6月7日の朝、譲司は東都ネット証券へログインした。保有銘柄の欄には何もない。
現金残高 122,360円
前日から1円も動いていなかった。8時50分を過ぎると、胸の奥が落ち着かなくなった。注文を出していないことが、何かを取り逃しているように感じる。値上がり率ランキングを開けば、出来高が増えた株も、材料を発表した会社もある。12万円で買える銘柄だけを探すなら、候補はいくつも見つかった。譲司は注文画面を開かなかった。代わりに、売却した新東バイオを登録銘柄へ戻した。
もう保有していない。上がっても利益にならず、下がっても損失は増えない。それでも、売った後に上がれば判断が遅かったことになる。さらに下がれば、55円で売った判断が正しかったことになる気がした。9時、新東バイオは前日の終値より安く始まった。譲司は少し息を吐いた。安心した理由をノートへ書く。売った後も、正しかった証拠を探している。
株価は午前中に一度戻したが、前日の高値を越えなかった。出来高は細く、午後にはまた売られた。譲司は始値、高値、安値、終値だけを記録した。買わなかった。現金残高は122,360円のままだった。
学校へ向かう時間になり、パソコンを閉じる。階段を下りると、美佐子が弁当箱を包んでいた。
「今日は注文したの?」
「してない」
「買いたい株がなかった?」
「買える株はある」
「買えるのに買わないの?」
「同じじゃないから」
「何が?」
「まだ分からない」
美佐子は弁当箱を渡した。
「分かったら、ノートに書いて」
「言われなくても書く」
言い返した後で、以前ならそのまま部屋へ戻っていたと思った。今日は弁当箱を鞄へ入れ、玄関へ向かった。昼休み、教科書の下へ小さな紙を置く。新東バイオ。
前日終値。今日の始値。朝に見た値段。帰宅後に終値を入れる空欄。佐伯が横からのぞいた。
「また株見てるの?」
「見てるだけ」
「買ってないの?」
「買ってない」
「じゃあ、何見てるの」
譲司は答えかけて止まった。以前なら、安くなった株を探すと答えた。少し前なら、出来高が増えた株を見ると答えた。どちらも間違いではない。それだけでは足りなかった。
「下がり方と、上がり方」
「同じじゃないの」
「違う」
「何が?」
「まだ分からない」
「朝も同じこと言った?」
「何で分かる」
「その返事、今作った感じがしないから」
佐伯は紙の端に書かれた新東バイオの名前を見た。
「分かったら教えて」
「興味あるのか」
「お前がずっと見てる理由には」
佐伯は自分の席へ戻った。追及されなかったことに安心した。同時に、分かった時まで話す相手として残られたことが、少し重かった。
帰宅後、新東バイオはさらに安く終えていた。朝の紙へ終値と出来高を書く。その下へ、光洋精密と北辰ネットワークも並べた。三銘柄とも、売却後の値動きを毎日記録する。
光洋精密は、安いと思った値段からさらに下がった。北辰ネットワークは、一度反発した後に安値を更新した。新東バイオは、値幅上限まで買われた日の勢いを翌日まで保てなかった。買った時には、それぞれ理由があった。
高値から3割下がった。悪材料の後に反発した。出来高を伴って上がった。
理由があることと、買いが続くことは同じではない。一日の反発は、買われ始めたことと同じではない。高値から3割下がったことも、誰かが買いたくなった証拠にはならない。譲司はノートへ縦線を引いた。
左に、安くなった。右に、買われた。
二つを別の欄にした。安くなった欄には、前の高値からの下落率、悪材料、連続安値を書く。買われた欄には、出来高、売買代金、高値の更新、同じ業種の動きを書く。光洋精密は、左側だけが埋まった。北辰ネットワークは、右側が一日だけ埋まり、翌日には消えた。新東バイオは、右側が急に大きくなり、続かなかった。書き分けると、三銘柄の違いより、買った時に見なかった部分の方が目立った。
6月9日の金曜日、北辰ネットワークに新サービスの採用記事が出た。良い記事だった。朝は買われたが、高値を保てず、終値は前日とほとんど変わらない。譲司は記事の内容ではなく、始値、高値、終値、出来高を書く。新サービスが将来いくら売れるかは計算できる。その計算を見た人間が、今すぐ株を買うとは限らない。良い記事だった。反応は弱かった。二つを同じ行へ書いた。
翌週、光洋精密は下方修正について追加説明を出した。受注減少による影響の一部は一時的で、来期への影響は限定的だという。株価は朝に少し戻し、その後また売られた。説明が正しいかどうかは、譲司には判断できない。判断できるのは、説明を読んだ後にも大量の買いが続かなかったことだった。
