下方修正が発表された翌朝、光洋精密には売り注文が積み上がっていた。
5月23日、火曜日。前日の終値は260円。この日の値幅下限は180円だった。気配値の横には、買いたい数量よりはるかに多い売り数量が並んでいる。保有数量は4,500株。
手数料込みの平均取得価格は約367円。180円で評価すれば、株式評価額は810,000円。現金40,456円を足した口座時価は850,456円になる。
光洋精密を買う前には、1,692,450円あった。数日で半分近く消えた。売り注文は出せる。
4,500株。
180円。
現物売り。
確認画面まで進み、戻った。180円で売れば、最初の2,500株も、340円で増やした1,000株も、理由を書けないまま260円で増やした1,000株も、全て間違いだったと決まる。今はまだ、保有している。戻る可能性が残っている。譲司は注文を出さず、学校へ向かった。
可能性を残したのではない。決めることを一日延ばしただけだった。
昼休み、相場ノートへ数字を書く。180。367。4,500。
367円まで戻れば、損失はほとんど消える。180円から367円へ戻るには、187円上がる必要がある。2倍を超える上昇だった。数字にすれば遠い。平均取得価格という一行で見れば、戻る場所が用意されているように見えた。佐伯が購買のパンを持って隣へ座った。
「また細かい計算?」
「平均を出してる」
「数学?」
「違う」
「株?」
譲司はノートを閉じた。
「今は……話しかけないで」
「……分かった」
佐伯は理由を聞かなかった。立ち上がり、二つ離れた席へ移った。一人になりたかった。実際に一人になると、180円以外に考えるものがなくなった。
午後の授業では、教師が黒板へ英文を書いた。譲司は写したが、行の右端へ4,500と書きかけた。途中で気づき、数字を塗りつぶす。学校に来ている。
条件は守っている。それでも、頭の中では市場から一度も離れていなかった。
帰宅後の終値も180円だった。値幅下限には大量の売り注文が残っている。買い手が足りないため、売りたい人間の一部しか取引できていない。口座時価は、朝に計算した通り850,456円だった。正確に予想できたのは、自分の損失だけだった。
翌日の値幅下限は130円になる。夕食で、美佐子は口座のことを聞かなかった。譲司も話さなかった。週末に履歴を確認するという決まりを、今回は黙るために使った。
食後、4,500株を130円で売る指値注文へ入れる。下限まで安くすれば、買い手が見つかると思った。
翌24日の朝も、光洋精密は売り気配だった。売り注文は130円へ集まり、買い注文はほとんど増えない。譲司の注文価格は一番安い。だが、同じ価格で先に並んでいる注文が多すぎた。安く売る意思があっても、相手がいなければ売れない。
学校から帰り、注文状況を開く。
未約定数量 4,500株
終値 130円
現金残高 40,456円
株式評価額 585,000円
口座時価 625,456円
数量も価格も間違っていない。それでも、売買は成立していなかった。譲司は更新ボタンを押した。未約定数量は変わらない。
もう一度押す。変わらない。売りたい時に売れないという意味を、初めて自分の金で理解した。30万円から始めた口座として見れば、まだ2倍以上ある。
最高口座時価1,803,972円から見れば、1,178,516円減っている。譲司には後者しか見えなかった。
その夜、翌日の成行売りを出した。価格を決めない代わりに、成立を優先する注文だった。いくらで売れるか分からない。怖かった。だが、価格を決めても売れないことの方が、もう怖かった。
5月25日の木曜日。光洋精密は150円で始まった。4,500株は全て約定した。
売却代金675,000円。手数料840円。残っていた現金を合わせ、口座残高は714,616円になった。
保有銘柄の欄が空になった。更新しても残高は動かない。静かだった。ゼロではない。開始資金の30万円より414,616円多い。
今なら、光洋精密の失敗を一銘柄で終わらせられる。残った資金で、相場を続けることもできる。譲司は注文画面を閉じ、制服へ着替えた。家を出る時までは、本気で止まるつもりだった。一時間目の数学で、教科書の余白へ二つの数字を書いた。
1,803,972円。
714,616円。
差額は1,089,356円。最高口座時価には、売っていない旭創薬の含み益も含まれていた。1,803,972円を全て現金で持ったことはない。分かっている。
それでも、一度画面に出た数字だった。714,616円を残したとは思えなかった。1,089,356円を失ったようにしか見えなかった。窓際に、知らない部屋が重なった。
机の上には紙がない。引き出しは開いているが、中は空だった。価格を読み上げる声も、注文票を渡す音もない。何も取引していない部屋は、壊れた後の部屋に見えた。
瞬きをすると、黒板と教科書へ戻った。佐伯が余白の数字を見た。
「何の計算?」
「別のやつ」
「1,803,972引く714,616なら、1,089,356」
「え、見ただけで出したの?」
「引き算だろ」
「端数まで覚えてるのか」
