相場師は欲望から降りられない   作:山崎春のパン祭り

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第二部「暴落の少年」(16歳~18歳)
第十一話 高瀬美琴


 6月18日、日曜日。城戸譲司は16歳になった。目を覚ましたのは午前7時12分だった。枕元の時計を見た後、机の上のノートパソコンを開く。東都ネット証券へログインすると、前日と同じ数字が表示された。

 

 現金残高 122,360円

 保有株なし。

 未約定注文なし。

 

 市場は休みだった。株を持っていない以上、土曜日から残高が変わる理由もない。それでも数字を確認するまで、眠っている間に何かを失ったような感覚が消えなかった。

 

 口座画面を閉じ、登録銘柄の東明計測を開く。金曜日の終値は540円、高値は558円。木曜日に続いて値上がりし、出来高も増えていた。2日間だけを見れば、買いは続いている。

 値上がり率ランキングには、東明計測より大きく上がった銘柄が並んでいた。その横にある値下がり率ランキングを、譲司は反射的に開いた。半値近くまで下がった株。悪材料で売られた株。12万円でも何千株か買える低位株。

 少し前までなら、その一覧は候補表に見えた。高値から何割下がったかを計算し、戻った時の利益を先に考えていた。譲司は銘柄名を一つも登録せず、画面を閉じた。下がったという結果だけでは、次に買われる理由にならない。

 ランキングは、買う株を決める一覧ではない。見るべき株を見つける入口にすぎない。そう書こうとして、手を止めた。まだ入口の先を説明できない。分からない言葉で規則を増やせば、後から都合よく使えるだけだった。背後で床が鳴った。

 

「誕生日の朝から、残高見てるの?」

「もう見終わった」

「市場、休みでしょ」

「休み」

「じゃあ昨日と同じじゃん」

「数字は同じ」

「同じなら閉じれば?」

 

 寝癖の残った遥が、画面の横から顔を出した。譲司が返事をしないでいると、東明計測のチャートより先に、別のウィンドウへ目を向ける。

 

「何これ、モニター?」

 

 中古パソコン店のページに、15インチの液晶モニターが9,800円で出ていた。チャートとニュースと注文画面を切り替えるたび、直前まで見ていた数字が消える。もう一画面あれば、比較する時間を減らせる。

 机の端には、高校入学時に美佐子から家族との連絡用として持たされた折り畳み式の携帯電話があった。通話とメールに使うだけで、証券口座の操作はノートパソコンからしかしていなかった。

 

「買うの?」

「買わない」

「欲しいんでしょ」

「口座残高の8%になる」

「誕生日プレゼントなら口座から減らないよ」

「同じことだ」

「え、全然違うでしょ」

 

 遥は首を傾けたが、それ以上は聞かなかった。

 

「夜、唐揚げだって。ケーキは苺」

「分かった」

「私がチョコを譲ったからね」

「昨日、苺も丸で囲んでただろ」

「選べるのに譲ったの」

 

 遥は言い切って部屋を出た。階段を下りながら、美佐子へ「お兄ちゃん、誕生日でも株」と報告している。

 譲司は中古モニターのページを閉じた。9,800円を払っても、口座の株数は1株も増えない。道具に使う金まで損失に見えた。取引以外へ使えば、残った122,360円から遠ざかるような気がした。何へ近づこうとしているのかは、決めていなかった。

 午前中、美佐子は台所で鶏肉へ下味をつけ、誠一は家の前で車を洗っていた。冷蔵庫には苺のケーキが入り、食卓には朝刊が置かれている。それ以外は、いつもの日曜日と変わらない。

 譲司が地域面をめくると、県南部の部品工場で受注が減り、残業削減や派遣契約の終了が進んでいるという記事があった。誠一の勤める工場ではない。会社名にも見覚えはなかった。記事を読み終える前に、玄関の呼び鈴が鳴った。

 

「美琴ちゃんだ」

 

 遥が廊下を走る。美佐子が「転ばないで」と言った時には、もう扉が開いていた。高瀬美琴は、城戸家から歩いて数分の家で育った、1歳年上の幼馴染だった。譲司と同じ高校に通う2年生で、小学生の頃は遥と一緒に二階まで上がってきたが、高校生になってからは玄関で待つようになった。二つ折りの新聞と細い取材ノートを抱えていた。肩に触れる黒髪を耳へかけ、遥へ挨拶した後、譲司を見た。

 

「16歳、おめでとう」

「ありがとう」

「先に言っておくけど、誕生日だけで来たんじゃないから」

「新聞を持ってる時点で分かる」

「そういうところ、取材相手には嫌われるよ」

「取材されるのか」

「半分は」

 

 美琴は居間へ上がると、譲司が読んでいた地域面と、自分が持ってきた同じ新聞を食卓へ並べた。片方には赤い線が引かれ、余白へ人名と会社名が書き込まれている。

 

