357,584円は、30万円より多かった。東央電子を全て売った翌朝、譲司は口座へログインし、保有銘柄が空であることを確かめた。現金残高には357,584円と表示されている。増えたのは57,584円だった。
それなのに、画面全体が35万円の口座へ作り替わったように見えた。最初の30万円と、相場で増えた57,584円は同じ欄に並び、どちらが元金だったかを区別する線はない。譲司は値上がり率ランキングを開いた。東央電子に似た銘柄は、すでに前夜から探してある。
彩光メディカル。東証マザーズ。検査装置の受注増を発表し、医療機器株全体へ資金が入る中で直近高値を更新していた。ニュースだけではない。出来高が増え、高く始まった後も売られず、終値は高値に近い。
東央電子と業種は違う。材料も違う。ただ、買われ方は似ていた。
3月27日の月曜日。登校前に注文理由を書いた。
受注増。
医療機器株の売買代金が増加。出来高を伴って直近高値を更新。高値圏で終えている。
売買単位は100株。株価は1,170円。数量欄へ300と入れる。買付代金351,000円。手数料472円。約定すれば、口座に残る現金は6,112円だった。
30万円から増えた57,584円のほとんどまで使う注文になる。譲司は確認画面で一度止まった。最初の元金30万円だけを残し、増えた分だけを使う方法はない。株は、口座のどの金から買ったかを分けない。
全部が自分の金だった。同時に、増えた57,584円だけは、昨日まで存在しなかった金にも見えた。なくしても30万円へ戻るだけだ。そう考えると、300株は大きくなかった。注文を送信した。短い通知音が鳴る。
東央電子を売った後に計算した2,000株には遠い。それでも、最初の200株より数量は増えた。学校へ向かう道で、譲司は何度も計算した。
1円で300円。100円で30,000円。200円なら60,000円。数量を増やしても、判断の内容は変わらない。正しかった時に残る数字だけは、確実に大きくなる。
春休みの間、彩光メディカルは高値を切り上げた。
1,300円。
1,500円。
1,700円。
途中で大きく下げる日もあった。東央電子なら売却画面を開いていた幅だったが、その日は医療機器株の多くが同時に売られていた。翌日、業種全体へ買いが戻ると、彩光メディカルも高値を更新した。一社だけを見るより、周囲を見た方が値動きの意味が変わった。譲司は相場ノートへ、個別銘柄の横に業種を書き足した。
医療機器。通信。電子部品。建設。
会社の名前が違っても、金が同じ方向へ移ることがある。その流れに乗れば、一社のニュースを細かく理解していなくても利益になるように思えた。
4月5日の水曜日、彩光メディカル300株を1,850円で売った。売却代金555,000円。手数料840円。
現金残高は560,272円になった。東央電子の後に、別の会社でも利益が残った。一度目は偶然かもしれない。二度目があるなら、偶然だけでは説明しにくい。二回しかないという事実より、二回とも当てたという事実の方が大きく見えた。
翌4月6日、東都ネットサービスを500株、1,100円で買った。インターネット広告と企業向け通信を扱う新興会社だった。会社の発表だけなら、彩光メディカルほど強くない。譲司が見たのは、東証マザーズ全体の売買代金が増え、その中でも東都ネットサービスが前日の高値を越えたことだった。
買付代金550,000円。手数料840円。
残った現金は9,432円。口座のほとんどが一つの銘柄へ変わった。迷いがなかったわけではない。ただ、300株でできた判断なら、500株でも同じだと思った。画面に表示される会社名は一つで、出来高の数字も一本だった。
数量だけが増えた。翌7日は高校の入学式だった。新しい制服は肩が少し余り、襟が首へ当たった。玄関で美佐子が写真を撮ろうとすると、譲司は時計を見た。
「市場、もう開いてる?」
「9時から」
「写真は逃げないよ。ほら、こっち向いて」
「株価は動く」
「入学式も今日しかないでしょう」
遥が横から譲司の袖を引いた。
「長い」
「何が」
「腕。お兄ちゃんより制服の方が大きい」
「来年には合う」