「書いてあるから」
佐伯は譲司の顔を見たが、続きを聞かなかった。譲司は時計を見る。まだ前場が続いている。腹が痛いと言えば、保健室へ行ける。早退すれば、値上がり率ランキングを確認し、今日のうちに次の銘柄を探せる。
相場のために学校を休まない。譲司は席を立たなかった。条件を守った。その事実によって、次の取引まで正当になるわけではない。それでも、学校へ残った自分を慎重だと思った。
放課後、悪材料を発表した後に反発している銘柄を探した。東証マザーズの北辰ネットワークが、値上がり率ランキングの上位にいた。業績予想を引き下げ、大きく売られた後、その日の後半に買いが戻っている。出来高も増えていた。
光洋精密とは違う。光洋精密は、悪材料が発表される前に買った。北辰ネットワークは、悪材料が出た後に買える。悪い情報を知った上で、それでも買いが戻っている。譲司は注文理由を書く。
悪材料発表後。安値から反発。出来高増加。売りを吸収し始めている可能性。
理由は成立していた。その下へ、本音を書く欄を作る。鉛筆が止まる。次の底値を当てれば、光洋精密で間違えたのは方法ではなく、銘柄選びだったことにできる。その一文は書かなかった。
翌26日の金曜日、北辰ネットワークを2,000株、280円で買った。買付代金560,000円。手数料840円。
現金は153,776円残った。全額ではない。光洋精密より少ない金額だ。慎重に戻ったように見えた。
約定したのは学校にいる間だった。帰宅後の終値は278円。口座時価は709,776円。
ほとんど減っていない。まだ取り戻せる。その言葉が先に出た。利益を得られる、ではなかった。
翌週29日の月曜日。北辰ネットワークは200円で終えた。現金153,776円と株式評価額400,000円。
口座時価は553,776円。
前夜に売り注文を出すことはできた。だが、一日で見方を変えれば、最初から反発の意味を読めていなかったことになる。売らなかった。30日、火曜日。
終値は120円。
口座時価は393,776円まで減った。学校にいる一日の間に、2,000株で160,000円減っている。相場のために学校を休まないという条件が、損失の原因に見えかけた。学校にいなければ、途中で売れたかもしれない。だが、前夜に注文を出さなかったのは譲司だった。
悪材料後の反発は、底打ちではなかった。売られ続ける途中で、買い戻しが一度入っただけだった。銘柄名は違う。買った理由も違う。自分の見方を変えたくなくて売らなかった点は、光洋精密と同じだった。
5月31日の水曜日。成行売りを出した。2,000株は85円で約定した。
売却代金170,000円。手数料472円。
口座残高は323,304円になった。開始資金とほとんど同じだった。30万円からやり直せる。そう考えることもできた。
譲司には、180万円からほとんど全てを失った画面に見えた。放課後、値上がり率ランキングの最上部に新東バイオがあった。新薬関連の発表を受け、出来高を急増させて値幅上限まで買われている。買い注文はまだ残っていた。光洋精密は、買いがないのに安いから買った。
北辰ネットワークは、一日の反発を底打ちだと思って買った。新東バイオには、今、実際に大量の買いが入っている。相場ノートへ書く。
新薬関連の発表。出来高を伴った資金流入。値幅上限でも買い注文が残る。翌日も買いが続く可能性。
最初に利益を重ねていた頃の基準に戻ったように見えた。理由は、これまでより正しい。だから、今度は失敗しない。明日中に取り戻したい。最後の一文は書かなかった。
6月1日の木曜日。新東バイオ2,000株を155円で買った。買付代金310,000円。手数料472円。
現金は12,832円だけ残った。ほぼ全額だった。最初に30万円を入れた朝は、手数料を忘れて300株を注文できなかった。今は手数料まで計算し、残せる限界まで株へ変えている。計算は正確になった。
使い方は悪くなった。学校にいる間に、2,000株全てが約定した。値幅上限で買えたのではない。値幅上限まで上がった株を、翌朝に追いかけて買った。
同じ高値でも意味は違う。譲司は、その違いをノートへ書かなかった。翌2日の金曜日、新東バイオは105円まで下がった。現金12,832円と株式評価額210,000円。口座時価は222,832円。
一日で100,000円減った。週末に材料が広がれば、月曜日に買いが戻るかもしれない。売らなかった。土曜日、美佐子がノートを見せるよう言った。食卓には、光洋精密、北辰ネットワーク、新東バイオのページと取引履歴が並んだ。
「今、いくらあるの」
「動いてる途中」
「今、いくら残ってるかを聞いてるの」
「22万円ぐらい」
「32万円じゃなかった?」
「次を買った」
「いつ?」
「木曜」
「理由は先に書いた?」
「書いた」
嘘ではなかった。出来高も資金流入も、注文前に書いている。損を取り戻したいとは書かなかった。美佐子は新東バイオのページから、光洋精密のページへ戻った。
5月19日の追加理由には、約定後の午後4時21分と書いてある。
5月22日の理由欄は注文前には空白で、約定後に言葉が足されている。
