相場師は欲望から降りられない   作:山崎春のパン祭り

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第十五話 出来高の罠

9月4日、月曜日。始業前の教室には、文化祭までの日数を書いた紙と、模擬店で使う値札が並んでいた。

 黒板の端には、飲み物100円、焼き菓子250円と書かれている。佐伯は先週の試作会で使った集計表を机へ広げ、同じ数字を3度足していた。

 

「個数は合ってる」

「金が合ってない」

「それで困ってる」

 

 売れた数は148個。残った材料と配った試食品を数えても、在庫の差はなかった。それでも、封筒に入っている現金は、表の売上見込みより2,550円少ない。

 譲司は表を見た。

 

 飲み物 79

 焼き菓子 69

 合計 148

 

「どっちかの値段を間違えたんじゃないか」

「表には値段がない」

「何で」

「昨日は、何個出たかだけ分かればいいって言われたから」

 

 佐伯は新しい紙へ、品目、単価、販売数、売上額の4列を作った。配った分と廃棄した分も別にした。すると、焼き菓子を17個、飲み物の100円として記録していたことが分かった。差額は1個150円。17個で2,550円だった。

 

「合った」

 

 会計係の女子が声を上げた。担任も表をのぞき込み、佐伯へ言った。

 

「最初からこれにしておけば、確認が早かったな」

「昨日は急いでたから」

「今日のは見やすい。文化祭当日も頼む」

 

 佐伯は、褒められても笑わなかった。4列の幅を揃え、金額欄だけ右へ寄せた。

 予鈴が鳴ると、譲司は机の中へ値札を押し込んだ。佐伯は集計表をファイルへ入れる前に、もう一度数字を見た。

 

「148個売れたのは同じなのに、金は違うんだな」

「値段が違うから」

「分かってる」

 

 佐伯はそう言い、ファイルを閉じた。

 文化祭では、教室の半分を模擬店、残りを休憩場所にする予定だった。廊下側には段ボールで作る看板、窓側には借りてきた長机を置く。誰が材料を買い、誰が現金を預かり、余った品をどう数えるかは、まだ決まっていない。

 実行委員は、売れた数が分かれば十分だと言った。会計係は、現金が合えば十分だと言った。担任は、あとで説明できる形にしておけと言った。三人の言う「十分」は同じではなかった。

 佐伯は休み時間にもう1枚、当日用の表を作った。販売数の右へ、試食品、廃棄、残数を置く。売上額の右には、現金受取と釣銭残高を分けた。

 

「そこまでいる?」

 

 会計係の男子が聞いた。

 

「合わなかった時に、どこが違うか分からない方が面倒だから」

「佐伯、こういうの好きだよな」

「好きじゃない。合わないままなのが嫌なだけ」

 

 佐伯は答えながら、少しだけ口元を緩めた。譲司はその表を横から見た。相場表へ列を増やす時、佐伯も同じ顔をしていた。

 

 譲司の相場ノートには、前週から出来高急増ランキングの銘柄が増えていた。

 8月28日から9月1日まで、星和通信の出来高は65,000株、77,000株、89,000株、101,000株、113,000株と増えていた。終値も327円から341円、345円、352円、363円へ上がっている。

 同じランキングには、星和通信より出来高の多い低位株が何銘柄もあった。

 

 東央娯楽サービス 出来高620,000株

 新日本ソフト販売 出来高480,000株

 星和通信     出来高113,000株

 

 株数だけなら、星和通信は下だった。

 前週金曜日、佐伯は画面を見て言った。

 

「東央娯楽サービスの方が、出来高は6倍くらいある」

「株価は?」

「92円」

「星和通信は363円」

「株価が違っても、売買された株数は6倍だろ」

 

 譲司も、すぐには否定できなかった。出来高急増ランキングは、いつもより多く売買された銘柄を探すには使える。同じ銘柄の過去と比べるなら、110,000株が多いか少ないかも判断できる。

 だが、銘柄同士を並べた時、620,000株と110,000株の差が、そのまま入った資金の差になるわけではなかった。

 譲司は電卓へ、92円と620,000株を入れた。

 

 57,040,000円。

 

 星和通信は、その日の始値351円、高値368円、安値346円、終値363円。正確な約定代金は1件ずつ違うため、表では始値、高値、安値、終値の平均に出来高を掛けていた。

