6月19日、月曜日。城戸譲司は午前6時42分に目を覚ました。机の上には、前夜に書いた東明計測の条件と、美琴が置いていった新聞の地域面が重なっていた。新聞を相場ノートの後ろへ挟み、ノートパソコンを開く。
現金残高 122,360円
保有株なし。
未約定注文なし。
東明計測の前週終値は540円、高値は558円だった。値上がり率ランキングで見つけた時より値段は上がっている。だが、安く買えるかではなく、金曜日の高値を越えても買いが残るかを見ると決めていた。
寄り付き前の気配は570円付近にあり、同じ計測機器の2銘柄にも前週終値を上回る買い注文が出ている。業種全体が強いと呼べるほどの材料はまだない。それでも、東明計測だけが薄い注文で跳ねている形ではなかった。
譲司は相場ノートに日付と時刻を書いた。
6月19日 午前8時15分
東明計測 200株
570円まで
600円を超える気配なら追わない
寄り付き後に540円を割るなら、持ち続ける理由を見直す
570円で200株なら114,000円。手数料472円を加えると、口座に残る現金は7,888円になる。一度の間違いで全てを失う金額ではない。だが、別の銘柄を買い直せる余裕もほとんど残らない。
数量欄へ200、価格欄へ570と入力する。銘柄名、現物買い、数量、指値を2度読み直し、送信ボタンを押した。画面に「受付済み」と表示されても、まだ株を買ったわけではない。寄り付きが571円なら1株も買えず、570円で買えた後に540円を割る可能性もある。
以前なら、買えずに上がることと、買った直後に下がることのどちらが嫌かを考え、注文を変えていた。今は、どちらも市場が開かなければ分からない。譲司は注文を取り消さず、家を出た。
1時間目が始まる頃、市場は開いていた。黒板には英語の例文が並び、教師がチョークを置くたびに、譲司は教室の時計を見そうになった。前週高値558円は越えたのか。570円で買えたのか。寄り付きだけ高く、その後は売られていないか。
学校を休まないという条件は守っている。だが、教室に座っているだけで授業を聞けていなければ、条件の文字だけを守ったことになる。譲司は教科書の余白へ株価を書きかけ、鉛筆を止めた。相場ノートへ書けない数字を、英語の教科書へ逃がしても意味はなかった。
昼休み、校内のコンピューター室へ向かった。証券口座にはログインせず、公開されている株価ページだけを開く。東明計測は580円台で動き、前場の出来高は120,000株を超えていた。前週金曜日の1日出来高は113,000株である。
買いは続いている。譲司はノートの出来高欄へ数字を書いた。その時、隣の席で表計算ソフトを使っていた佐伯直人が、画面から目を上げた。佐伯の表には、野球選手の打数、安打、四球が並んでいた。
「何してるの」
「見れば分かるだろ」
「株価は分かる。ノートの数字が分からない」
佐伯は譲司のノートを勝手に取らず、開かれたページの端を指した。
「6月15日、104,000株。16日、113,000株。今日、120,000株」
「増えてる」
「今日の分は、午前中だけでしょ」
「前場って書けば分かる」
「今から書き足すなら、さっきまでは分からなかったってことだよね」
譲司は120,000株の横へ「前場」と書き足した。
「15日と16日は1日分?」
「そう」
「同じ列に1日分と午前中だけの数字を入れたら、増えたか比べられないよ」
「日付を見れば分かる」
「日付で分かるのは日だけ。時刻は分からない」
「細かいな」
「数字を並べるなら、そのくらい分けるのが普通じゃない?」
佐伯は自分の画面へ戻り、打率の列へ数式を入れた。譲司がノートを閉じようとすると、今度は売買理由のページを見た。
「買った理由は?」
「次のページ」
「売る条件は?」
「その下」
「手数料は?」
「約定してから」
「書いた時刻は?」
「日付はある」
「時刻は全部ある?」
質問が増えるたび、譲司は別のページを開かなければならなかった。自分には必要な情報が全て見えている。佐伯には、一つの取引が三つの場所へ分かれ、後からつなぎ直されているように見えるらしい。
「分かればいいだろ」
「お前が今分かるだけじゃ、前の取引と比べられない」
「何と何を比べるんだ」
「買う前に書いた理由と、終わってから足した説明」
「同じだ」
「本当に?」
佐伯の声は責める調子ではなかった。だからこそ、譲司はすぐに否定できなかった。東央電子では、利益が出た後に買いが続いた理由を探した。光洋精密では、下がるたびに最初の理由へ別の理由を足した。どの言葉が注文前からあり、どの言葉が損を認めたくなくて増えたのか。時刻まで残していなければ、自分でも区別できない。
「僕、株のことは分からないよ」と佐伯が言った。
「なら、何で口を出すんだ」
「記録の意味が途中で変わるのが嫌なんだよ」
「記録じゃない。ノートだ」
「本人にしか順番が分からないなら、記録じゃなくて秘密基地だよ」
「お前が入る必要はないだろ」
「お母さんに見せるんじゃなかった?」
