いつも通りに店を開いていると、フラフラとした足取りで一人の男が入店した。白髪の壮年の男は、ゆっくりと椅子に座り、酒を飲んでいた。
最初は気に止めることもしなかった。ここまで歳を重ねたフィクサーが大湖で活動するのは確かに珍しいが、別にあり得ないわけではない。
俺がその男を認識したのは、知り合いのとこのガキがそいつについてまわり始めたからだ。暇さえあれば男の漁の準備を手伝って、金ができればその男に何かを奢ろうとしていた。
ある日、その男とガキは珍しくカウンター席に座った。俺から近い位置にあるカウンター席からは、意識せずとも会話が聞こえてくる。
「明日はどこまで行くの?」
「ずっと遠くまでじゃろうな。風が変われば戻る。明るくなる前に沖を出られればいいんじゃがの」
正気を疑った。俺の耳と頭がおかしくなった訳じゃないなら、この男は今、大湖の奥深くへ向かうと言ったのだ。あの五つの厄災が蔓延る地獄に。
思わず振り向いた。そして、俺はそれに目を奪われた。
その老人の眼に宿る不屈に。隣のガキに勝るとも劣らない、何かを成そうとする意思に。
チリチリと、男の咥えている葉巻に火が燻っている。その火は、海と同じく藍色に輝いていた。
「ねえ、店主さん。二人分の料理を包んでくれない?」
その夜、男についてまわるガキが俺に声をかけてきた。俺は咄嗟に聞いた。
「あの漁師に渡すのか?」
「サンチャゴのこと?それならそうだよ」
ぼんやりと、あの男の葉巻の藍色を思い出す。俺は何も言わずに金属容器に料理を詰めて、ついでに引っ張り出した二本のビールと一緒に目の前のガキに手渡した。
「ありがとう。お代は…」
「いらん」
目の前のガキが目を丸くする。
「これは大湖の奥に潜る漁師と、その仲間への餞別だ」
ガキは嬉しそうに笑った後、礼を伝えて去っていった。
その日から数日、あの漁師はここに顔を出さなくなった。大湖の奥深くに向かったのだから、生きて帰って来れる筈がない。港中で漁師の死が囁かれる中でも、あのガキは表情を崩さなかった。
「不安じゃないのか」
「うん。サンチャゴは絶対帰ってくるから」
そう話す少年は、真っ直ぐ大湖を見据えていた。
何かが水を掻く音がした。霧の向こうから藍色の光が覗く。一人の老人が乗った小舟は、後ろに大きな鯨を引っ張ってきていた。
周りのフィクサーがどよめく中、少年が走り出すのを見届けて、俺は笑った。
船から降りてゆっくりと歩いてくる老人は、最早傷のないところを探した方が早い程に酷い有様だった。それでも、やはりその眼だけは誇り高い獅子のような輝きを持っている。
真っ直ぐこちらへ向かってきた漁師は、俺に向かって一つの容器を差し出した。
「飯の代金じゃ。」
手短にそう告げて、背を向けて去っていく。中に入っていたのは、かの五大厄災である全てを貫くマカジキ鯨の肉だった。ご丁寧に時間保存容器に入れられたそれを見て、思わず乾いた笑いが漏れる。随分と過分な代金を受け取ってしまったものだ。
目を赤く腫らした少年が、誇らしげにこう言った。
「言ったでしょ?帰ってくるって!」
今度の笑いは、乾いたものではなく、暖かいものだった。
「なんでお前が誇らしげなんだ」
どちらともなく笑いをこぼしてから、少年が老人の後を追っていく。
チリチリと、いつものようにあの老人の葉巻の藍色が揺らめく。
老人が藍色であると知ったのは、それから暫くしてからだった。
老人はきっと今もライオンの夢を見ているだろう。