12月30日、土曜日。市場が休みに入った翌朝、佐伯は城戸家の居間へ取引履歴と相場ノートを並べた。
佐伯は、譲司が1月から残していた約定履歴を日付順に並べ直していた。自分が相場表へ関わる前の取引は、譲司のノートと証券会社の履歴を照合して入力した。その後ろへ、東明計測から極東データサービスまでの6件が続く。買値、売値、数量、買付手数料、売却手数料、売却後残高を、1件ずつ別の欄へ置いていた。
文化祭の集計表を褒められた時も、佐伯は「表を作っただけ」と言っていた。相場表でも、注文したのは譲司で、利益は譲司の口座へ入る。それでも、年の初めから最後まで数字を同じ形式へ揃えたのは佐伯だった。列幅を合わせ、手数料を買いと売りへ分け、途中で形式が変わった行を直す。最後の行まで整えると、佐伯は画面を上から一度見直し、少しだけ口元を緩めた。
譲司は電卓を使わず、行の数字を追った。
「最後は1,670,701円」
「それは画面で見た」
「途中も合ってる」
「まだ足してないけど」
「見れば分かる」
佐伯は返事をせず、買付手数料と売却手数料だけを別の列へ移した。4件目の星和通信までは、文化祭前に作った表へ入っている。5件目と6件目は、年末用の集計へ移すために空欄のままだった。
表の上には、今年の開始資金として300,000円が置かれている。右端には、売却後残高1,670,701円。途中の最高口座時価1,803,972円は、年間損益の欄ではなく、別の「最大時価」へ入っていた。
「それも今年の数字だろ」
「残高じゃない」
「売れば、その金額になった」
「売ってない。だから別」
佐伯は最大時価の列を年間損益から離した。譲司には、1,803,972円を年の最高点として残したい気持ちと、最後に残らなかった数字として見たくない気持ちの両方があった。
開始資金と年末残高の差は1,370,701円だった。
「現金で100万円を越えたの、10月だっけ」
「10月27日」
「北斗エネルギー機器は、最初どこで見つけた?」
「売買代金急増ランキング」
佐伯は5件目の行を指した。
北斗エネルギー機器。
1,000株。
640円買い。
1,050円売り。
売却後残高1,073,326円。
譲司は、その数字が表示された日の食卓を思い出した。
10月の初め、北斗エネルギー機器は、値上がり率ランキングでは目立たない位置にいた。代わりに、売買代金急増ランキングでは前週から上位へ残っていた。
10月2日の終値は550円。出来高65,000株。推定売買代金は35,717,500円。
3日は終値574円、出来高77,000株、推定売買代金43,177,750円。
4日は583円、89,000株、51,531,000円。
5日は589円、101,000株、59,236,500円。
6日は611円、113,000株、67,828,250円。
株価だけでなく、動いた金額が1日ずつ増えていた。エネルギー制御機器の同業2銘柄も、週を通して前週終値を上回っている。
星和通信の時に佐伯が作った「売買代金」の列は、まだ完全ではなかった。四本値の平均へ出来高を掛けるため、正確な約定金額ではない。それでも、同じ銘柄の平常時と比べるには使えた。
北斗エネルギー機器の1か月平均は、3,000万円台だった。6日の推定値は、その2倍近い。
「今日、買う?」
6日の午前8時を過ぎ、佐伯が電話で聞いた。
「まだ」
「昨日より増えてる」
「今朝の買い注文が広がってない」
「出来高は昨日の数字だろ」
「今日も続くかは別」
「じゃあ、今朝は何を見る?」
「始まる値段と、同業」
譲司は610円の買い指値を入力しかけ、確認画面の手前で止めた。前日高値は597円。前日高値を越えて始まる可能性はあった。だが、午前8時を過ぎた時点では、同業2銘柄の買い気配が揃っていなかった。
注文は送らなかった。
学校へ行く途中も、610円の確認画面が頭に残った。注文を出さなかった理由は、価格が高かったからではない。同業の気配と、買い注文の広がりが足りなかったからだ。そう書けば、後から言い訳を作ったようにも見える。譲司は午前8時台に記録した気配値を消さず、その横へ「条件未達」とだけ入れた。
その日は高値624円、終値611円。出来高は113,000株まで増えた。見送った後に数字が強くなったため、譲司は注文しなかった自分を間違いとして計算しかけた。
だが、口座残高は665,216円のままだった。
翌9日は祝日で、市場は開かなかった。譲司は3日分ではなく、5日分の売買代金を並べ直した。星和通信で使った条件の下へ1行加える。
平常時の売買代金から、どれだけ増えたか。
単なる売買代金上位では、いつも大きく取引される大型株ばかりが残る。見たいのは、その銘柄にとって通常ではない金額が入った日だった。