 

 約40,341,000円。

 

「東央娯楽の方が多い」

「やっぱり」

「でも6倍じゃない」

 

 別の銘柄を計算する。北信産業制御は出来高80,000株しかないが、株価は900円近かった。売買された金額は7,000万円を超えていた。

 順位が変わった。

 出来高だけでは上位だった銘柄が、金額では中ほどへ下がる。反対に、出来高順位では目立たなかった高価格株が上へ出る。どちらの順位が正しいのではなく、見ているものが違った。

 譲司は、出来高急増ランキングを閉じなかった。過去平均との差を見つける装置としては使える。ただし、その数字だけで、どこへ最も大きな資金が入ったかまでは分からない。

 候補を拾う入口は二つに絞った。値上がり率ランキングと、佐伯の式で平常時比に並べ替えた売買代金急増ランキング。

 出来高急増、新高値、新安値、値下がり率、業種別の順位も、必要な日には開く。ただし、毎朝すべてを書き写さない。候補表へ移すのは、原則として二つの入口からにした。

 

「昨日の2倍なら、増えたのは分かる」

「でも、ほかの株と比べるなら値段も要る」

「そう」

「じゃあ、出来高だけ見ても駄目?」

「出来高が増えた理由も見る」

「それ、前から見てた?」

 

 譲司は返事を遅らせた。星和通信を残した最初の理由は、終値と高値が続けて上がっていたことだった。出来高の多さは、その動きを確かめる数字として使っていた。それでも、ランキングの順位が高いほど資金が集まったように感じていた部分はある。

 

「比べ方を変える」

「間違ってた?」

「使い方が足りなかった」

 

 佐伯はその言い方を聞き、電卓を取った。

 

「候補、全部計算するの?」

「候補だけ」

「どの株価を掛ける?」

「四本値の平均」

「毎回?」

「正確な金額じゃない。比較用だ」

 

 佐伯は相場表へ列を増やそうとしたが、予鈴が鳴った。譲司は星和通信の注文条件だけをノートへ残した。

 

 前日高値368円を上回って始まる。

 通信関連2銘柄も前日終値以上。

 出来高の増加が続く。

 380円まで。

 

 1,000株を380円で買えば380,000円。買付手数料472円を加えると、残る現金は16,056円だった。

 

 396,528円-380,472円=16,056円

 

 午前8時を過ぎて画面を更新する。星和通信には380円近くの買い注文が入り、同業の通信設備会社と法人向け回線会社も前週終値を上回っていた。

 午前8時15分、1,000株、380円の買い指値を送信した。

 学校では、1時間目から文化祭の係分担が回ってきた。譲司は設営に丸を付けた。接客へ入れば、客数や売上を数えることになる。設営なら、机を動かし終えれば離れられると思った。

 放課後、教室の後ろには段ボールが積まれ、窓際では新聞部が展示用の模造紙を広げていた。

 美琴は記事の見出しを切り抜き、時系列に並べていた。夏休みに取材した工場の記事もある。前に消した「受注減に苦しむ町工場」という見出しは使われていなかった。

 

「そっち持って」

 

 美琴がパネルの端を示した。譲司は佐伯と二人で持ち上げ、壁際の机へ運んだ。

 

「もう少し右」

「ここ?」

「そこ。傾いてる」

 

 美琴は譲司の鞄から相場ノートが見えても、何も聞かなかった。展示の順番を変え、写真の下へ説明文を貼る。

 

「今日、注文出した」

 

 譲司が言うと、美琴は画鋲を押し込んだまま答えた。

 

「今これ落ちたら、写真全部やり直し」

「終値だけ確認する」

「家でやって」

 

 譲司はパネルから手を離さなかった。

 

 帰宅した時、取引は終わっていた。

 星和通信は380円で始まり、高値402円、安値357円、終値393円。出来高220,000株。注文履歴には1,000株、380円、全量約定と表示されていた。

 

 現金 16,056円

 保有株評価額 393,000円

 口座時価 409,056円

 