ニュースの内容ではなく、その後を見る。口座を作る前に書いた最初の仮説が、損失の後では別の意味を持った。良いニュースでも上がらない株は弱い。悪いニュースでも下がらなくなった株は、以前ほど弱くない。
譲司は後半の例を探した。見つからない日は、空欄にした。空欄が三日続き、注文も三日なかった。朝になるたび、買える株を探す。夜になるたび、買わなかった理由を書く。
資産は増えない。減りもしない。以前は、現金のまま止まる時間を損失だと思った。今は、注文を出さず一日を終える方が、注文を出すより疲れた。
何もしなかったのではない。何もしないまま終える決断を、毎朝やり直していた。日曜の夕食後、誠一が居間の隅のノートパソコンを見た。画面にはチャートではなく、手書きの表を撮った画像が開かれている。
「やめたのか」
「やめてない」
「何も買ってないんだろ」
「待ってる」
「何を」
「買われるのを」
誠一はリモコンを探しながら、画面をもう一度見た。
「買うのはお前だろ」
「俺以外も買わないと上がらない」
「当たり前だろ。リモコン知らないか」
「新聞の下」
話はそこで切れた。その当たり前を、169万円を持っていた時には忘れていた。自分が安いと思えば、いずれ他人も同じ値段を安いと思う。会社が悪くなっていなければ、元の株価へ戻る。実際には、譲司が買った後も売る人間の方が多かった。誠一は新聞の下からリモコンを取り出し、冷蔵庫へ向かった。
「12万は残ってるのか」
「122,360円」
「減ってないんだな」
「今週は」
「来週は知らん」
「まだ分からない」
誠一は缶ビールを開けた。やめろとも、買えとも言わなかった。美佐子は食卓で家計簿をつけている。以前なら、履歴を見せろと言われないことを自由だと思った。今は、譲司の説明をそのまま信じていないから聞かないようにも見えた。その考えも、自分に都合よく作ったものかもしれない。譲司は自分から注文履歴を印刷し、家計簿の横へ置いた。
「今週は注文してない」
「うん。見れば分かる」
「買わない理由は書いた」
「見せて」
美佐子は履歴とノートを順に見た。売った三銘柄の数字と、書き直した線が増えている。
「これは先に書いたの?」
「見た日に書いた」
「後で変えたところは?」
「消さずに線を引いた」
安値だから反発する可能性、という文章の横には、安値を更新している間は買われていない、と書き足してある。
「前より、だいぶ汚くなったね」
「直した跡を残してるから」
「その方が分かる」
美佐子は褒めなかった。ノートを閉じずに、家計簿の横へ戻した。
「今週は、決めた通りにしたのね」
「注文してないけど」
「注文しない時にも、理由を書いたでしょう」
「それも取引なのか」
「私には分からない。譲司が決めることだから」
美佐子は家計簿へ戻った。以前なら、分からないと言われれば説明を始めた。今は、その言葉を正解へ直せなかった。
翌月曜日、光洋精密に追加の記事が出た。主要取引先との受注調整が続き、生産計画を見直す必要があるという。良い内容ではない。登校前の気配は売り注文が多かった。それでも、前週につけた安値より下には買い注文が並んでいる。
学校から帰ると、株価は朝の安値を割らず、始値より高く終えていた。出来高も前日より増えている。悪い記事が出た。それでも安値を更新しなかった。譲司は122,360円で買える株数を計算した。売買単位に合わせても買える。計算の横へ線を引く。買えることと、買うことは別。一日下がらなかっただけで底を決めれば、北辰ネットワークの時と同じになる。
翌日、光洋精密は前日の高値を少し越えた。
午後には押し戻され、出来高も減った。譲司は買わなかった。事実は二つあった。悪材料で安値を更新しなかった。次の日は高値を維持できなかった。上がるとも、下がるとも決められない。結論欄へ書く。
分からない。四文字を書く方が、損失額を書くより難しかった。予想を書かなければ、後で正しかったとも、間違っていたとも証明できない。相場を見ていないような気もした。それでも注文は出さなかった。現金が減らない日が一週間続いた。利益はない。損失もない。口座の数字が動かないことを、譲司は少しずつ失敗ではないと考え始めた。