「株で背も増えるの?」
「増えない」
「じゃあ学校も必要じゃん」
美佐子が笑い、もう一枚撮った。譲司は制服より先に、家へ戻った後の終値を考えていた。校門の前には、同じような制服を着た生徒と保護者が集まっている。佐伯とは同じ高校へ進んだが、クラスは分かれた。体育館で名前を見つけると、佐伯は軽く手を上げただけだった。式が終わった後、廊下で声をかけられた。
「また時計を見てたな」
「見てない」
「中学の卒業式でも言った」
「今日は2回だけだ」
「数えてる時点で見てるだろ」
佐伯は譲司の鞄から少し出ている相場ノートへ目を向けた。
「前と同じ株を買ったのか」
「会社は違う」
「理由は」
「今回は一社の材料だけじゃない。マザーズ全体へ金が入って、その中で高値を越えた」
「前より長いな」
「何が」
「返事」
佐伯は笑わずに言った。譲司は相場の話を始めると、どこで説明を切ればよいのか分からなくなる。数字を並べれば、途中を省けない。
「聞いたのはお前だろ」
「そこまで答えるとは思わなかった」
佐伯は教室へ戻った。ノートを見せろとも、銘柄を教えろとも言わなかった。譲司には、その距離が楽だった。東都ネットサービスは入学後も上がった。
授業中に取引画面を見ることはできない。朝に注文を出し、帰宅後に結果を知る。学校へいる時間が長くなった分、値動きを確認できない時間も増えた。
4月14日の金曜日。500株を1,620円で売る指値注文を出した。約定時刻は午前9時36分。英語の教師が、教科書の一文を生徒に読ませていた時間だった。譲司はその時、500株が現金へ変わったことを知らない。
帰宅後の現金残高は818,592円。30万円から始めた口座が、1か月ほどで80万円を超えた。夕食で、譲司は自分から話した。
「また増えた」
「え、いくら?」
遥が先に聞いた。
「80万円ぐらい」
「ぐらいって、79万円か89万円かで全然違うよ」
「818,592円」
「えー、細かい……」
聞いたから答えたのに、遥は味噌汁へ戻った。誠一が箸を置く。
「で、学校はどうだ」
「普通」
「授業は」
「まだ最初だから」
「友達は」
「佐伯がいる」
「同じクラスか」
「違う」
「なら、同じクラスの奴とも話せ」
譲司は返事をしなかった。80万円の話は、それで終わった。誠一にとっては、口座が増えたことより、高校で誰と話したかの方が重要らしい。間違ってはいない。
間違っていないから、納得できるわけでもなかった。遥は指を折っている。
「ゲームなら100本ぐらい?」
「買わない」
「プリンなら8,000個?」
「腐る」
「冷蔵庫を買えばいいじゃん」
「その金でプリンが減るだろ」
「お兄ちゃん、使う前提だと急に真面目になるね」
金を物へ換算されると、80万円は部屋に入らない量のプリンになった。口座の中なら、一行で収まっている。譲司は一行の方が好きだった。
翌週、最初の損失を出した。新都市メディアは好決算を発表していた。始値は高かったが、その後は高値を更新できず、終値は始値より安い。出来高だけは増えている。
相場ノートを書き始めた頃なら、買わなかった形だった。良い材料の後に買いが続いていない。自分で作った基準に合わない。それでも、二銘柄続けて利益を出した後では、別の見方ができた。
好決算は消えていない。一度売られても、翌日に買い直されるかもしれない。市場が反応する前に買えれば、利益は大きい。
4月17日の月曜日。1,000株を780円で買った。買付代金780,000円。手数料840円。現金は37,752円残った。
数量は、東都ネットサービスの2倍だった。注文画面へ1,000と入力した時、以前なら桁を読み直していた。今回は二度確認した後、すぐ送信した。慣れたのだと思った。
実際には、金額の大きさに驚かなくなっていただけだった。新都市メディアは翌日も、その次の日も上がらなかった。良い決算は変わらない。会社の利益も消えていない。
変わったのは、買う人間が増えなかったという結果だけだった。譲司は注文前に書いた710円で売ることにした。
4月21日の金曜日。1,000株全てを売却。売却代金710,000円。手数料840円。
現金残高は746,912円。