10月10日、火曜日。午前8時を過ぎると、北斗エネルギー機器には640円付近の買い注文が入り、同業2銘柄にも前週終値を上回る気配が出ていた。
譲司は注文条件を読み返した。
前週高値624円を上回る。
同業2銘柄も前週終値以上。
平常時から売買代金が急増している。
640円まで。
午前8時15分、1,000株、640円の買い指値を送信した。
買付代金640,000円。買付手数料840円。注文が全量約定すれば、現金は24,376円残る。
学校では、体育の授業で持久走があった。譲司は走る順番を待ちながら、640円から何円下がれば前日の終値へ戻るかを計算した。29円。1,000株なら29,000円。
走り始めると計算は続かなかった。呼吸と足音の間へ株価を入れようとしても、数字が一周ごとに途切れる。授業が終わるまで、約定したかどうかも分からなかった。
帰宅後、注文履歴には1,000株、640円、全量約定と表示されていた。
始値640円、高値675円、安値604円、終値662円。出来高220,000株。推定売買代金141,955,000円。
前営業日の2倍を超えていた。
現金 24,376円
保有株評価額 662,000円
口座時価 686,376円
買付日の安値は604円。授業中には36,000円の含み損になっていた。終値では22,000円の含み益へ戻っている。
譲司は安値を消さなかった。出来高と売買代金が増えても、買った瞬間から上がり続けるわけではない。
翌日の終値は698円。12日は723円。13日は744円。週明け16日は771円だった。
譲司は毎日、北斗エネルギー機器の左側へ、エネルギー機器業種の2銘柄を置いた。個別株が高値を更新しても、同業が下がれば追加しない。2銘柄が上がっても、北斗エネルギー機器の売買代金が平常へ戻れば、保有理由を見直す。
追加注文は出さなかった。1,000株だけで、1円動けば1,000円増減する。星和通信より買値は高いが、株数は同じだった。
17日の終値784円。18日は819円。19日は850円。20日は866円。
口座時価は890,376円になった。
100万円まで109,624円。譲司は残りの金額を計算し、ノートの余白へ書いた。株価なら約110円。北斗エネルギー機器が976円を超えれば、現金と評価額の合計が100万円になる。
まだ売却条件ではない。100万円は株価の条件でも、出来高の条件でもなかった。
23日の終値は925円。口座時価949,376円。
翌24日、始値927円、高値1,010円、安値911円、終値993円。出来高160,400株。
現金24,376円と、1,000株の評価額993,000円。
口座時価 1,017,376円
画面に7桁の数字が表示された。
数字の桁が増えても、画面の字体は変わらなかった。警告も祝福も出ない。現金24,376円と評価額993,000円を足した結果が、他の残高と同じ大きさで表示されているだけだった。
譲司は画面を更新し直した。1,017,376円は変わらない。相場表の残高欄へ入力すると、桁が増えた分だけ列幅が足りず、末尾の一部が隠れた。列を広げる。数字が全部見えるようになる。
譲司は最初に1,017,376円から300,000円を引いた。717,376円。次に、春に一度表示された最高口座時価1,803,972円を思い出した。
まだ届いていない。
階下では、遥が美佐子と夕食の買い物袋を開けていた。譲司が居間へ下りると、食卓に牛乳、食パン、洗剤が並んでいる。
「今日、100万円越えた」
譲司が言うと、遥が洗剤の袋を持ったまま振り返った。
「何が?」
「口座」
「1万円じゃなくて?」
「100万円」
「100万円!」
遥は袋を置き、指を折り始めた。
「ゲーム何個買える?」
「物による」
「テレビは?」
「買える」
「冷蔵庫も?」
「買える」
「車は?」
「中古ならある」
「全部は?」
「全部買ったらなくなる」
遥は少し考え、美佐子へ向いた。
「100万円あったら、何買う?」
「買わない。まず置いておく」
「お母さんまで株みたい」
「生活のお金は、増やす前に減らさないの」
美佐子は買い物袋を畳み、譲司へ聞いた。
「売ったの?」
「まだ」
「じゃあ、100万円分の現金があるわけじゃないんでしょう」
「口座時価」
「明日も同じ?」
「分からない」
「なら、今日は100万円に見える日ね」
譲司は訂正しようとして止めた。評価額は現在の価格で全株を売れた場合の金額であり、実際の売却価格はまだ決まっていない。それでも画面には1,017,376円と表示されている。
誠一は味噌汁へ箸をつけたまま言った。
「最初の30万円は越えたのか」
「3倍以上」
「じゃあ、十分じゃないのか」
「何が」
