5月18日の朝、譲司は光洋精密の注文画面を開いた。前日の終値は520円。以前の高値から3割ほど下がっている。この日の値幅下限は420円だった。会社の説明は、昨日までと同じだった。
精密機器向けの小型部品。主要取引先は国内メーカー。工場停止の発表はない。直近の業績にも、大きな修正は出ていない。
変わったのは株価だった。出来高は減っている。高値を更新していた頃の買いも、もう見えない。前夜、その事実までノートへ書いた。
書いた上で、420円を丸で囲んだ。会社が変わっていないなら、値段だけが安くなった。以前なら、株価と会社は同じではないと考えた。今は、会社が同じなら以前の株価へ戻るはずだと、反対向きに同じ理屈を使っている。譲司は注文前の欄を埋めた。
5月18日 午前7時6分
光洋精密。
業績に大きな変化なし。高値から約3割下落。420円なら反発余地がある。数量は2,500株。
買付代金1,050,000円。手数料1,050円。約定すれば、現金は641,400円残る。旭創薬では3,000株を持っていた。それより500株少ない。
金額は100万円を超えている。それでも、30万円で最初の注文を出した朝より小さく見えた。比較しているのは金額ではなく、以前の自分が扱った数量だった。売る条件の欄で鉛筆が止まった。
420円で買って、どこまで下がれば売るのか。業績が変わっていないなら、下がるほど安くなる。さらに安くなれば、追加した方が平均の買値は下がる。売る条件を書く必要がないように思えた。空欄のまま、注文を送信した。確認画面には、
光洋精密
現物買い
2,500株
420円
と表示されている。右手は震えなかった。通知音が鳴る。学校では、佐伯が前の席から回ってきた英語の小テストを譲司の机へ置いた。
「今日、機嫌いい?」
「普通」
「そう見えない」
「何が」
「朝から時計を3回見てる」
「時間を見ただけ」
「時計って、そのためにあるんじゃないの」
佐伯は答案へ視線を戻した。市場が開くまで、あと10分だった。譲司は現代文の教科書を開いた。余白へ2,500と書きかけ、鉛筆を止める。消しゴムで擦ると、薄い跡だけが残った。
相場のために学校を休んではいない。授業中に取引画面も開いていない。条件は守っている。その事実まで、自分が慎重である証拠へ加えた。
帰宅後、光洋精密2,500株は420円で全て約定していた。終値も420円だった。
現金残高 641,400円
株式評価額 1,050,000円
口座時価 1,691,400円
値幅下限で買えた。安く買えたという満足と、そこまで売られたという事実が、同じ420円の中にある。譲司は満足の方を先に見た。
2,500株なら、1円で2,500円動く。40円戻れば100,000円。60円なら150,000円。
相場ノートへ、戻った場合の数字を書く。下がった場合の数字は書かなかった。値幅下限で買ったのだから、これ以上は下がりにくい。そう考えた直後、新しい値幅下限が翌日に作られることも思い出した。知識としては分かっている。
書かなければ、考えなくてよいわけではない。それでも、その欄は空いたままだった。夕食では、遥が肉じゃがのじゃがいもを箸で半分に割っていた。譲司の皿にも同じものがある。口へ入れたが、味より先に420円という数字が浮かんだ。
「今日、買えた?」
「買えた」
「いくらの株?」
「420円」
「えー、安いじゃん!」
遥は一個の値段だと思ったらしい。
「2,500株」
「じゃあ、いっぱい買ったの?」
「株数では」
「何円使った?」
譲司が答える前に、美佐子が味噌汁の椀を置いた。
「はいはい、その話は食べてから」
止めたわけではない。食事中に画面へ戻らせないためだった。譲司は箸を動かした。だが、食べ終わるまでに420円が何度も頭へ戻った。値幅下限で買えたという事実を、安値を当てたことに近いものとして扱い始めていた。
夜、布団へ入ってからも計算は止まらなかった。460円なら100,000円。480円なら150,000円。520円へ戻れば250,000円。
下がった場合の数字も計算できた。それだけは、途中でやめた。
翌19日の朝、基準値は420円。値幅下限は340円になっていた。前日の理由は、420円なら反発余地がある、だった。反発しなかった。
最初の見方は、少なくとも一日目には外れている。譲司はその事実をノートへ書いた。
終値420円。
反発なし。出来高増加なし。その下に、340円と書く。昨日より80円安く、同じ会社を買える。
2,500株を420円。1,000株を340円。