71,680円減った。東央電子で得た57,584円より大きな損失だった。30万円から見れば、まだ446,912円増えている。その計算を先にした。
だから失敗しても問題はない、と考えた。だが、夕食では何も言わなかった。利益が出た日は、自分から話した。損失の日は、聞かれなければ口座の中だけで終わらせたかった。
週末、美佐子がノートと取引履歴を確認した。新都市メディアの買い理由と売却価格は、注文前の日付で残っている。決めた価格で売ったことも履歴と一致した。
「……損したの?」
「71,680円」
「食事の時、何も言わなかったね」
「毎回報告する約束ではないだろ」
「約束の確認をしてるんじゃないよ」
「聞かれなかったから」
「利益の時は、聞く前に言ったでしょう」
譲司はノートへ目を落とした。
「今回は決めたところで売った」
「それは見れば分かる」
「損失を放置してない」
「うん」
「なら条件は守ってる」
「守ってるよ」
美佐子はしばらく黙り、ノートを閉じた。
「売れたなら、次も同じように書いて」
「分かってる」
損切りできたことを認められたように聞こえた。損失を話さなかったことは、そのまま残った。美佐子も、決めた価格で売れたなら条件が働いていると考えたのかもしれない。それ以上は聞かなかった。
譲司は冷静に負けられると思った。家族へ見せる数字を選び始めたことは、冷静さの外へ置いた。次に選んだのは、東証2部の七星通信だった。株価は360円。売買単位は1,000株。
業績や材料は彩光メディカルほど明確ではない。掲示板には、買収、提携、大口投資家という確かめられない話が並んでいた。譲司は読んだ。ノートには書かなかった。
噂を理由にすれば、下がった時に別の噂を探すことになる。自分で確認できるのは、出来高と売買代金が急増し、下がるたびに買いが戻っていることだけだった。低い株価だから買うのではない。今、買われているから買う。
4月24日の月曜日。2,000株を360円で買った。買付代金720,000円。
手数料840円。
現金は26,072円残った。東央電子の利益を計算した夜、頭の中に置いた2,000株が、今度は実際の保有数量になった。正しさが10倍になるとは考えなかった。代わりに、1円で2,000円動くことを何度も計算した。
4月28日の終値は400円。
口座時価は826,072円。
美佐子に残高を聞かれ、譲司は「増えた」とだけ答えた。
「いくら?」
「前より」
「前って、損した後?」
「そう」
「……そっか。ならいいけど」
よいかどうかを決める話ではない。そう言おうとして、やめた。正確な残高を答えたくない理由を説明する方が難しかった。大型連休を挟んでも、七星通信への買いは続いた。
5月8日の終値は545円。
口座時価は1,116,072円。
100万円を超えた。譲司は制服のポケットから100円玉を取り出した。自動販売機で使わずに残った硬貨だった。画面には1,116,072円。
手の上には100円。どちらも同じ円なのに、片方は指でつまめ、片方は何も持っていない手でも動かせる。家族会議で30万円を失う可能性について話したのは、まだ3か月も前ではない。今の口座には、その3倍以上ある。自分だけが、家族と違う速度で金を増やしているように感じた。
夕食では言わなかった。誰かが聞けば答えるつもりだった。誰も聞かなかった。
5月9日の火曜日、七星通信2,000株を650円で売った。売却代金1,300,000円。手数料1,050円。
現金残高は1,325,022円。
売った理由は、上昇速度が急すぎたからだった。ただ、高いところで売れた結果を見ると、自分は上昇だけでなく、止まる場所まで読めたように思えた。翌10日、譲司は東証マザーズの旭創薬を買った。新薬候補の試験結果を発表し、出来高と売買代金が一気に増えている。高く始まった後も買いは続き、同じ市場のバイオ株へも資金が広がっていた。
3,000株。
430円。
買付代金1,290,000円。手数料1,050円。
現金は33,972円残った。30万円では出せなかった注文だった。最初の口座なら、600株しか買えない。今は3,000株持っている。数量が増えても、画面には旭創薬という名前が一つ出るだけだった。