昼休み終了の予鈴が鳴った。佐伯は野球の表を保存し、フロッピーディスクをケースへ戻す。譲司は公開株価ページを閉じる前に、東明計測の現在値をもう一度確認した。
586円。
上がっていた。だが、自分が買えているかはまだ分からなかった。
放課後、寄り道をせず帰宅した。制服の上着を椅子へ掛け、パソコンが起動するまで立ったまま待つ。東都ネット証券へログインし、注文履歴を開いた。
東明計測
200株
570円
午前9時00分 約定済み
寄り付きで全量が成立していた。終値は592円、出来高は220,000株まで増えている。
現金 7,888円
保有株評価額 118,400円
口座時価 126,288円
買付手数料を含めても、前日の122,360円より3,928円増えていた。まだ売っていない以上、確定した利益ではない。譲司は約定結果を書き、昼に佐伯から指摘されたページを順番に開いた。
買う前の理由はある。撤退条件もある。注文時刻も残っている。ただし、同じ取引を確認するためにノートを3枚めくらなければならない。光洋精密の記録では、追加購入の理由が約定後に書かれ、最初の理由と同じ顔で並んでいた。
夕食の前、美佐子へ買付結果を報告した。譲司が日付と注文時刻のあるページを見せると、美佐子は約定価格より先に撤退条件へ目を向けた。
「今回は、先に書いたのね」
「朝に」
「佐伯君に、口座も見せたの?」
「公開されてる株価と、ノートの一部だけ」
「暗証番号や口座番号は?」
「見せるわけないだろ」
「ならいい」
美佐子はそれ以上聞かず、ノートを返した。相場の判断を褒められたのではない。条件を守る形が残っているかを確かめられただけだった。それで十分なはずなのに、譲司は終値が592円まで上がったことも見てほしかった。美佐子はそのまま利益が出たかを尋ねず、夕食の支度へ戻った。
翌日の放課後、譲司は相場ノートから必要な部分だけを書き写した紙を持ってコンピューター室へ行った。口座番号、暗証番号、正確な入出金履歴は持ち出していない。佐伯は先に席へ座り、昨日の野球成績表を閉じると、新しい表を開いた。
「本当に作るの?」
「列だけ作る。入力するのはお前」
「銘柄は選ばないからな」
「頼まれても選ばない」
「あとで『佐伯が買えと言った』なんて言うなよ」
「言わない。それなら作れる」
佐伯は最初の行へ項目を入れた。
日付
銘柄
買付前の理由
撤退条件
市場全体
業種
出来高
売買代金
買付価格
数量
買付手数料
売却手数料
保有営業日
結果
規則違反
「列が多い」
「ノートを3枚めくるより少ない」
「市場全体は、まだ見てない日もある」
「空欄にすればいい」
「空欄が多くなる」
「見てないなら、空欄で分かる。後から見たことにするよりいい」
佐伯は「買付前の理由」の列を太くした。
「勝った理由を書く欄じゃないから」
「分かってる」
「利益が出た後で書き換えない?」
「書き換えない」
「追加するなら、追加した日と時刻を残す」
「細かいな」
「お前の『分かってる』が、一番記録にならない」
東明計測の1行へ、月曜日の記録を入力した。
前週高値558円を上回る気配
同業2銘柄も前週終値以上
570円まで
540円を割るなら保有理由を見直す
結果の欄は空白にした。株価が上がっていても、取引はまだ終わっていない。佐伯は作成したファイルを譲司のフロッピーディスクへ保存し、自分のものには残さなかった。
「消すのか」
「僕の取引じゃないから」
「列を作ったのは佐伯だろ」
「野球の成績表を作っても、僕が打ったことにはならない」
「でも、列の作り方で見え方は変わる」
「だから列名を途中で変えない。どう見るかはお前が決める」
佐伯は自分の野球成績表を開き直した。打率だけで並べた順位と、打席数を加えた表では、同じ選手の見え方が変わる。それでも、どちらの表が正しい選手を選ぶかまでは言わなかった。佐伯が好んでいるのは答えではなく、同じ条件で比べられる状態らしい。
東明計測は火曜日を640円、水曜日を670円で終えた。火曜日の出来高は120,300株、水曜日は160,000株。月曜日の220,000株より少ないが、安値は切り上がり、終値は高い位置を保っている。
譲司は帰宅後に数字を表へ入れ、翌日の昼休みには公開株価だけを確認した。前場の数字は1日分と別の欄へ書く。佐伯が最初に止めたため、同じ種類でない数字を1列へ混ぜることはなくなった。
佐伯は株価を見ても、買うとも売るとも言わない。出来高の単位が株なのか千株なのか、売買代金が円なのか万円なのかを確認する。譲司が「買いが強い」と入力すると、何と比べて強いのかを聞いた。
「高値を更新してる。強いでいいだろ」
「何が? 株価? 出来高? 同じ業種と比べて?」
「全部だ」
「なら、三つに分けて書けばいい」
「お前、株を知らないのに」
「知らないから、『強い』だけじゃ分からない」
佐伯は銘柄の結論を出さない。その代わり、譲司が一つの言葉へ複数の意味を押し込むと止めた。質問されるたび入力の手は止まる。それでも、後から言葉を別の意味へ変えにくくなった。