「学校新聞で、この辺の工場を取材するの。えっと、先生は『地域産業の変化』って言うんだけど、それじゃ何でも入るから、部品工場に絞った」

「どこへ行く」

「三社。経営してる人と、働いてる人と、仕事を出してる会社。全員、同じ説明をすると思う?」

「しない」

「即答だね」

「立場が違う」

「じゃあ、どれが本当?」

「全部。本当の部分が違う」

 

 美琴は一度だけ頷き、取材ノートへそのまま書こうとした。

 

「待って。今の、使えそうだけど……分かった気にもなりそう」

「自分で聞いたんだろ」

「使える言葉と、そのまま記事に書いていい言葉は……たぶん、別」

 

 書いた行へ横線を引き、隣に小さく疑問符を付ける。譲司は、自分の相場ノートと似た直し方をすると思った。

 

「中一の時も、同じことした」

「何を」

「図書室の記事。私が『利用者が減った』って書いたら、譲司、余白に質問ばかり書いた」

「昼休みしか数えてなかった」

「『来てない人に聞かないと、来ない理由は分からない』とも書いた」

「実際、分からなかっただろ」

「腹が立った」

「なら、もう見せなければよかった」

「書き直したら、最初の記事にいなかった人の理由が出た。だから今も見せてる」

「最初の原稿、まだ持ってるのか」

「持ってる」

「何で」

「最後まで読んで、直すところまで書いたのは、譲司だけだったから」

 

 美琴はそれ以上説明せず、地域面の記事を指した。

 

「働いてる人の残業が減って、契約を切られる人もいる。だったら、その会社の株も下がる?」

「同じ時期に下がるとは限らない」

「どうして」

「受注が減る前から売られてるかもしれない。人件費が減って利益が残ると思われたら、発表の後に上がることもある」

「人が仕事を失ったのに?」

「それでも上がる時はある」

「じゃあ、その会社は良くなったの?」

「株を買う側には、前より利益が残る会社に見える」

「良い会社かどうかも、見る人で変わる?」

「変わる」

 

 譲司は記事にある工場名を見た。上場企業ではない。大手自動車部品会社の下請けで、産業機械向けの加工もしていると書かれている。

 取引先はどこか。同じ業種の上場会社に受注減が広がっているのか。記事が出る前から株価は下がっているのか。出来高は増えたのか。頭の中で、新聞の文章が銘柄と数字へ分かれていく。

 

「今、取引先を考えたでしょ」

「何で分かる」

「顔。記事にいた人が、もう銘柄に変わってる」

「会社の記事なんだから、株に関係するか調べるのは普通だ」

「調べるのは分かる。でも、この人たちがもう材料になってる」

「美琴も、人が苦しいなら株が下がるって決めてた」

「決めてた。だから違うなら聞こうと思った」

「俺も調べようとしただけだ」

「私は、自分が間違ってるかを聞いた。譲司は、上がる銘柄につながるかを先に見た」

 

 美琴は譲司の返事を待たず、記事の一段目へ指を戻した。

 

「私、『人が困ってるなら会社も悪い。会社が悪いなら株も下がる』って、1列にしてた」

「違うことはある」

「じゃあ、譲司は逆向きじゃない? 株価が上がったら、その会社がしたことまで正しいって」

「そこまでは言ってない」

「言ってない。でも、数字を見始めると、記事にいた人が消える」

 

 譲司は記事へ視線を戻した。契約を更新されなかった派遣社員には、子どもが二人いると書かれている。名前は仮名で、年齢だけが載っていた。その人物が困っていることと、株価が上がることは同時に成立する。どちらかを消せば説明は簡単になる。両方残せば、何を良いと呼ぶのか決められない。

 

「美琴は、誰の側の記事を書くんだ」

「まだ決めない。先に決めたら、欲しい答えばかり拾いそうだから」

「全部聞いても、全部は書けない」

「最後は選ぶよ。でも、何を残して何を落としたかは、自分で覚えておく」

「間違うかもしれない」

「間違わない記事があるなら、先に見せて」

 

 美琴は早口で言い終え、麦茶を飲んだ。正解を持ってきたわけではない。自分の仮説へ先に線を引き、その上で譲司の見方にも線を引こうとしている。

 譲司は相場ノートを開いた。光洋精密、北辰ネットワーク、新東バイオ。買った時の理由と、売った後の値動き。左に「安くなった」、右に「買われた」と分けたページを、美琴がのぞき込む。

 

「これ、全部売った株?」

「そう」

「一番多かった時、いくら?」

「1,803,972円」

「細かい……今は?」

「122,360円」

「減った額は?」

「引けば分かる」

「またそれ。言いたくない時、相手に計算させるよね」

 

 譲司はページの端を親指で押さえた。

 

「1,681,612円減った」

「だから細かいって! それで……明日もやるの?」

「やる」

「何のために?」

「増やすため」

「いくらまで?」

 

 答えが止まった。30万円まで戻す。それでは足りない。180万円まで戻す。そこへ届けば、失敗する前の自分へ戻れる。だが、180万円を取り戻した後に口座を閉じる姿は想像できなかった。