 買値より終値は13円高い。だが、安値は357円まであった。授業中、含み損は最大23,000円になっていた。

 譲司は1分足を開いた。9時直後に380円で始まり、402円まで上がった後、10時台に357円まで下がっている。昼前から買いが戻り、午後は390円台で終えた。

 自分が見ていない時間だけで、利益、損失、利益の順に変わっていた。

 見ていれば357円で売っていたかもしれない。見ていなかったため保有できた、と考えることもできる。だが、学校にいたことを取引方法にはできない。翌日も同じ下げ方をすれば、放課後まで何もできない。

 譲司は、買付前に書いた条件の下へ1行加えた。

 終値と出来高が崩れない限り、場中の下落だけでは売らない。

 書いた後、357円の安値を囲んだ。見られなかった値動きを無かったことにはしなかった。

 翌5日の終値は425円。6日は451円。7日は466円。8日は491円。

 譲司は授業が終わるたび、終値だけを先に確認した。高値、安値、出来高、同業種の動きは後から埋めた。文化祭準備で帰宅が遅れた日は、1分足を開き、その日の値動きを朝から順に再生するように見た。

 9月8日の金曜日は、教室の机を全て動かしたため、帰宅は午後8時近くになった。星和通信は491円で終えていた。始値469円、高値497円、安値463円。譲司は昼休みの時間帯だけ拡大した。自分が段ボールへ色を塗っていた頃、株価は一度470円台まで押し、午後に高値を付けている。

 文化祭の準備中、価格は止まっていない。譲司が見ていないからといって、買い手も売り手も待たない。

 

 土曜日、市場は休みだった。譲司は教室で看板へ文字を書きながら、前日までの5日分を頭の中で並べた。佐伯は隣で販売表の印刷見本を切り分けている。

 

「株、今いくら?」

「491円」

「買ったの380円だっけ」

「そう」

「じゃあ、111,000円増えてる?」

「まだ売ってない」

「前は、買ってない損を計算してたのに」

 

 譲司は返さなかった。佐伯は紙を切る線へ定規を戻した。

 

 11日、月曜日。星和通信の終値は528円。出来高は140,800株だった。

 佐伯は文化祭の会計表を直した後、譲司の相場表を開いた。星和通信の出来高だけでなく、北信産業制御と東央娯楽サービスの数字も残っている。

 

「これ、まだ株数の順だ」

「金額の列がない」

「作ればいいだろ」

 

 佐伯は一番右へ仮の列を作り、終値と出来高を掛けた。譲司が四本値の平均を使うと言う前に、佐伯は首を振った。

 

「終値だけだと、朝に高かったやつがずれる」

「だから平均」

「始値、高値、安値、終値を足して4で割る」

「分かってる」

「じゃあ、星和通信は」

 

 佐伯は式を入れた。

 

 9月11日。

 始値492円、高値535円、安値486円、終値528円。

 平均510.25円。

 出来高140,800株。

 推定売買代金71,843,200円。

 

 佐伯は次の銘柄も計算した。出来高順位では星和通信より上だった1銘柄が、金額では下へ移った。

 

「これ、逆になる」

 

 譲司が画面を見る前に、佐伯が言った。

 

「どれ」

「東央娯楽。株数は多いけど、入ってる金はこっちの方が少ない」

 

 佐伯は二つの行を選び、並び替えた。

 譲司は計算式を確認した。参照セルも、桁も間違っていない。

 

「合ってる」

「先に気づいたの、僕だよ」

「式を入れたからだ」

「その式を入れたのも僕」

 

 佐伯は笑わず、星和通信の行を一番上へ移した。文化祭の会計表を直した時と同じように、金額欄だけ右へ寄せる。

 譲司は並び替え後の表を見た。星和通信を買ったのは自分だった。だが、この順位の違いを最初に見つけたのは佐伯だった。

 

「次からこの列を見る」

「出来高は消す?」

「消さない」

「両方いる?」

「同じ銘柄の増え方は出来高。銘柄同士の金額はこっち」

 

 佐伯は頷いた。自分が作った列が、補助ではなく判断の順番へ入った。佐伯は売買代金の列を一度選び、星和通信の利益欄へ視線を移した。

 ただ、順位の違いに気づいたのは、譲司が候補を残し、注文を出し、場中の下落を越えて保有した後だった。結果欄が空だった時に、一つの銘柄へ資金を置いたのは譲司である。佐伯は列を並べ替えた後、何も言わず保存した。

 

 その日の帰り、会計係の女子が佐伯を呼び止めた。

 

