相場師は欲望から降りられない   作:山崎春のパン祭り

16 / 28
第十三話 高値を買う

 7月21日、金曜日。城戸譲司が帰宅して最初に見たのは、京浜データシステムの売り注文だった。

 

 300株

 800円

 全量約定

 

 現金残高は242,472円。保有株はない。買付時の手数料472円と売却時の手数料472円を引いた純利益は89,056円だった。

 その日の高値は814円、終値は788円。譲司が売った後にも、14円高く買った人間がいた。

 14円に300株を掛ける。

 

 4,200円。

 

 残高は増えている。計算上、失った金はない。それでも画面を見ていると、242,472円から4,200円を引かれたように感じた。

 譲司は佐伯の表を開き、売却後残高まで入力した。右端に新しい列を作ろうとして、列名のセルを選んだまま止まる。

 

「何の列?」

 

 背後から佐伯の声がした。終業式の後、野球の集計をするため一緒に来ていた。譲司は画面を隠さなかった。

 

「売った後の高値」

「それを何に使うの?」

「814円まで上がった」

「見れば分かる」

「300株なら4,200円」

「それを、いくら損したことにするの」

「損はしてない」

「なら、その列は何のため?」

 

 譲司は答えず、空のセルへ視線を戻した。

 佐伯は椅子の背へ鞄を掛け、表の残高欄を指した。

 

「口座の残高、減った?」

「増えた」

「なら、増えた金額はここ。売った後の値段は備考でいいだろ」

「次に売る時の参考になる」

「参考にする数字と、実際の損失は分けて」

 

 譲司は新しい列を作らなかった。備考欄へ「売却後高値814円」と入力する。数字を残しても、4,200円は残高から引けなかった。

 

 11日前、500円の買い注文を出した時には、売った後の14円より、買う前の22円の方が重く見えていた。

 

 東明計測を売った後、譲司は2週間、新しい注文を出さなかった。値上がり率ランキングで見つけた銘柄を登録し、翌日も出来高と高値が残るかを確認する。初日だけ上がって消えた銘柄は候補から外した。京浜データシステムは、外さずに残った1社だった。

 

 7月10日、月曜日。京浜データシステムの前週終値は478円だった。前の月曜日は430円。火曜日445円、水曜日453円、木曜日464円、金曜日478円と、5営業日で48円上がっている。

 金曜日の高値は489円。出来高は113,000株まで増え、推定売買代金も前週初めより大きい。

 安くなった株ではない。少し待てば前の値段へ戻ってくる株でもない。待っている間にも高くなっていた。

 譲司には、もう買うのが遅いように見えた。

 前の週に430円で買えていれば、500円で買う必要はなかった。だが、430円だった時には、5日続けて買われるという事実も、113,000株の出来高もなかった。

 相場ノートの隣に、佐伯が作った表を開く。

 

 前日高値489円

 直近5営業日、430円から478円へ上昇

 出来高・売買代金増加

 同業2銘柄も上昇

 前日高値を越えて買われる場合だけ注文

 

 譲司は数量欄へ300、指値欄へ500と入力した。

 買付代金は150,000円。手数料472円を加えると、現金は2,944円しか残らない。東明計測より資金の余裕は少なかった。

 注文前理由の下へ「高いと思う」と書いた。削除しようとして、残した。

 高いと感じることと、買う条件が崩れていることは同じではない。そう書き足せば、きれいに説明できた。だが、その文章は注文を押すために今作ったものにも見えた。

 譲司は説明を増やさず、撤退条件を二つだけ入れた。

 

 買付日の終値が前日終値478円を割る

 出来高が増えたまま、前日の安値454円を下回って終える

 

 午前7時16分、前週までの数字と注文条件を書き終えた。

 朝食と支度を済ませ、午前8時を過ぎて画面を更新する。

 今朝は500円近くで始まりそうだった。

 同業2銘柄の買い気配を確認し、午前8時15分に注文を送信した。

 家を出た後も、500円で買えるかより、500円で買ってしまうことを考えた。下がった株を買う時には、過去の高値が逃げ道になった。上がった株には、戻るべき安値がいくつもある。

 

 昼休み、譲司は佐伯とコンピューター室へ行った。証券口座にはログインせず、公開株価だけを見る。

 京浜データシステムは500円で始まり、前場の高値は528円、安値は469円だった。株価は買値付近へ戻り、出来高の数字も増えていた。

 

「買えた?」

「たぶん」

「たぶんじゃ、まだ分からないだろ」

「帰れば分かる」

 

 佐伯は表の約定状態へ「未確認」と入力した。譲司は安値469円を見た。買値より31円低い。300株なら9,300円の評価損になる。

 

「安値は469円」

「うん」

「買値を割ってる」

「それ、売る条件に入れた?」

「入れてない」

「なら、今見るのは何?」

「終値と出来高」

「なら、今はまだ分からないだろ」

 

 佐伯は株価が強いとも弱いとも言わなかった。表に書かれた順番を読んだだけだった。

 譲司は469円から目を離した。買値は自分の口座にだけある数字で、市場にとっては何の境目でもない。それは理解できる。それでも、500円を一度も見なかったことにするのは難しかった。

 

 放課後、注文履歴には300株、500円、全量約定と表示されていた。終値は518円、出来高は220,000株。始値500円、高値528円、安値469円。

 

 現金 2,944円

 保有株評価額 155,400円

 口座時価 158,344円

 

 終値は前日より40円高く、出来高は前週金曜日のほぼ2倍だった。撤退条件には触れていない。

 表の「規則違反」へ、なし、と入力する。すぐ右に「買値割れ」と書きかけたが、列は作らなかった。

 