「増えたって話なら」
「前に一度、180万円まで行った」
「それは残ったのか」
「残らなかった」
「なら、今ある100万円の話をしてる」
譲司は返事をしなかった。
遥はまだ100万円を生活の物へ換えていた。
「毎日100円使っても、ずっとなくならない?」
「10,000日」
「何年?」
「27年くらい」
「じゃあ大人になるまで使える」
「使えば減る」
「増やすんでしょ」
「毎日増えるわけじゃない」
遥は、増えない日があることより、100円を27年使える方を気に入ったらしい。美佐子は食パンを戸棚へ入れ、誠一は話を終えるようにテレビの音量を戻した。
食後、二階へ戻る。相場ノートには、口座時価1,017,376円の下へ、以前の最高口座時価1,803,972円と書いた。差は786,596円。
100万円へ到達した記録より、まだ届いていない金額の方が大きく見えた。
翌25日の終値は995円。26日は1,017円。高値は1,040円まで上がったが、出来高と高値の伸びは前週より小さくなっていた。
譲司は1,050円の売り指値を送信した。
10月27日、金曜日。始値1,011円、高値1,069円、安値991円、終値1,034円。売り注文は1,050円で全量約定した。
売却代金1,050,000円。売却手数料1,050円。受取額1,048,950円。
現金残高 1,073,326円
保有株なし。
未約定注文なし。
帰宅した佐伯へ電話で数字を伝えると、最初に聞かれたのは利益額ではなかった。
「売った後の残高は?」
「1,073,326円」
「買う前は665,216円」
「そう」
「差は408,110円」
「手数料込み」
「100万円は現金で残った?」
「残った」
譲司は通話を切った後、1,073,326円から1,803,972円を引いた。
マイナス730,646円。
遥へは、100万円で買える物を説明した。美佐子は現金になったかを聞いた。誠一は今ある100万円の話をした。
譲司が見たのは、失った最高値までの距離だった。
11月、美琴は図書館の閲覧席で、原稿用紙を裏返した。
「明日の発行、遅らせることにした」
譲司は極東データサービスの表から顔を上げた。
「印刷が間に合わない?」
「明日は出さない」
「何で」
「取材した人が足りない」
極東データサービスは、値上がり率ランキングと売買代金急増ランキングの両方に入り、候補表へ残った。
譲司の前には、極東データサービスの5日分の数字があった。終値447円、463円、473円、481円、497円。出来高は65,000株から113,000株へ増え、推定売買代金も29,217,500円から55,172,250円へ増えている。
美琴は取材ノートを開いた。人員削減を発表した会社について、会社側1人、退職した従業員1人、取引先1人へ話を聞いている。
「3人には聞いたんだろ」
「3人だけ。会社側も、辞めた人も、取引先も1人ずつ」
「追加するの?」
「今日、2人に連絡した。明日もう1人会う」
「結論は変わる?」
「変わるかもしれないし、変わらないかもしれない」
「なら、今のまま出して、後で追加すれば」
「最初の記事だけ読む人もいるから」
美琴は原稿を譲司の側へ渡さなかった。
「数字のところだけなら見る」
「見せない」
「何で」
「今は、誰の話を足すか決める方が先だから」
「誤字だけでも」
「自分でやる」
美琴は原稿を鞄へ入れた。譲司が見ていた5日分の株価には目を向けない。
「また工場?」
「今度は、辞めなかった人」
「明日学校は」
「終わってから行く」
美琴は先に立った。記事を遅らせたことを、失敗とも成功とも言わなかった。
譲司は極東データサービスへ戻った。
値上がり率は5日間で上向いている。売買代金も増えている。法人向けデータ処理会社の同業2銘柄も、前週終値を上回っていた。
北斗エネルギー機器と同じ順序だった。
市場。
業種。
個別株。
平常時からの売買代金急増。
前日高値更新。
11月13日、月曜日。午前8時15分、極東データサービスへ2,000株、520円の買い指値を送信した。
買付代金1,040,000円。買付手数料1,050円。全量約定後の現金は32,276円。
始値520円、高値549円、安値483円、終値538円。出来高220,000株。注文は520円で全量約定した。
買付日の安値は483円。2,000株では、買値から37円下がれば74,000円の含み損になる。終値では36,000円の含み益だった。
譲司は注文手順を新しく書かなかった。北斗エネルギー機器と異なる点だけを残した。
株数 2,000株
現金 32,276円
買付日の最大含み損 74,000円
同業種 法人向けデータ処理
平常時売買代金 約3,000万円
