7月21日、金曜日。城戸譲司が帰宅して最初に見たのは、京浜データシステムの売り注文だった。
300株
800円
全量約定
現金残高は242,472円。保有株はない。買付時の手数料472円と売却時の手数料472円を引いた純利益は89,056円だった。
その日の高値は814円、終値は788円。譲司が売った後にも、14円高く買った人間がいた。
14円に300株を掛ける。
4,200円。
残高は増えている。計算上、失った金はない。それでも画面を見ていると、242,472円から4,200円を引かれたように感じた。
譲司は佐伯の表を開き、売却後残高まで入力した。右端に新しい列を作ろうとして、列名のセルを選んだまま止まる。
「何の列?」
背後から佐伯の声がした。終業式の後、野球の集計をするため一緒に来ていた。譲司は画面を隠さなかった。
「売った後の高値」
「それを何に使うの?」
「814円まで上がった」
「見れば分かる」
「300株なら4,200円」
「それを、いくら損したことにするの」
「損はしてない」
「なら、その列は何のため?」
譲司は答えず、空のセルへ視線を戻した。
佐伯は椅子の背へ鞄を掛け、表の残高欄を指した。
「口座の残高、減った?」
「増えた」
「なら、増えた金額はここ。売った後の値段は備考でいいだろ」
「次に売る時の参考になる」
「参考にする数字と、実際の損失は分けて」
譲司は新しい列を作らなかった。備考欄へ「売却後高値814円」と入力する。数字を残しても、4,200円は残高から引けなかった。
11日前、500円の買い注文を出した時には、売った後の14円より、買う前の22円の方が重く見えていた。
東明計測を売った後、譲司は2週間、新しい注文を出さなかった。値上がり率ランキングで見つけた銘柄を登録し、翌日も出来高と高値が残るかを確認する。初日だけ上がって消えた銘柄は候補から外した。京浜データシステムは、外さずに残った1社だった。
7月10日、月曜日。京浜データシステムの前週終値は478円だった。前の月曜日は430円。火曜日445円、水曜日453円、木曜日464円、金曜日478円と、5営業日で48円上がっている。
金曜日の高値は489円。出来高は113,000株まで増え、推定売買代金も前週初めより大きい。
安くなった株ではない。少し待てば前の値段へ戻ってくる株でもない。待っている間にも高くなっていた。
譲司には、もう買うのが遅いように見えた。
前の週に430円で買えていれば、500円で買う必要はなかった。だが、430円だった時には、5日続けて買われるという事実も、113,000株の出来高もなかった。
相場ノートの隣に、佐伯が作った表を開く。
前日高値489円
直近5営業日、430円から478円へ上昇
出来高・売買代金増加
同業2銘柄も上昇
前日高値を越えて買われる場合だけ注文
譲司は数量欄へ300、指値欄へ500と入力した。
買付代金は150,000円。手数料472円を加えると、現金は2,944円しか残らない。東明計測より資金の余裕は少なかった。
注文前理由の下へ「高いと思う」と書いた。削除しようとして、残した。
高いと感じることと、買う条件が崩れていることは同じではない。そう書き足せば、きれいに説明できた。だが、その文章は注文を押すために今作ったものにも見えた。
譲司は説明を増やさず、撤退条件を二つだけ入れた。
買付日の終値が前日終値478円を割る
出来高が増えたまま、前日の安値454円を下回って終える
午前7時16分、前週までの数字と注文条件を書き終えた。
朝食と支度を済ませ、午前8時を過ぎて画面を更新する。
今朝は500円近くで始まりそうだった。
同業2銘柄の買い気配を確認し、午前8時15分に注文を送信した。
家を出た後も、500円で買えるかより、500円で買ってしまうことを考えた。下がった株を買う時には、過去の高値が逃げ道になった。上がった株には、戻るべき安値がいくつもある。
昼休み、譲司は佐伯とコンピューター室へ行った。証券口座にはログインせず、公開株価だけを見る。
京浜データシステムは500円で始まり、前場の高値は528円、安値は469円だった。株価は買値付近へ戻り、出来高の数字も増えていた。
「買えた?」
「たぶん」
「たぶんじゃ、まだ分からないだろ」
「帰れば分かる」
佐伯は表の約定状態へ「未確認」と入力した。譲司は安値469円を見た。買値より31円低い。300株なら9,300円の評価損になる。
「安値は469円」
「うん」
「買値を割ってる」
「それ、売る条件に入れた?」
「入れてない」
「なら、今見るのは何?」
「終値と出来高」
「なら、今はまだ分からないだろ」
佐伯は株価が強いとも弱いとも言わなかった。表に書かれた順番を読んだだけだった。
譲司は469円から目を離した。買値は自分の口座にだけある数字で、市場にとっては何の境目でもない。それは理解できる。それでも、500円を一度も見なかったことにするのは難しかった。
放課後、注文履歴には300株、500円、全量約定と表示されていた。終値は518円、出来高は220,000株。始値500円、高値528円、安値469円。
現金 2,944円
保有株評価額 155,400円
口座時価 158,344円
終値は前日より40円高く、出来高は前週金曜日のほぼ2倍だった。撤退条件には触れていない。
表の「規則違反」へ、なし、と入力する。すぐ右に「買値割れ」と書きかけたが、列は作らなかった。