5月15日の月曜日。旭創薬の終値は590円。保有株の評価額は1,770,000円。現金33,972円を足した口座時価は1,803,972円になった。
1,803,972円。30万円の6倍を超えている。
譲司は更新ボタンを押した。数字は変わらない。
もう一度押した。変わらない。計算は合っていた。
東央電子。
彩光メディカル。
東都ネットサービス。
新都市メディア。
七星通信。
旭創薬。
損失も一度ある。それでも、口座は増えた。業種も材料も値段も違う銘柄で、同じように利益を残している。自分は値動きを読める。
そう考えた時、胸が高鳴るより先に、静かになった。証明が終わったような感覚だった。東央電子の利益は家族へ話した。80万円も話した。
100万円を超えた時は、聞かれなかったから言わなかった。180万円になった今は、最初から言うつもりがなかった。口にすれば、誰かが驚く。誠一は学校の話をするかもしれない。美佐子は記録と睡眠を確認するかもしれない。遥は何個のプリンになるか計算する。
どれも間違っていない。だが、1,803,972円を自分が読んだ結果として扱ってくれる答えではなかった。画面だけは、余計な意味を加えない。数字はそのまま残っている。
譲司はその夜、相場ノートへ最高資産と書かなかった。書けば、翌日に減った時も記録しなければならない気がした。
翌朝、学校で相場ノートを開いた時、佐伯が並んだ銘柄名を見た。
「これ、全部買った株?」
「そう」
「同じ会社を持ち続けて増えたんじゃないんだな」
「その時に買われてるものへ替えた」
「値上がり率ランキングなら、僕も見た」
「なら分かるだろ」
「上がってる株は何十もある。でも、明日も買われる株は分からない」
「出来高と売買代金を見ればいい」
「見たよ。でも、お前と同じ株は選べなかった」
譲司は答えなかった。佐伯が見落とした数字を探した。説明できるはずだった。同じ数字を見ても、同じ順番で意味をつなげられるとは限らないことを、まだ考えなかった。
5月16日の火曜日。旭創薬2,500株を560円で売った。売却代金1,400,000円。手数料1,050円。
現金と残り500株を合わせた口座時価は1,712,922円。前日の1,803,972円から91,050円減っていた。利益を確定したのに、最高値から減った部分が先に見えた。翌17日、残り500株を520円で売った。売却代金260,000円。手数料472円。
現金残高は1,692,450円。
30万円から始めた口座としては、十分すぎる利益だった。最高値からは111,522円減っている。譲司は後者を見た。保有銘柄はなくなった。現金なら減らない。
同時に、現金のままでは増えない。売った直後から、数字が止まっていることが損失のように感じられた。値上がり率ランキングを開く。上がった株は、すでに高く見えた。次に値下がり率ランキングを開いた。
光洋精密。東証2部の精密部品会社。少し前まで高値を更新していた株が、以前の高値から3割ほど下がっている。会社の説明を読む。
精密機器向けの小型部品。主要取引先は国内メーカー。直近の業績に大きな変化なし。工場停止の発表もない。決定的な悪材料も見当たらない。
同じ会社だった。同じ製品を作り、同じ工場を持っている。値段だけが3割安い。
出来高は減っていた。
高値を更新した頃の買いは、もう見えない。相場ノートで作った基準なら、今買う銘柄ではなかった。譲司は、その事実を消さなかった。消さないまま、現在値520円の横へ420円と書いた。
その値段なら、以前の高値からさらに遠くなる。もっと安く買える。何度も上昇を読んだ後では、下がった株の底も読める気がした。譲司は420円を丸で囲んだ。
高値から三割安い。今の譲司には、買われていないという意味より、同じものを安く買えるという意味の方が大きかった。
【今回の運用資産推移】
開始時:357,584円
終了時:1,692,450円
増減額:+1,334,866円
増減率:+373.30%
取引回数:11回
※話中の最高運用資産は1,803,972円です。