8月18日、金曜日。新世紀メディア機器の売り注文は、780円で500株すべて約定していた。
現金残高 396,528円
保有株なし。
未約定注文なし。
買付価格470円、売却価格780円。売買差益は155,000円。買付手数料472円と売却手数料472円を引いた純利益は154,056円だった。
佐伯は売却後残高を入力すると、表の上へ3行を並べた。
東洋映像機器 取消 0円
北関通信設備 未約定 0円
新世紀メディア機器 売却 +154,056円
譲司は1行目の0円を選んだ。
「1行目、42,000円にできないか」
「買ってないのに?」
「260円で買ってたら、176円まで下がってる。500株なら42,000円」
「だから、買ってない」
「避けた損失だ」
「『避けた』は備考。損益は0円」
次に2行目を選ぶ。
「こっちは、431円で買えてたら上がってた」
「買えてない」
「1円だぞ」
「1円でも未約定」
「失敗には入る」
「何の失敗?」
譲司は答えなかった。
取消した株は下がった。買えなかった株は上がった。買った株は利益になった。三つとも、自分の判断を評価する材料には見える。それでも、口座へ入った金は3行目にしかなかった。
佐伯は1行目と2行目の損益欄を0円のまま保存した。
25日前、表には銘柄名だけがあり、結果欄は空いていた。
7月24日、月曜日。夏休みに入って最初の取引日だった。
譲司は午前の値上がり率ランキングで、東洋映像機器を見つけた。映像配信端末の大型受注を発表し、前週終値210円から買いが集まっていた。
始値240円、高値286円、安値236円、終値280円。出来高は520,000株。前週までの1日40,000株前後とは違った。
値上がり率だけなら、ランキングの上にはほかにも銘柄があった。譲司が残したのは、受注額が前年売上に対して小さくないことと、午後になっても高値近くで売買されていたためだった。
相場ノートへ注文条件を書く。
前日高値を維持する
出来高が急増前の水準へ戻らない
260円まで押した場合だけ500株
500株を260円で買えば130,000円。手数料472円を加えても、現金は112,000円残る。
242,472円-130,472円=112,000円
数字を書き直し、翌朝、500株、260円の買い指値を送信した。
東洋映像機器は272円で始まった。午前の高値は278円。前日の286円へ届かない。安値は263円で、譲司の指値より3円高かった。
昼前までの出来高は、前日の半分にも届かなかった。
夏休みのため、譲司は自宅で画面を見られた。価格が260円へ近づくたび、買えることを期待した。だが、注文条件には、安く買えることだけを書いていない。
午後2時を過ぎても高値は更新されず、出来高の増え方も鈍かった。終値まで待てば260円へ下がるかもしれない。その場合、注文は成立する。
成立してほしいと感じた時点で、譲司は条件をもう一度読んだ。
前日高値を維持する。
出来高が急増前の水準へ戻らない。
どちらも、まだ完全には確定していない。ただし、前日と同じ強さが残っているようには見えなかった。
午後2時35分、注文を取り消した。
その日の高値278円、安値263円、終値266円、出来高140,000株。注文は1株も約定していない。
翌26日、東洋映像機器は250円で始まり、228円で終えた。27日の終値は176円だった。
譲司は260円と176円の差へ500を掛けた。
42,000円。
佐伯が来る前に、表の利益欄へ入力しかけた。だが、買付価格のセルが空いているため、計算式は動かなかった。
「式、壊れた?」
佐伯は隣の椅子へ座り、画面を見る。
「買ってないから、買付価格がない」
「なら、利益もない」
「損を避けた」
「それは残していい。でも、残高は増えてない」
佐伯は結果欄へ「取消」と入力した。損益欄には0円を入れ、備考へ「取消後、176円まで下落」と書いた。
譲司は0円を消さなかった。
「この行、あった方がいいだろ」
「何で?」