 

「一番多かった時まで?」

「まずは」

「戻ったら終わる?」

「……分からない」

「終わるか分からないのに、戻すことは決まってるんだ」

「損したまま終わる理由がない」

「12万円を残して終われば、これ以上は損しない」

「増えもしない」

「それなら……お金だけが理由じゃないんじゃない?」

 

 譲司は答えず、ノートの数字を見た。金を増やしたい。その説明は間違っていない。ただ、金だけなら失った額を急いで取り戻す必要はない。高校を卒業して働けば、時間はかかっても収入は得られる。普通預金へ移せば、残った金は明日もほぼ同じだ。それでは、1,803,972円まで増やした自分が偶然だったかどうか、確かめられない。

 

「譲司」

「何」

「今の顔、記事にできそう」

「するな」

「しない。顔だけ書いたら、私の想像になる」

 

 美琴は取材ノートを閉じた。地域面の1枚を抜き、譲司の相場ノートの横へ置く。

 

「切り抜きは別に残してあるから、これは譲司にあげる」

「何に使う」

「譲司が決めて。捨ててもいい」

「美琴は株価を見るのか」

「見る。『人が苦しいから下がる』って、勝手に決めないために」

「値段だけ見ても分からない」

「だから人にも聞く。譲司も、数字だけで全部分かった顔しないで」

 

 立ち上がった美琴を、美佐子が玄関まで送った。靴を履き終えたところで、美琴が振り返る。

 

「16歳の目標、次に会うまでに考えて」

「金を増やす」

「それ、目的じゃなくて動作でしょ」

「記事みたいに言うな」

「新聞部だから」

 

 美琴は取材ノートの後ろを開いた。取材先の名前がないページへ、1行書く。

 

 6月18日 16歳の目標――回答保留。

 

「それも残すのか」

「次に聞くから」

「覚えてればいいだろ」

「私は覚えてる。譲司が忘れるかもしれないから書く」

「忘れない」

「なら、次はちゃんと答えて」

 

 扉が閉じた後も、地域面は食卓に残った。夜、唐揚げとポテトサラダが並び、食後に苺のケーキが出た。遥は苺を譲った話をもう一度した。

 

「16なら朝はもう少し寝ろ」

「年齢と睡眠時間は関係ない」

「そういう返しをするから寝ろと言ってる」

 

 誠一はケーキを四つに切り、譲司の皿へ置いた一切れだけ、わずかに大きかった。測ったわけではない。譲司は何も言わずに食べた。美佐子から渡された細長い箱には、黒いシャープペンシルと替え芯が入っていた。

 

「ノートに使う物なら、これくらいは家計から出すよ」

「ありがとう」

「でも、口座へ追加するお金はないからね」

「分かってる」

「誕生日でも条件は変わらない」

「変えない」

 

 美佐子はそれ以上確認しなかった。以前のように、譲司の説明を聞けば安心する顔もしなかった。条件を守ったかどうかは、次の履歴とノートで見るつもりなのだろう。

 

 食後、譲司は二階へ戻った。机へ相場ノート、新しいシャープペンシル、新聞の地域面を並べる。新聞は相場ノートの後ろへ挟んだ。明日の東明計測とは直接関係がない。捨てなかった理由も、まだ書かなかった。

 値下がり率ランキングを開く。上位の銘柄を一度だけ見て、ページの隅へ書いた。下がった株を、買い候補の入口にしない。

 次に値上がり率ランキングを開き、東明計測の2日分を確認する。6月15日の終値は480円。6月16日の終値は540円、高値は558円。高くなった。その代わり、買いが2日続いたという事実も増えた。

 

 安い値段と、買いが続いた証拠は、同時に手に入らないことがある。譲司は月曜日の条件を書いた。

 

 前週高値558円を上回る買いが続くこと。

 

 570円までなら200株。600円を超えて始まるなら追わない。寄り付きだけ高く、その後540円を割るなら買わない。出来高が急に細るなら買わない。同じ業種の銘柄がそろって弱いなら買わない。

 570円で200株なら114,000円。手数料472円を加えても、122,360円の範囲に収まる。計算できるのはそこまでだった。月曜日に買いが続くかは、今決められない。

 

 買う条件より、買わない条件の方が多い。以前なら、条件を増やすほど利益を逃すと思った。今は、買わない日を作れなければ、相場に残る日数を減らすと考えた。

 

 午後11時40分、東都ネット証券へログインした。東明計測の注文画面を開き、数量欄へ200株と入力する。価格欄には何も入れなかった。注文確認のボタンは押さない。

 

 画面の外に置いた新聞が、ノートの端から少しだけ見えていた。工場で働く人間の生活も、月曜日の株価も、今夜の譲司には決められない。日付が変わるまで、あと20分。

 

 16歳になって最初にしたことは、買うことではなく、買わない条件を書くことだった。




【今回の運用資産推移】
開始時:122,360円
終了時:122,360円
増減額:±0円
取引回数:0回
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