水曜日、佐伯は野球の表の修正を先に終え、譲司には入力式だけを教えて帰った。東明計測が上がっていても、佐伯の放課後まで相場のために空くわけではない。譲司は一人で残り、同じ形式へ数字を入れた。
木曜日、東明計測は高値730円を付け、終値は715円だった。出来高は158,300株。材料発表後の買いは4日続き、高値を更新した。計測機器の2銘柄も大きく崩れていない。持ち続ける理由は残っている。
その一方で、高値730円から終値まで15円押し戻された。月曜日の買値からは145円上がっている。200株なら値幅は29,000円になる。東央電子を売った後、上昇を見続けて売った判断を疑ったことがある。半分だけ残せば、売った方と持った方を毎日比べることになる。
譲司は木曜日の午後8時16分、売却条件を表へ入力した。
6月23日
730円で200株を売る
前日の高値まで再び買われた時に全て確定する
寄り付きから弱く700円を保てない場合も、学校から成行へ変更しない
全部を売れば、その後の上昇には参加できない。だが今回は、一つの規則を一つの結果として残す。売った後に上がっても、失った金として記録しない。
金曜日の朝、730円の売り指値を出した。学校にいる間、約定は確認できない。729円まで上がって下がる可能性も、730円で売った後に800円へ上がる可能性もある。譲司は両方の金額を暗算し、表には書かなかった。注文前に決めた条件ではないからだった。
放課後、注文履歴には「約定済み」と表示されていた。
東明計測 200株
売却価格 730円
売却手数料 472円
受取額 145,528円
現金残高 153,416円
買付時に支払った114,472円との差は31,056円だった。開始残高122,360円に対する増加率は25.38%。一度画面に表示された1,803,972円から見れば、小さな利益である。12万円から見れば、口座は4分の1以上増えた。
画面を更新しても保有銘柄はなく、現金だけが残った。新東バイオを売った直後の12万円とは違う。5営業日、条件を変えずに保有し、前日に決めた価格で売った後の153,416円だった。
画面を閉じる前に、譲司は佐伯の家へ電話した。呼び出し音が3回鳴り、佐伯が出る。
「売れた」
「何が?」
「東明計測。730円、200株」
「残高は?」
「153,416円」
「……1円単位で言うの?」
「残高を聞いたのはお前だろ」
「15万円くらいでいいじゃん」
「3,416円を消すな」
「消してない。丸めただけ」
「丸めたら別の数字だ」
「そこを聞いてるんじゃないんだけど」
「手数料は?」
「利益から引いてある」
「買いと売り、分けて入れた?」
「合計944円でいいだろ」
「あとで手数料が変わったら、どっちが変わったか分からない」
「手数料が変わるのか」
「知らない。分からないから分ける」
譲司は表を開き、買付手数料472円、売却手数料472円と入力した。保有日数には「5日」と書きかけ、昼休みに佐伯から言われた言葉を思い出す。土曜日と日曜日を含む日数では、相場に金を置いた期間を比べにくい。
「保有日数は5営業日」
「列名も『保有営業日』にして」
「電話でそこまで言うのか」
「明日になったら、お前が忘れるから」
譲司は列名を「保有営業日」へ直した。受話器の向こうで紙をめくる音がする。佐伯は株価を見ていないらしく、東明計測が売却後にいくらまで上がったかも聞かなかった。
「あと、表の右に二つ足して」と佐伯が言った。
「何を」
「年間損益と税引当」
「早すぎる」
「15万円だから?」
「まだ3万円増えただけだ」
「増えると思ってないなら、次の取引をする理由がない」
「増えると思ってる」
「なら、増えた後も同じ表で見られるようにしないと」
譲司は笑いかけて、受話器を持ったまま止まった。規則が使えるかを検証している。それが表向きの理由だった。だが、東明計測の利益を見た時に浮かんだのは、5規則が正しかったという安堵より、その規則を作った自分が偶然ではなかったという感覚だった。
1回だけでは証明にならない。次も同じ条件で増やさなければならない。佐伯の表は、後から意味を書き換えられないための仕組みだった。同時に、同じ成功を繰り返して自分の正しさを積み上げるための表にも見えた。
「規則違反の欄、空欄のままだよ」と佐伯が言った。
「負けた時だけでいい」
「勝っても破ってるかもしれない」
「破って勝ったら?」
「破ったって書く」
「それじゃ、勝った理由にならないな」
「最初から、勝った理由を作る表じゃない」
階下から、美佐子が長電話を終えるよう声をかけた。譲司が受話器を置こうとすると、佐伯が先に言った。
「月曜、野球の表も手伝って」
「何をする」
「選手名の入力。列を作った分」
「それで貸しにするのか」
「するよ。野球も知らなくていい。名前を間違えなければ」
電話が切れた。譲司は東明計測の行を「規則違反」の列まで戻した。
規則違反。
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なし。
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