「売買したものだけだと、何で買わなかったか分からなくなる」
「それはそうだ」
「じゃあ、この表、役に立ってる」
「役に立ってる」
佐伯は返事をせず、列幅を広げた。備考の文章が1行で表示された。
同じ日の夜、譲司は北関通信設備の注文条件を書いた。
通信会社向けの設備更新需要が増えているとして、数日続けて出来高と高値が増えていた。25日の終値は425円。高値430円。急騰1日だけの東洋映像機器とは違い、安値も少しずつ切り上がっている。
ただし、すでに高くなっていた。譲司は431円より上では買わないと決めた。
500株
431円
買付必要額 215,500円
手数料 472円
買付後現金 26,500円
7月26日、午前8時15分に注文を送信した。
北関通信設備は442円で始まった。午前中に460円を超え、午後には478円まで上がった。安値は432円だった。
431円の指値には、1円届かなかった。
取引終了後、注文履歴には「未約定」と表示された。終値は470円。出来高は260,000株だった。
翌27日、始値495円、高値548円、終値538円。28日も高値590円、終値575円まで上がった。
譲司は431円から575円までの144円へ500を掛けた。
72,000円。
表の損益欄へ入れると、佐伯がすぐに消した。
「勝手に売ってる」
「今の終値で計算しただけだ」
「買えてないのに、いつ売るかは決められないだろ」
「買えてたら持ってた」
「それも分からない」
「1円違えば買えてた」
「その1円を決めたのはお前だろ」
譲司は431円のセルを見た。432円なら約定していた。だが、注文を出した時には、432円がその日の安値になることを知らない。431円を選んだ理由は、前日高値430円を1円上回る価格までと決めたからだった。
条件を守った結果、買えなかった。条件が間違っていたとすれば、上がった後にしか分からない。
譲司は注文履歴の431円と、その日の安値432円を交互に見た。1円は画面上では隣り合っていたが、約定履歴には何も残さなかった。残ったのは、失効した注文番号だけだった。
佐伯は結果欄へ「未約定」と入力し、損益欄へ0円を戻した。
「取消と同じ0円になる」
「口座は同じ」
「意味は逆だ」
「じゃあ、結果を分ければいい」
佐伯は「取消」「未約定」「売却」を選べるように、結果欄の入力規則を作った。譲司はその操作を見ながら、判断そのものも三つへ分けられるのか考えた。
東洋映像機器は、条件が消えたため買わなかった。北関通信設備は、条件を満たす価格へ届かなかった。どちらも損益は0円だが、同じ見送りではない。
ならば、次は条件を満たして買える株を探せばいい。
7月27日の夕方、新世紀メディア機器が業務用表示端末の受注を発表した。
譲司は発表前から登録していた。26日の終値404円、27日は419円。出来高は65,000株から77,000株へ増えていたが、その時点では注文理由として弱かった。
発表翌日の28日、高値433円、終値427円、出来高89,000株。
翌29日、土曜日。美琴から図書館へ来るよう連絡があった。
地域資料室の机には、地元工場を扱った過去の記事と、美琴の取材メモが広げられていた。窓際の席では扇風機が回っていたが、紙の端が持ち上がるだけで、空気はほとんど冷えていない。
「これ、読んで」
美琴が1枚目を差し出した。見出しには「受注減に苦しむ町工場」とある。本文の半分ほどまで赤い線が引かれ、質問文の横には丸と矢印が増えていた。
「苦しいって答えた人だけ集めたのか」
「違う。私が最初から、苦しいって答えやすい聞き方をしてた」
「実際、受注は減ってる」
「うん。でも、受注が減ったから短納期の仕事を断れるようになったって人もいた」
「売上は下がる」
「それで体が楽になったって。別の会社は、空いた設備で新しい部品を作ってた」
「なら、苦しくない工場もある」
「そうやってすぐ一つに決めるの、やめて」
美琴は見出しへ2本線を引いた。消した後の空白へ、別の見出しは書かなかった。