 火曜日の終値は563円、水曜日596円、木曜日623円、金曜日639円。終値は一度も前日を下回らなかった。

 株価が買値から離れるほど、譲司は利益額を先に計算した。高値、安値、終値、出来高を入力する前に、500円との差へ300を掛ける。佐伯の表には計算の順番まで残らない。

 639円なら含み益は41,700円。東明計測で得た31,056円を超えている。まだ売っていないため、現金残高は2,944円のままだった。

 

 7月17日、海の日。市場は休みだった。

 昼過ぎ、美琴が取材ノートを持って城戸家へ来た。玄関で遥に呼び止められ、台所で麦茶を受け取ってから、居間の机へ2枚の紙を広げる。

 1枚には工場経営者の話、もう1枚にはそこで働く従業員の話が書かれていた。

 

「こっちは、生産工程を効率化したって言ってる」

「うん」

「こっちは、仕事が減ったって」

「両方そうなんだろ」

「最初は、どっちかが都合よく言ってると思った」

「違った?」

「まだ分からない。質問を見返したら、私が先に答えを決めてたのかも」

 

 美琴は取材ノートの1行を指でなぞった。

 

「『削減で現場は苦しくなりましたか』って聞いてる。苦しくなったって答えを待ってる聞き方だよね」

「実際に苦しいなら、間違いじゃない」

「でも、私が聞かなかったことは出てこない」

「効率化で利益が増えたなら、関連会社の――」

「今は記事の話」

 

 言葉を切られ、譲司は黙った。

 美琴は怒った顔をせず、2枚の紙を見比べる。

 

「経営者の話だけなら従業員が消えるし、従業員の話だけなら会社が何を避けたかったのか消える」

「両方書けばいい」

「誕生日の日にも、似たこと言ってた」

「違うのか」

「紙には限りがあるから、何を残すか考えてる」

 

 美琴は譲司の答えを採用せず、質問を三つ書き直した。仕事が減った人は別の工程へ移ったか。残業が減ったことで生活はどう変わったか。効率化しなければ何が起きたと考えているか。

 譲司の机では、京浜データシステムの保有理由と売却条件が1枚に収まっていた。条件を減らせば判断しやすくなる。残さなかった事実が消えることは、美琴の紙と同じだった。

 そう考えたが、口には出さなかった。美琴は相場の話をしに来たわけではない。

 

「譲司は夏休み、何するの」

「市場を見る」

「毎日?」

「平日は」

「そう。……私はまた工場」

「同じところ?」

「今度は、聞かなかった人」

 

 譲司は誰のことか聞こうとして、美琴がもうノートを閉じていることに気づいた。玄関まで送る理由を探す前に、遥が「私も行く」と先に立ち上がった。

 

 連休明けの火曜日、京浜データシステムは665円で終えた。水曜日は高値765円、終値758円。含み益は77,400円になった。

 500円で買う時には、下がった場合の金額ばかり考えた。758円になると、今度は売った後に上がる金額を考えた。まだ持っているのに、確定していない利益を失う場面が先に浮かぶ。

 譲司は売却条件を入力した。

 

 700円を割って終える

 出来高が増えても高値を更新できない

 800円まで買われれば全て売る

 

 買値は入れなかった。

 

 木曜日、京浜データシステムは高値793円、終値777円だった。800円まで7円足りない。

 譲司は注文画面へ300株、800円と入力した。確認画面まで進み、送信する前に佐伯へ電話する。

 

「明日、800円で売る」

「もう決めたの?」

「高値の更新が鈍ったら売る条件に入れてた」

「800円って、何を基準に800円?」

「次の――」

 

 言葉が止まった。800円は買付前から決めていた価格ではない。火曜日に765円まで上がった後、切りのいい数字として置いた。売買代金や同業種の値動きだけで、800円を1円単位まで説明することはできなかった。

 

「じゃあ、売るのをやめる?」

「やめない」

「理由、書ける?」

「高値更新の幅が小さくなってる。だから全部売る」

「800円じゃないと駄目?」

「……駄目じゃない」

 

 佐伯はそれ以上聞かなかった。譲司は売却理由へ「高値更新の鈍化」と入力し、価格欄の800円はそのままにした。完璧に説明できなくても、保有を続ける理由が弱くなった時に全て売る。その判断まで取り消す必要はない。

 翌朝、800円の売り指値を出して学校へ向かった。

 

 終業式が終わり、教室では机を動かす音と部活動の予定が飛び交っていた。佐伯が鞄を持ち上げる。

 

「届かなかったら?」

「今日はそのまま」

「800円で売った後、もっと上がったら?」

「表には書かない」

「計算は?」

「たぶん、する」

「するんだ」

 

 譲司は返事をせず、教室を出た。

 

 帰宅後、売り注文は800円で全量約定していた。

 始値776円、高値814円、安値758円、終値788円、出来高200,000株。売却代金240,000円から手数料472円を引いた239,528円が現金へ加わっている。

 

 現金残高 242,472円

 保有株なし。

 未約定注文なし。

 

 500円から800円までの売買差益は90,000円。買付手数料472円と売却手数料472円を引いた純利益は89,056円だった。

 譲司は佐伯と表を更新した。

 

 買付価格 500円

 売却価格 800円

 数量 300株

 純利益 89,056円

 保有営業日 9日

 規則違反 なし

 現金残高 242,472円

 

 備考欄には「売却後高値814円」とある。

 その右には「規則違反」の列があり、さらに右には何もなかった。




【今回の運用資産推移】
開始時:153,416円
終了時:242,472円
増減額:+89,056円
増減率:+58.05%
取引回数:2回
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。