合計3,500株。買付手数料まで含めた平均取得価格は、およそ397円になる。400円へ戻るだけで、損失の大半が消える。400円へ戻る理由ではない。
戻った場合の計算だった。登校時間が迫っている。譲司は注文理由の欄へ鉛筆を置いた。
売られすぎ。平均単価を下げる。反発した時に売りやすくする。
一行目を書きかけて、止めた。売られすぎだと判断する新しい根拠はない。昨日より下がったという事実しか増えていない。時計を見る。
書いてから注文を出せば間に合わないわけではない。数分で済む。それでも、理由を言葉へ直す時間が惜しかった。数量1,000株。
指値340円。
注文を先に送った。帰宅してから書けばよい。学校へ向かうための妥協だと考えた。実際には、注文前に理由を書くという条件を、初めて順番から外した。
放課後、1,000株は340円で約定していた。終値も340円。
現金残高 300,928円
株式評価額 1,190,000円
口座時価 1,490,928円
前日から200,472円減っている。平均取得価格は約397円まで下がった。
口座の損失は増えた。元へ戻るために必要な上昇幅は小さくなった。譲司は後者を成果として見た。最高口座時価1,803,972円からは、313,044円減っている。30万円から始めた口座として見れば、まだ約5倍ある。
どの数字を基準にするかで、同じ口座は成功にも失敗にも見えた。譲司は成功に見える方を使った。注文を出した後の時刻を書き、理由を埋める。
5月19日 午後4時21分売りが続きすぎている。平均単価を下げる。反発時に逃げやすくする。
最後の行を読み返した。逃げるために買った。最初は、上がると思って買った。今は、買値へ戻るために増やした。
目的が変わっている。譲司は線を引かなかった。消せば、最初から同じ計画だったように見える。
白いページの上へ、穴の並んだ紙テープが重なった。数字が一段下がる。知らない男の手が、買い注文の紙を増やす。また数字が下がる。注文票が重なる。
次に見えたのは、机の引き出しだった。中には何もない。紙も、硬貨も、予備の金も残っていない。映像はすぐに消えた。
警告なのか、安値を買い集めた記憶なのかは分からない。意味の決まっていない断片だった。譲司は、今の自分に使いやすい意味を選んだ。資金が続けば、最後に一番安いところを買える。
土曜の夜、美佐子が食卓へノートと取引履歴を並べた。遥は隣で宿題をしている。算数の割り算へ線を引き、消しゴムのかすを指で集めていた。誠一はテレビを消し、湯飲みを持ったまま座っている。美佐子は光洋精密の二つの約定を指で追った。
「最初、2,500株だったよね」
「うん」
「次の日、1,000株増えてる」
「安くなったから」
「最初に買った理由は?」
「会社が変わってないのに、3割下がったから」
「次は?」
「もっと安くなったから」
美佐子は二つの行を見比べた。
「増やした理由、それだけ?」
「平均の買値が下がる」
「それ、買った後の計算でしょう」
「戻った時に売りやすくなる」
「戻る理由は増えたの?」
譲司は口を閉じた。会社の業績は変わっていない。高値から大きく下がった。売られすぎている。
どれも最初から使っていた。新しい買いは入っていない。出来高も増えていない。値段だけが下がった。
「計画どおりだから」
「どこに書いてあるの?」
「平均を下げるって書いた」
「午後4時21分に」
「帰ってから結果も書く条件だろ」
「これは結果じゃなくて、買った理由でしょう」
譲司は履歴の約定時刻を見た。午前中だった。嘘をつけば、条件を破る。本当のことを言っても、すでに順番を破っている。
「注文した後に書いた」
「次からは、日付と時間も注文前に書いて」
「分かった」
「売る条件は?」
「会社が変わってないなら、売る理由はない」
「値段が下がったことは、変わったことじゃないの?」
「会社の中身とは別だろ」
美佐子は反論しなかった。口座を止めるとも言わなかった。条件の紙には、違反したら必ず終了するとは書かれていない。続けるか家族でもう一度話す、とある。借金はしていない。学校も休んでいない。取引自体も記録には残した。
形式だけなら、直せる違反に見えた。美佐子がそう考えたかは分からない。美佐子は条件を確認すれば、譲司自身が間違いへ気づけると思っていた。最初の損失では、決めた価格で売れている。今回も、書く順番を直せば元へ戻れると考えたのかもしれない。
相場を止めなかったことは、息子を信じた結果だった。譲司は、それを許可として受け取った。誠一が湯飲みを置いた。