「何を書くか、まだ決まってないのか」
「決めてから聞いたのが失敗だったから。今度は、聞いた後で決める」
「結論がないと記事にならない」
「締切まではまだある」
「何社聞く」
「分からない。同じ答えが揃うまでじゃなくて、新しい答えが出なくなるくらい」
譲司は東洋映像機器と北関通信設備を思い出した。同じ値上がり率ランキングにあり、どちらにも注文を出した。一方は取り消し、もう一方は1円届かなかった。結果欄を一つにまとめれば、どちらも買っていない。だが、買わなかった理由は違う。
「三つくらいに分ければいい」
「何を?」
「受注が減って苦しい、楽になった、新しい仕事を始めた」
「まだ三人しか聞いてないのに?」
「増えたら項目を増やす」
「私は表を作りたいんじゃなくて、話を聞きたいの」
美琴は譲司の提案をメモしなかった。代わりに、次に訪ねる工場の住所を地図で確認する。
譲司は自分のノートを開かなかった。画面も表もない机では、誰かの答えをどの欄へ入れるか決められない。
「夏休み、ずっと株?」
「市場が開く日は」
「閉まってる日は?」
「前の数字を見る」
「それ、休み?」
「注文は出さない」
美琴は笑わず、地図を畳んだ。
「私は来週も工場。今度は見出し決めないで行く」
「何を聞く」
「それを先に決めすぎないようにしてる」
図書館を出ると、美琴は駅とは反対のバス停へ向かった。譲司はどこへ行くのか聞かなかった。帰宅すれば、北関通信設備の終値と出来高を更新できる。
週明け31日は高値440円、終値432円、出来高101,000株。8月1日は高値455円、終値449円、出来高113,000株だった。
材料が出た翌日だけではなく、3営業日続けて高値と出来高が増えた。同業の表示装置会社と業務端末会社も、前週終値を上回っていた。
譲司は3銘柄の行を並べる。
東洋映像機器 翌日、高値更新なし/出来高減少
北関通信設備 高値・出来高継続/指値未到達
新世紀メディア機器 高値・出来高3日継続
「三つ目だけ買う」
「いくら」
「470円」
「前の終値449円だぞ」
「前日高値455円を越えて始まるなら」
「また高いところ?」
「高いからじゃない。買いが続いてる」
「東洋映像も上がってた」
「1日だけだった」
「北関通信も続いてた」
「買える値段まで下がらなかった」
佐伯は3行を見た。
「僕は、ここまでだな」
「何が」
「同じ形に並べるところまで。三つ目だけ買うとは言えなかった」
「新世紀だけ条件が残った」
「それを見て、注文を出したのはお前だろ」
佐伯は自分が作った列見出しを上から追い、数量欄で指を止めた。数字の違いは並んでいる。まだ結果欄が空だった時、その違いを一つの注文へまとめたのは譲司だった。
「じゃあ、これは勝つ条件じゃなくて、注文を出す条件?」
「同じ条件なら、同じ判断ができる」
「結果は同じにならないかもしれない」
「結果は後で決まる」
譲司は答えながら、条件名のセルへ「継続」と入力した。少し考えて消し、「再現」と入れた。
前週までの数字と注文条件を書き終え、8月2日の午前8時を過ぎて画面を更新する。新世紀メディア機器は470円付近の買い気配だった。同業2銘柄にも前日終値を上回る注文が入っている。
午前8時15分、500株、470円の買い注文を送信した。
買付代金235,000円と手数料472円。全量約定すれば現金は7,000円残る。
新世紀メディア機器は470円で始まり、高値496円、安値446円、終値486円。出来高220,000株。帰宅後、注文履歴には500株、470円、全量約定と表示されていた。
現金 7,000円
保有株評価額 243,000円
口座時価 250,000円
買付日の安値は446円。買値より24円下だった。だが、終値は前日より37円高く、出来高はほぼ2倍になっている。東洋映像機器の翌日とは違った。
譲司は3行の備考を更新し、保有を続けた。
翌日の夕方、佐伯が野球部の記録用紙を持ってきた。夏の大会は終わっていたが、秋の練習試合に向けて打席数と出塁率の表を作り直すらしい。