買付日推定売買代金 114,950,000円
株数が2倍になったため、1円の動きも2倍になった。
翌日の終値558円。15日は574円。16日は579円。17日は595円。
20日は616円。21日は637円。22日は650円。
譲司は毎日、同じ順番で数字を更新した。売買代金が増えても、高値が止まれば保有理由を見直す。同業2銘柄が崩れれば、個別株の材料だけでは持たない。
11月29日の終値は704円。30日は733円。12月1日は769円、4日は778円だった。
5日の終値は775円へ下がった。出来高は158,600株。高値も798円で止まった。
譲司は820円の売り指値を送信した。
6日の終値は777円。7日は794円。12月8日、金曜日。始値796円、高値835円、安値779円、終値808円。2,000株は820円で全量約定した。
売却代金1,640,000円。売却手数料1,575円。受取額1,638,425円。
現金残高 1,670,701円
保有株なし。
未約定注文なし。
買付前の1,073,326円から、597,375円増えた。
譲司は利益額を表へ入れた後、残高の桁を数え直した。100万円へ到達した時より、数字はさらに大きい。だが、遥へ何が買えるかは話さなかった。
年末の居間へ戻る。
佐伯は最後の6件だけでなく、年初からの入出金と全売却後残高を確認した。追加資金はない。口座外へ引き出した金もない。年末に保有株はない。開始資金300,000円と年末残高の差を、年間の増加額として使える。
譲司は、途中で表示された1,803,972円をもう一度年間最高の欄へ入れようとした。佐伯は削除せず、年間損益とは別の列へ残した。失った数字を無かったことにもしない代わりに、残っている金と混ぜなかった。
佐伯は年初からの数字を足し、開始資金300,000円との差を確認した。
年末残高 1,670,701円
開始資金 300,000円
年間増加額 1,370,701円
「ここから税引当を出す」
佐伯は年間増加額の右へ、計算用の欄を作った。申告時の最終額は美佐子が確認することにして、今は利益の10%を動かさない金として分ける。
1,370,701円×10%=137,070円
1円未満を切り捨てた数字を入力する。
「137,070円」
「それ、使わない金だよ」
「使えないわけじゃない」
譲司が言うと、佐伯が顔を上げた。
「税金に使うんだろ」
「まだ払ってない。法的には自分の現金だ」
佐伯は137,070円のセルを選び、次の注文数量の欄へ視線を移した。
「でも、注文に使ったら足りなくなる」
「次で利益が出れば補える」
「利益が出なかったら?」
「その時は残高から出す」
「だから、今分けるんだろ」
佐伯の声は強くなかった。文化祭の表や売買代金の列とは違い、この数字は利益を見つけるためではなく、使う範囲を狭くするための数字だった。
美佐子は二人の間へ通帳と振替用紙を置いた。
「使えるかじゃないよ。使わないために分けるの」
「同じ自分の金だ」
「同じだから、分けるの」
誠一は新聞を畳み、金額だけを確認した。
「残るのはいくらだ」
「1,533,631円」
「それでも100万円より多いだろ」
「多い」
「なら、今日はそれで終わりにしろ」
譲司は反論しなかった。137,070円を引いても、最初の300,000円の5倍以上が運用口座へ残る。
佐伯は相場表の上へ、新しい2行を入れた。
税引当 137,070円
次期運用資金 1,533,631円
「この列、来年も使う」
「税率が変われば式も変える」
「分かってる」
「手数料と同じで、分けて残せ」
「僕が作った表だよ」
佐伯はそう言い、計算式のセルを保護した。譲司が誤って数式を消さないためだと説明したが、解除方法は自分だけが覚えていた。
譲司の取引履歴を整理するだけだった表には、佐伯が決めた形式が残った。利益を出したのは譲司だった。だが、どの数字を残高へ入れ、どの数字を別へ分けるかは、佐伯の表が決め始めていた。
午後、美佐子は137,070円を別口座へ振り替えた。
帰宅すると、振替控えを白い封筒へ入れる。表には「2006年税引当」と書き、日付を記した。封筒は通帳と一緒に引き出しへしまわれる。
譲司は封筒を見なかった。
東都ネット証券へログインする。保有株なし。未約定注文なし。
現金残高 1,533,631円
100万円を越えた時、遥は買える物を数えた。美佐子は現金かどうかを確認した。誠一は今ある100万円の話をした。佐伯は、使わない金を引いた。
譲司は、1,533,631円で何株買えるかを計算した。
【今回の運用資産推移】
開始時:665,216円
終了時:1,533,631円
増減額:+868,415円
増減率:+130.55%
取引回数:6回