火曜日の終値は563円、水曜日596円、木曜日623円、金曜日639円。終値は一度も前日を下回らなかった。
株価が買値から離れるほど、譲司は利益額を先に計算した。高値、安値、終値、出来高を入力する前に、500円との差へ300を掛ける。佐伯の表には計算の順番まで残らない。
639円なら含み益は41,700円。東明計測で得た31,056円を超えている。まだ売っていないため、現金残高は2,944円のままだった。
7月17日、海の日。市場は休みだった。
昼過ぎ、美琴が取材ノートを持って城戸家へ来た。玄関で遥に呼び止められ、台所で麦茶を受け取ってから、居間の机へ2枚の紙を広げる。
1枚には工場経営者の話、もう1枚にはそこで働く従業員の話が書かれていた。
「こっちは、生産工程を効率化したって言ってる」
「うん」
「こっちは、仕事が減ったって」
「両方そうなんだろ」
「最初は、どっちかが都合よく言ってると思った」
「違った?」
「まだ分からない。質問を見返したら、私が先に答えを決めてたのかも」
美琴は取材ノートの1行を指でなぞった。
「『削減で現場は苦しくなりましたか』って聞いてる。苦しくなったって答えを待ってる聞き方だよね」
「実際に苦しいなら、間違いじゃない」
「でも、私が聞かなかったことは出てこない」
「効率化で利益が増えたなら、関連会社の――」
「今は記事の話」
言葉を切られ、譲司は黙った。
美琴は怒った顔をせず、2枚の紙を見比べる。
「経営者の話だけなら従業員が消えるし、従業員の話だけなら会社が何を避けたかったのか消える」
「両方書けばいい」
「誕生日の日にも、似たこと言ってた」
「違うのか」
「紙には限りがあるから、何を残すか考えてる」
美琴は譲司の答えを採用せず、質問を三つ書き直した。仕事が減った人は別の工程へ移ったか。残業が減ったことで生活はどう変わったか。効率化しなければ何が起きたと考えているか。
譲司の机では、京浜データシステムの保有理由と売却条件が1枚に収まっていた。条件を減らせば判断しやすくなる。残さなかった事実が消えることは、美琴の紙と同じだった。
そう考えたが、口には出さなかった。美琴は相場の話をしに来たわけではない。
「譲司は夏休み、何するの」
「市場を見る」
「毎日?」
「平日は」
「そう。……私はまた工場」
「同じところ?」
「今度は、聞かなかった人」
譲司は誰のことか聞こうとして、美琴がもうノートを閉じていることに気づいた。玄関まで送る理由を探す前に、遥が「私も行く」と先に立ち上がった。
連休明けの火曜日、京浜データシステムは665円で終えた。水曜日は高値765円、終値758円。含み益は77,400円になった。
500円で買う時には、下がった場合の金額ばかり考えた。758円になると、今度は売った後に上がる金額を考えた。まだ持っているのに、確定していない利益を失う場面が先に浮かぶ。
譲司は売却条件を入力した。
700円を割って終える
出来高が増えても高値を更新できない
800円まで買われれば全て売る
買値は入れなかった。
木曜日、京浜データシステムは高値793円、終値777円だった。800円まで7円足りない。
譲司は注文画面へ300株、800円と入力した。確認画面まで進み、送信する前に佐伯へ電話する。
「明日、800円で売る」
「もう決めたの?」
「高値の更新が鈍ったら売る条件に入れてた」
「800円って、何を基準に800円?」
「次の――」
言葉が止まった。800円は買付前から決めていた価格ではない。火曜日に765円まで上がった後、切りのいい数字として置いた。売買代金や同業種の値動きだけで、800円を1円単位まで説明することはできなかった。
「じゃあ、売るのをやめる?」
「やめない」
「理由、書ける?」
「高値更新の幅が小さくなってる。だから全部売る」
「800円じゃないと駄目?」
「……駄目じゃない」
佐伯はそれ以上聞かなかった。譲司は売却理由へ「高値更新の鈍化」と入力し、価格欄の800円はそのままにした。完璧に説明できなくても、保有を続ける理由が弱くなった時に全て売る。その判断まで取り消す必要はない。
翌朝、800円の売り指値を出して学校へ向かった。
終業式が終わり、教室では机を動かす音と部活動の予定が飛び交っていた。佐伯が鞄を持ち上げる。
「届かなかったら?」
「今日はそのまま」
「800円で売った後、もっと上がったら?」
「表には書かない」
「計算は?」
「たぶん、する」
「するんだ」
譲司は返事をせず、教室を出た。
帰宅後、売り注文は800円で全量約定していた。
始値776円、高値814円、安値758円、終値788円、出来高200,000株。売却代金240,000円から手数料472円を引いた239,528円が現金へ加わっている。
現金残高 242,472円
保有株なし。
未約定注文なし。
500円から800円までの売買差益は90,000円。買付手数料472円と売却手数料472円を引いた純利益は89,056円だった。
譲司は佐伯と表を更新した。
買付価格 500円
売却価格 800円
数量 300株
純利益 89,056円
保有営業日 9日
規則違反 なし
現金残高 242,472円
備考欄には「売却後高値814円」とある。
その右には「規則違反」の列があり、さらに右には何もなかった。
【今回の運用資産推移】
開始時:153,416円
終了時:242,472円
増減額:+89,056円
増減率:+58.05%
取引回数:2回