譲司の画面には、新世紀メディア機器の終値509円と、東洋映像機器の176円、北関通信設備の538円が並んでいた。
「まだ三つとも見てるの?」
「見てる」
「買ってない二つも?」
「次に同じ形が出た時に必要になる」
「何が同じなら、同じ形になるの」
「材料がある。出来高が増える。高値が続く」
「東洋映像も材料あったし、出来高増えた」
「翌日に続かなかった」
「北関通信は続いた」
「値段が届かなかった」
「じゃあ、株じゃなくて注文まで同じじゃないと再現にならない?」
譲司は「再現」のセルを開いた。条件名を「継続確認」に変えれば、佐伯の質問には答えやすい。だが、変えれば三つの結果を一つの方法へまとめる感覚が弱くなる。
「注文まで含める」
「1円違うだけでも?」
「1円違えば結果が変わる」
「それ、再現っていうより、後から同じにしてない?」
佐伯は表を閉じず、野球部の記録用紙をその横へ置いた。打率が同じ二人でも、打席数が違えば同じ選手とは扱えない。そう説明する代わりに、二つの表の列を揃え、画面を左右へ分けた。
「この並べ方、見やすいだろ」
「見やすい」
「前は銘柄ごとに別だったから、三つを比べられなかった」
「これなら毎回使える」
佐伯は野球部の用紙より先に、相場表の列幅を調整した。新世紀メディア機器の行だけ、約定数量500株と保有中の表示が入っている。取消と未約定の2行には数量を入れず、注文数量を備考へ移した。
譲司には、その方が正しかった。実際に保有している500株と、買うつもりだった500株は同じ数量でも意味が違う。
翌3日の終値509円、4日は538円。7日551円、8日569円、9日585円。高値と終値は少しずつ上がった。
10日の終値は611円、11日は640円。週明け14日は684円、15日は714円、16日は737円だった。
譲司は毎日、3銘柄を同じ順番で更新した。最初に出来高、次に高値と終値、最後に自分の注文結果を見る。東洋映像機器は一度戻しても280円へ届かず、北関通信設備は上昇後に値幅が荒くなった。保有していない2銘柄の数字も消さなかった。消せば、新世紀メディア機器だけが最初から正しい答えだったように見える。
それでも、含み益の計算だけは入力順の最初に戻った。737円と470円の差267円へ500を掛ける。133,500円。表を更新する前から数字が出た。
北関通信設備を買えなかった後、譲司は1円を削った自分を何度も計算した。新世紀メディア機器が上がると、今度は470円で買えたことを自分の判断へ足した。
どちらも、注文時点では結果が決まっていない。その事実は分かっていた。それでも、連続する数字は一つの方法が完成しつつあるように見えた。
8月16日、新世紀メディア機器の高値は747円、終値737円。17日は高値752円まで上がったが、終値は741円。高値更新の幅が小さく、出来高は185,900株だった。
譲司は売却条件を確認した。
高値更新が止まる
出来高が増えても終値が伸びない
780円まで買われれば全株売却
500株、780円の売り指値を送信した。
18日の始値738円、高値794円、安値725円、終値768円。売り注文は780円で全量約定した。
佐伯の表へ戻る。
東洋映像機器 取消 0円
北関通信設備 未約定 0円
新世紀メディア機器 売却 +154,056円
譲司は条件名の「再現」を選んだ。
「この名前、まだ使う?」
「使う」
「三つとも結果、違うよ」
「だから残す。どこまで同じなら、同じ判断ができるか分かる」
「結果まで同じになるみたいだけど」
譲司は返事をせず、セルの入力位置を一つ右へ動かした。
佐伯は3行を並べ替えなかった。取消、未約定、売却の順に残す。表を保存した後、譲司は「再現」の文字を消さなかった。
【今回の運用資産推移】
開始時:242,472円
終了時:396,528円
増減額:+154,056円
増減率:+63.54%
取引回数:3回