「当日の表も、今日の形式で印刷していい?」

「いいけど、試食品と廃棄は分けて」

「分かった。佐伯が作ったやつ、先生もこれでいいって」

 

 佐伯は、譲司の方を見なかった。

 

 12日の星和通信は、始値529円、高値578円、安値523円、終値571円。出来高176,500株。推定売買代金は9,700万円を超えた。

 13日は終値612円。14日は始値610円、高値647円、安値596円、終値633円。出来高171,600株。推定売買代金は1億円を超えた。

 出来高だけなら、9月4日の220,000株より少ない。それでも、株価が上がったため、動いた金額は増えていた。

 譲司は翌日の売却条件を書いた。

 

 650円で1,000株。

 高値を更新しても、注文は変更しない。

 

「まだ上がってる」

 

 佐伯が言った。

 

「だから売る」

「出来高は減ってない」

「金額は増えた。650円なら買値から270円上だ」

「もっと上にしないの?」

「上がった後なら、いくらでも言える」

 

 文化祭準備で帰宅が遅くなる日が続いたため、前夜、譲司は証券会社の約定通知を携帯電話のメールへ送る設定にした。家族連絡用の折り畳み式携帯電話で、注文や口座確認はできない。届くのは、約定した銘柄名、数量、価格だけだった。

 譲司は9月15日の午前8時15分、1,000株、650円の売り指値を送信した。

 その日は文化祭前日のため、午後の授業が準備へ変わった。机を廊下へ出し、床へ養生テープを貼る。模擬店の看板を吊るし、新聞部の展示パネルを体育館へ運ぶ。

 譲司の携帯電話は鞄の中にあった。携帯電話からは取引画面を開けない。650円へ届いたかどうかも分からなかった。

 美琴は体育館で記事の順番を確認していた。譲司がパネルを置くと、写真の1枚を少し下へ直した。

 

「明日、見に来る?」

「時間があれば」

「市場、休みでしょ」

「今日の数字を見る」

「明日じゃなくても見られるよね?」

「明日なら全部出てる」

 

 美琴は返事をせず、別の部員を呼んだ。展示の端には、受注が減った工場、仕事が楽になった職人、新しい部品へ切り替えた会社の記事が、結論を一つに揃えず並んでいた。

 夏休みの図書館では、見出しを決めないで取材へ行くと言っていた。展示には、その後に聞いた人の言葉が増えている。譲司が提案した3分類は使われていなかった。

 

「これ、全部書いたの?」

「新聞部で分けた」

「お前の記事はどれ」

「名前、下にある」

 

 美琴は自分の記事を指ささなかった。代わりに、取材先の写真が曲がっていないか確認した。譲司も探さなかった。星和通信の約定通知が届いているかもしれないと思うと、展示の文章を上から読むことができなかった。

 

 午後6時を過ぎ、教室へ戻る。窓の外は暗くなり始めていた。

 譲司は鞄から携帯電話を出した。約定通知が1件届いている。

 

 星和通信。

 1,000株。

 650円。

 全量約定。

 

 その日の始値636円、高値662円、安値618円、終値640円。出来高200,000株。売却価格650円は高値と安値の間にあり、注文は複数回に分かれて約定していた。

 買付価格380円。売却価格650円。売買差益270,000円。買付手数料472円、売却手数料840円。

 

 純利益 268,688円

 現金残高 665,216円

 保有株なし。

 未約定注文なし。

 

「売れた?」

 

 佐伯が模擬店の集計用紙を抱えたまま聞いた。

 

「650円」

「いくら増えた?」

「268,688円」

 

 佐伯はすぐには答えなかった。売買代金の列を見てから、星和通信の利益額へ視線を移す。口座名義も、注文番号も、残高も譲司のものだった。

 佐伯の指が、式の入ったセルの上で一度止まった。だが、星和通信を候補へ残し、実際の金を置き、買付後の安値を見ても持ち続け、上昇中に売値を固定したのは譲司だった。

 

「明日の表、まだ印刷してない」

「何の?」

「文化祭の売上」

 

 佐伯は教卓のパソコンへ戻り、文化祭の表へ画面を切り替えた。品目、単価、販売数、売上額。4列の見出しを確認し、印刷枚数を入力する。相場表を閉じるまでに、一拍だけ間があった。