「これは、注文した後に書いたんだよね」
「前に言っただろ」
「その後も同じことをした?」
「22日は、理由は考えてた」
「考えたことと、先に書いたことは違う」
「結果は同じだろ」
「同じなら、最初から書けたでしょう」
譲司はノートを閉じた。
「今は新東バイオの話だろ」
「全部つながってる」
「今度は出来高がある」
「それで、今はいくらまで減ったの」
譲司は答えなかった。誠一が隣の部屋から来た。テーブルの履歴を見る。新東バイオのページを開き、何も言わず閉じた。
怒鳴られる方が楽だった。言い返す言葉を探せるからだった。何も言われないと、自分で数字を見るしかない。
6月5日の月曜日。新東バイオは55円まで下がった。
現金残高 12,832円
株式評価額 110,000円
口座時価 122,832円
約12万円。画面の数字は小さくなった。失敗だけは、以前より大きく見えた。翌6日の朝、2,000株の成行売りを出した。55円で全て約定した。
売却代金110,000円。手数料472円。
現金残高 122,360円
保有銘柄は一つもない。更新しても、数字は動かない。30万円から見れば、177,640円の損失だった。最高口座時価1,803,972円から見れば、1,681,612円減っている。
譲司は後者を見続けた。痛みが大きいからではない。最高値を基準にすれば、自分は一度180万円を作った人間でいられる。12万円から始める人間にならずに済む。
失った金を大きく数えるほど、取り戻すために必要な利益も大きくなる。必要な利益が大きいほど、待つ時間は無駄に見える。その考えが、次の注文までの時間を短くした。学校から帰ると、全取引の約定履歴を印刷した。
光洋精密。
北辰ネットワーク。
新東バイオ。
相場ノートと並べ、注文した日、売った日、次の銘柄を買った日へ線を引く。光洋精密を売った翌日に、北辰ネットワークを買った。北辰ネットワークを売った翌日に、新東バイオを買った。損失が大きくなるほど、観察した時間は短くなっている。
相場を持っていない時間に耐えられなくなっていた。譲司は、新しい紙を三つに分けた。
最初に買った理由。
追加した理由。
売らなかった理由。
光洋精密。最初に買った理由は、高値から3割安いから。追加した理由は、平均購入価格を下げたいから。
売らなかった理由は、売れば最初の判断が間違いになるから。北辰ネットワーク。買った理由は、悪材料後に反発したから。売らなかった理由は、翌日に戻れば底値を当てたことになるから。新東バイオ。
買った理由は、出来高を伴って上がったから。売らなかった理由は、明日戻れば、32万円まで減った自分を終わらせずに済むから。最後の理由には、株価も会社も出来高もなかった。三つの会社は違う。
材料も違う。買った形も違う。並べると、全部同じ場所へ戻っていた。自分が間違っていないことを証明したい。
利益が大きいほど、正しさも大きくなると思った。損失が出ると、次の利益で前の判断まで正しかったことにしようとした。譲司が守りたかったのは、口座ではなかった。正しい自分だった。
美佐子が部屋へ来た。譲司は紙を隠さなかった。
「122,360円」
「今の残り?」
「うん」
「学校は休んでない?」
「休んでない」
「借りたお金は?」
「ない」
「注文前に理由を書いた?」
譲司は、光洋精密の時刻を見る。5月19日、午後4時21分。
5月22日、注文前は空欄。
「全部は、書いてない」
美佐子はすぐに返事をしなかった。誠一は入口に立ち、122,360円という数字を見ている。
「……だから言った」
最初の四文字だけが出た。誠一は続きを言わなかった。美佐子は口座を取り上げるとも、残りを補うとも言わず、ノートと履歴を日付順へ並べ直した。
「書いていれば、少しは止まれると思ってたんだけどね」
「俺も思ってた」
「でも……見せるための形になってたのかもしれないね」
否定できなかった。利益が出た時は、理由も数字も詳しく書いた。損失が増えた時は、理由を後から整えた。ページには数字も理由もそろっていた。注文前には空白だった時刻だけが、その形からはみ出していた。
「形だけ残しても、たぶん止まれないよ」
「……分かってる」
「……今、分かったんだね」
「残りを30万円へ戻してほしいとは言わない」
「戻さないよ」
「分かってる」
返事は早かった。家計から損失を補填しないという条件は、最初から変わっていない。12万円が少ないからといって、30万円には戻してくれない。減った金額より、当然のように補填されないことの方が現実に感じられた。
譲司は新しいページを開いた。格好のよい規則は、まだ書けない。言い訳は、もう増やせなかった。数字を日付順に並べると、自分がしたことは単純だった。
下がったから買った。
さらに下がったから増やした。
会社ではなく、自分の買値を見ていた。
【今回の運用資産推移】
開始時:1,210,456円
終了時:122,360円
増減額:-1,088,096円
増減率:-89.89%
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