6月15日の木曜日、値上がり率ランキングの上位に東明計測が現れた。東証2部の小型計測機器会社。前日終値は410円。その日は480円で取引を終え、出来高は直近平均の8倍近くまで増えていた。新しい小型センサーの受注を発表している。材料は良かった。譲司が見たのは、その後だった。寄り付きで上がっても崩れない。午後に高値を更新した。売買代金は午前より午後の方が増えた。同じ計測機器の二銘柄も、前日終値を上回っている。
東明計測だけではなく、同じ業種へ買いが集まっていた。480円なら200株で96,000円。手数料472円を加えても、122,360円に収まる。譲司は注文画面を開いた。数量へ200と入れる。指値欄は空白のままにした。今買えば、出来高の増加を見て買ったことになる。新東バイオと何が違うのか。新東バイオも、一日だけなら大量に買われていた。違いは、翌日も買いが続くかどうかだった。
今日の時点では分からない。譲司は注文画面を閉じた。残高は動かなかった。
翌16日、金曜日。東明計測は500円を超えて始まった。前日の高値を割る場面もあったが、売られたところで出来高を伴う買いが戻った。終値は540円。200株を買っていれば、12,000円増えていた。最初に、その計算をした。次に、買わなかったことを損失として数えかけていると気づいた。口座残高は減っていない。利益を逃しただけだった。逃した利益は、口座から出ていった金ではない。悔しいことは変わらなかった。
540円で200株なら108,000円。手数料を加えても買える。前日より12,000円高い。高くなったから買いたくない。その感覚は残っている。一方で、480円の時より、買いが続いた証拠は増えた。安い時には証拠が少ない。高くなった時には証拠が増える。譲司が欲しかったのは、安い値段と確かな上昇だった。市場は、その二つを同時に渡さないことがある。この日も買わなかった。
追いかけるのが怖かった。122,360円しかない。次も同じ間違いをすれば、相場を続けられなくなる。怖かった。
認めると、頭の中の計算が少し静かになった。買わなかった理由へ、恐怖と書く。その下へ続ける。恐怖だけで見送ったのか。買いが二日続くか確かめたかったのか。まだ分からない。月曜日に600円になれば、待ったことを後悔する。400円へ戻れば、待った自分を正しいと思う。どちらへ動いても、自分の判断の採点へ使うだろう。譲司は東明計測の欄へ、買わなかった、とだけ書いた。正しいとも、間違いとも書かなかった。
6月17日の土曜日。市場は休みだった。遥は居間で、翌日の誕生日に食べるケーキの広告を広げていた。
「お兄ちゃん、チョコと苺どっち」
「どっちでもいい」
「えー、一番困る答え!」
「じゃあ苺」
「私はチョコ」
「聞いた意味ないだろ……」
「好みが分かった」
遥は広告の苺へ丸をつけた後、チョコにも丸をつけた。
「二つ買うのか」
「大きいのを一つ。半分ずつ」
「最初からそうすればいいだろ」
「聞いてから決めた方が、選んだ感じがする」
譲司は少し笑った。相場では、選んだ感じを作るために数字を集めたことがある。遥は本当にケーキを選んでいるだけだった。二階へ戻る。机には、相場ノート、約定履歴、売った三銘柄の記録、東明計測の二日分の数字が並んでいる。同じ失敗をしないために、何を見落としたかを書く。下落しただけでは買わない。買い下がりは、最初の判断を小さくせず、数量だけを大きくする。
自分の買値ではなく、今の高値、安値、出来高を見る。材料の内容より、材料の後に買いが続いたかを見る。分からない時は、現金のまま待つ。五行を書き、最初のページから読み直した。30万円を入れる前、最大損失は30万円だと書いた。実際には122,360円が残った。全部は失っていない。ただ、続けるために使える失敗は、何度も残っていなかった。五つの規則は、相場で勝つ方法ではない。
次も相場に残るための条件だった。最後の一行を、少し大きく書く。
安い株ではない。
買われ始めた株を買う。
翌日、譲司は16歳になる。市場は開かない。月曜日に東明計測が上がるか、下がるかは分からなかった。分からないことは、注文を出す理由にはならない。譲司はノートを閉じた。
122,360円は、現金のまま残っていた。
【今回の運用資産推移】
開始時:122,360円
終了時:122,360円
増減額:±0円
増減率:±0.00%
取引回数:0回
開始資金:約30万円→東央電子全売却後:約36万円→最高資産時価:約180万円→旭創薬全売却後:約170万円→光洋精密売却後:約70万円→北辰ネットワーク売却後:約30万円→現在資金:約12万円