 譲司は自分の相場表を開いた。出来高の右隣には、佐伯が仮に作った計算列が残っている。列名はまだ空白だった。

 佐伯は椅子を寄せ、空白の見出しへ入力した。

 

 売買代金

 

「式は?」

「明日」

「市場は休みだぞ」

「文化祭があるから」

 

 佐伯は「売買代金」と入れたセルを一度見直し、式を入れずに保存して立ち上がった。

 廊下の向こうから、消灯を知らせる声が聞こえた。新聞部の教室が暗くなり、次に隣の教室、その次の教室の灯りが消えた。

 佐伯は文化祭の集計表を持って先に出た。

 

 譲司の画面には、売買代金という列名だけが残っていた。

 譲司が廊下へ出ると、最後に教室の灯りが消えた。

 

 9月16日、土曜日。文化祭当日、午前の模擬店が一段落すると、教室には甘い焼き菓子の匂いと、紙コップの水滴が残っていた。販売を終えた生徒が廊下へ出ていく一方で、佐伯は販売数と現金受取を照合していた。

 譲司は設営でずれた机を戻し、空になった段ボールを廊下へ運んだ。市場は休みだった。前日の星和通信は売却済みで、未約定注文もない。携帯電話を確認する理由はなかった。

 新聞部の腕章を着けた美琴が、教室の入口へ来た。

 

「今、空いてる?」

「片づけが終われば」

「もう終わってる」

「売上の確認が残ってる」

「それは僕がやる」

 

 佐伯は表から顔を上げずに言った。

 

「20分で戻って。次の販売が始まる」

「借りるね」

「本人に言って」

 

 美琴は譲司を見た。

 

「20分、付き合って」

「分かった」

 

 廊下は、模擬店の呼び込みと吹奏楽部の音が重なっていた。向こうから同じ色の法被を着た集団が来ると、美琴は譲司の制服の袖をつかみ、人の流れから外れた。

 つかんだのは数秒だった。人が通り過ぎると手を離し、そのまま体育館へ向かう。

 譲司は袖を直さなかった。

 

 新聞部展示には、前夜より多くの人がいた。美琴は自分の記事の前で止まらず、工場の経営者、従業員、退職した人、取引先の記事を順番に見せた。

 

「昨日、全部読まなかったでしょ」

「見た」

「名前の位置だけ」

「名前も探してない」

「それはもっと悪い」

 

 美琴は夏に話していた従業員の記事を指した。受注が減った後、別の工程へ移ったこと。残業が減り、給料も減ったこと。家へ帰る時間だけは早くなったことが書かれている。

 譲司は見出しから読み始めた。途中で美琴が別の来場者へ展示の説明をしても、先へ進まず、最後の一段まで読んだ。

 記事の下には、美琴の名前があった。

 

「前は、仕事が減ったって話だけだった」

「もう一度聞いたから」

「残業が減って良かった、だけでもない、給料が減って悪かった、だけでもない」

「前より決めつけてない」

「それ、褒めてる?」

「前より最後まで読める」

「言い方」

 

 美琴は口元を押さえた。笑ったのか、呆れたのかは分からなかったが、記事の位置を直す必要はないのに、紙の端へ一度触れた。

 近くにいた新聞部員が二人を見た。

 

「高瀬、案内してるの?」

「うん。最後まで読む人を捕まえた」

「珍しい人?」

「珍しい」

 

 譲司は否定しなかった。

 

 体育館を出ると、美琴は譲司のクラスの模擬店で飲み物を二つ買った。どちらも100円だった。

 

「俺のクラスだ」

「だから買った」

「自分で払う」

「展示を最後まで読んだ代」

「読むだけで100円?」

「今日は」

 

 二人は人の少ない階段の踊り場へ座った。吹奏楽部の音は壁を挟むと低くなり、代わりに階下の呼び込みが途切れながら聞こえた。

 紙コップは少し柔らかく、持つ場所を変えるたびに蓋の縁から水滴が落ちた。美琴は腕章を外さず、膝の上の文化祭プログラムを指で押さえていた。

 

「今日は株の話、しないんだ」

「聞かれてない」

「聞かなかったら、しない?」

「話す必要があれば」

「必要って誰に?」

「聞く方に」

「じゃあ、今日は私の記事の方が必要だった?」

「20分しかないから」

「そういう答えじゃない」

 