「いくら減った」
「まだ売ってない」
「いくら減ってる」
「評価なら、20万円ぐらい」
「売れ!」
「今売ったら、損が決まる!」
「下がった時点で減ってる」
「持ってれば戻る」
「……戻らなかったら」
「会社は残る」
「会社が残れば、お前の買った値段まで戻るのか」
「可能性はある」
「可能性へ、いくら追加した」
「口座の中の金だ」
「金額を聞いてる」
譲司は答えなかった。誠一は、壊れた機械なら止めて原因を見ると言った。動かし続ければ、壊れた部品が別の部品まで傷めることがある。
「会社と機械は違う」
「分からん。だが、その顔は駄目だ」
「どんな顔だよ!」
「減った金より、戻る話しかしてない顔だ」
誠一はそこで会話を切った。株は競馬と違い、持ち続けられる。明日も、来週も、戻る可能性が残る。それは損失を確定しないという意味だった。同時に、自分が間違っていたと決めなくてもよいという意味でもあった。
日曜日、譲司は光洋精密の過去1年分の値動きを調べた。大きく下がった後で戻した場所を赤鉛筆で囲む。3日後に戻した場所。1週間後に戻した場所。出来高が増えないまま反発した場所。
下がった後、そのまま安値を更新し続けた場所には印を付けなかった。戻った例を探しているのではない。戻ると信じるための例を選んでいた。その区別は、ノートへ書かなかった。
5月22日、月曜日。光洋精密の基準値は340円。値幅下限は260円だった。美佐子に言われた通り、日付と時刻を書く。
5月22日 午前7時12分
数量1,000株。
指値260円。
理由欄へ鉛筆を置く。さらに安い。平均取得価格が下がる。戻れば助かる。
どれも、株価が上がる理由ではない。書けないのではなかった。書けば、何も増えていないことが分かる。譲司は理由欄を空白のまま、注文を送信した。
前回は注文後に理由を書いた。今回は、理由がないまま注文した。学校では、佐伯が譲司の机へ消しゴムを置いた。
「落とした」
「俺のじゃない」
「さっきから持ってた」
「……そうだっけ」
「寝てない?」
「寝た」
「何時間」
「分からない」
「数字じゃないと急に雑だな」
譲司は消しゴムを筆箱へ入れた。一時間目が始まっても、260円の数字が頭から消えなかった。教師に教科書の続きを読むよう指名され、譲司は行を一つ飛ばした。教室の後ろで笑い声が起きた。普段なら、どこを飛ばしたかすぐ確認する。今日は席へ座ってからも直さなかった。
昼休み、弁当の蓋を開けたまま、値幅下限の次の数字を考えた。佐伯は向かいでパンを食べ、何も聞かなかった。質問されないことが助かった。答えれば、自分が朝に理由を書けなかったことまで言葉になる気がした。
放課後、1,000株の約定を確認した。保有数量は4,500株。
現金残高 40,456円
株式評価額 1,170,000円
口座時価 1,210,456円
平均取得価格は、手数料を含めて約367円になった。
別の銘柄へ移る現金は、ほとんど残っていない。光洋精密が戻るまで待つ以外の選択肢を、自分で消していた。集中したのではない。逃げ道がなくなるまで追加した。4,500株なら、1円下がるだけで4,500円減る。20円で90,000円。80円で360,000円。
平均取得価格が下がったことで、必要な反発は小さくなった。数量が増えたことで、下がった時の損失は大きくなった。口座画面では、平均価格の方が先に目へ入った。譲司はノートの平均価格へ二重線を引いた。保有数量には何もしなかった。
午後4時38分。注文後の理由を書く。売られすぎ。平均単価を下げる。反発で売る。
売る条件も書こうとした。200円を割ったら。そう書けば、200円を割った時に売らなければならない。180円なら。さらに安く買える。鉛筆の先が止まった。売る条件は、また空欄になった。文字は整っていた。必要な欄だけが抜けていた。
夕食の後、譲司は証券会社の適時開示一覧を開いた。光洋精密の名前があった。通期業績予想の下方修正。主要取引先からの受注減少。
設備稼働率の低下。会社側は、需要の回復時期を慎重に見積もるとしていた。譲司は記事を最初から読み、もう一度数字だけを追った。決定的な悪材料がないから買った。
悪材料は、なかったのではない。まだ発表されていなかっただけだった。
【今回の運用資産推移】
開始時:1,692,450円
終了時:1,210,456円
増減額:-481,994円
増減率:-28.48%
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