 美琴は紙コップへ口を付け、続きを求めなかった。

 譲司も黙った。次に何を言えばよいか分からなかったが、携帯電話を開く理由はなく、時計を見る必要もなかった。

 階段を上る生徒が来るたび、二人は少しずつ壁側へ寄った。肩が触れるほどではない。それでも、最初に座った時より距離は狭くなった。

 

「次、写真部」

「まだ見るのか」

「時間は?」

「残り8分」

「見てるじゃん」

「集合時間がある」

 

 階段を上がり、隣の校舎にある写真部展示へ入った。工場の作業場を写した一枚には、人が誰も写っていなかった。床に台車の跡があり、壁際には使いかけの軍手が置かれている。

 

「人、いない」

「でも、誰かがいたのは分かるでしょ」

「床に跡がある。軍手も使いかけだ」

「譲司は、写ってない人じゃなくて、残った物を見るんだ」

「写ってない人は見えない」

「私は、誰が置いたか考える」

「答えは写ってない」

「答えがないと見ないの?」

「見た物は残す」

「そういうの、相場じゃなくても見るんだ」

「見れば分かる」

「またそれ」

 

 美琴は少し笑った。

 校内放送が、午後の模擬店開始を知らせた。

 

「20分」

「19分」

「数えたの?」

「時計を見ただけ」

「じゃあ、次はもう少し長く」

「市場が休みなら」

「今日も休みだった」

「また連絡して」

「返事はその日のうちにして」

「分かった」

 

 美琴は文化祭のプログラムを開き、新聞部展示のページへ折り目を付けた。譲司が入口で受け取ったプログラムにも、同じ場所へ折り目を付ける。

 

「勝手に折るのか」

「戻る場所が分かる」

「もう読んだ」

「次に開く時のため」

「また読むのか?」

「譲司が読むかは知らない。私は残す」

 

 美琴は自分のプログラムを鞄へ入れた。

 譲司は折られたプログラムを、相場ノートではなく制服の内ポケットへ入れた。

 

 教室へ戻ると、佐伯は午後分の販売表を机へ広げていた。販売数の右に単価、その右に売上額と現金受取が並んでいる。

 

「19分」

「20分って言っただろ」

「戻るまでで19分」

「細かい」

「お前が言うな」

 

 美琴は新聞部へ戻り、譲司は次の販売に使う紙コップを並べた。午後の客が増えると、飲み物と焼き菓子は別々の速さで減った。販売数だけを見れば飲み物の方が多い。売上額では、単価の高い焼き菓子との差が小さくなった。

 佐伯は数を入力するたび、現金受取と釣銭残高を確認した。

 

 文化祭が終わる頃、教室の床にはテープの跡が残り、黒板の値段表は半分消されていた。

 佐伯は売上表の合計を確定した後、譲司の相場表を開いた。前夜に列名だけ入れた「売買代金」の下へ、始値、高値、安値、終値の平均と出来高を掛ける式を入れる。

 

「文化祭は、販売数に単価を掛ければ出る」

「株は全部同じ値段で売買されてない」

「だから平均」

「正確な約定代金じゃない」

「比較用」

 

 佐伯は星和通信と、出来高順位では上だった低位株を並べ替えた。株数の順位と、推定売買代金の順位は同じにならなかった。

 午前に使った文化祭の販売表を閉じる。画面には相場表だけが残った。

 

「式、今日入れた」

「昨日は文化祭があるって言った」

「終わったから」

「売上は合った?」

「合った。販売数だけ見てたら合わなかった」

 

 譲司は売買代金の列を上から確認した。出来高は消していない。同じ銘柄の平常時との違いを見るために残す。銘柄同士で動いた金額を比べる時は、隣の列を見る。

 役割の違う数字を同じものとして扱ったことが、罠だった。

 譲司はその一文をノートへ書こうとして、やめた。説明として整いすぎていた。代わりに、二つの列名だけを残す。

 

 出来高。

 売買代金。

 

 ノートを閉じた時、制服の内ポケットで、文化祭プログラムの折り目が指に触れた。

 教室の画面には、計算式の入った売買代金の列が残っていた。




【今回の運用資産推移】
開始時:396,528円
終了時:665,216円
増減額:+268,688円
増減率:+67.76%
取引回数:4回
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