相場師は欲望から降りられない   作:山崎春のパン祭り

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第十七話 良い会社が下がる日

 3月5日、月曜日。東海生活機器の売り注文は、870円で2,000株すべて約定していた。

 

 売却代金 1,740,000円

 売却手数料 1,575円

 受取額 1,738,425円

 

 口座に残っていた現金129,431円を加えると、売却後残高は1,867,856円になった。

 買付価格は1,050円。売買差損は360,000円。買付手数料1,575円と売却手数料1,575円を含めた純損失は363,150円だった。

 東海生活機器の始値は900円、高値931円、安値818円、終値857円。870円の売り注文は、寄り付き後の下落途中で複数回に分かれて成立していた。

 譲司は約定履歴を閉じず、会社の適時開示を開いた。

 下方修正はない。製品事故もない。主要取引先との契約終了もない。前月に発表された決算では、売上高も営業利益も前年を上回っていた。家庭用調理機器の新製品は予定どおり春に発売される。

 悪い会社になったという知らせは、どこにもなかった。

 譲司はニュース一覧を更新した。表示順が変わり、朝に見た記事が一段下へ移っただけだった。掲示板には、下げすぎ、好決算、買い場という言葉が並んでいる。どれも株価が下がった後に書かれたもので、会社の中で何が変わったかは示していない。

 1,050円で買った時、会社の数字は良かった。870円で売った後も、同じ数字が残っている。ならば、変わったのは会社ではなく、買い手がその値段を支える量だった。

 その説明を理解していても、損失の原因としては不足しているように感じた。誰かが発表した悪材料なら、次から避けられる。市場全体の下落では、良い会社を選んだ自分の判断まで否定されたように見えた。

 

「まだ何か探してるの?」

 

 佐伯が横から画面を見た。学校が終わってから城戸家へ来ていたが、制服の上着も脱がず、机の端に鞄を置いたままだった。

 

「何か出てるはずだ」

「売った理由なら、表にあるだろ」

「会社の理由」

「市場全体と業種が弱いって書いた」

「それは会社の理由じゃない」

「だから、なくても売ったんだろ」

 

 譲司は相場表を開いた。

 

 東海生活機器。

 2,000株。

 1,050円買い。

 870円売り。

 純損失 363,150円。

 

 買付前理由の欄には、好決算、増収増益、新製品、売買代金増加と並んでいる。その下に、同業種の弱さ、市場指数の下落と追記されていた。後ろの二つだけは、買付を見送る理由として書いたのではない。

 

「この2行、いつ書いた?」

「買う前」

「時刻も残ってる?」

「2月27日の午前8時12分」

「見てたんだ」

「見てた」

「それでも買ったの?」

 

 譲司は表を下へ動かした。

 

 中央半導体装置は、売買代金急増ランキングから候補表へ移した銘柄だった。値上がり率でも上位に入ったが、譲司が最初に残したのは、平常時との金額差だった。

 一つ前の取引、中央半導体装置には、同じ欄が全て埋まっていた。

 

 市場指数上昇。

 半導体装置業種へ資金流入。

 平常時から売買代金急増。

 前週高値更新。

 

 1月15日、中央半導体装置を2,000株、730円で買った。買付代金1,460,000円と手数料1,050円を支払い、現金は72,581円残った。

 その日は730円で始まり、高値770円、安値686円、終値756円。出来高は220,000株だった。買付日の安値では88,000円の含み損になったが、終値では52,000円の含み益へ戻った。

 半導体装置株への買いは翌日も続いた。中央半導体装置の終値は780円、791円、788円、791円と進み、一度前日終値を下回っても、業種の売買代金は急増前の水準へ戻らなかった。

 譲司は同業2銘柄と市場指数を毎日、中央半導体装置の左側へ置いた。個別株だけが高値を更新しても、業種が崩れれば保有理由を見直す。市場全体が下がる日に個別株だけが耐えても、翌日まで同じ買いが残るか確認する。

 2月に入り、株価は900円を超えた。1,000円を超えると、2,000株では1日の増減が数十万円になった。

 2月15日の終値は1,058円。翌16日、1,080円の売り指値を出した。始値1,060円、高値1,099円、安値1,026円、終値1,064円。注文は1,080円で全量約定した。

 

 売却後残高 2,231,006円。

 純利益 697,375円。

 

 7桁だった残高は200万円を越えた。画面を見せると、遥は以前と同じように買える物を数え始めたが、美佐子は税引当を除いた運用資金から増えた金額かを確認した。

 

「分けた137,070円は使ってないね」

「使ってない」

「次も同じとは限らないよ」

「同じ条件なら、同じように見る」

「同じ結果、とは言わないんだ」

 

 美佐子はそれだけ言い、夕食の鍋へ戻った。誠一は200万円という金額より、譲司が進路希望をまだ出していないことを気にしていた。

 

「大学はどうする」

「まだ決めてない」

「株は決めるのに、そっちは決めないのか」

「市場は毎日数字が出る」

「学校も締切は出てる」

 

 譲司は返事をせず、中央半導体装置の行を開いた。利益の直後に次の取引を決めたかったわけではない。だが、条件が一度機能すると、同じ順序を別の銘柄でも確かめたくなった。

 譲司は利益を出した理由を、一つに決めなかった。好材料だけでも、値上がり率だけでもなかった。市場、業種、個別株の三つが同じ方向へ動き、平常時より大きな資金が続いた。条件が揃っていたため買い、条件が弱くなったため売った。

 同じ順序を、東海生活機器にも当てはめようとした。

 

 2月20日、東海生活機器は998円で終えた。翌21日は1,090円、22日は1,155円。好決算を材料に売買が増え、値上がり率ランキングへ入った。譲司はそこから候補表へ移した。

 しかし23日には、始値1,159円から終値1,086円まで下がった。出来高は前日より増えていたのに、高値を維持できなかった。

 週明け26日の終値は1,071円。同じ生活機器業種の2銘柄も、前週高値を越えられずに終わっていた。市場指数も下落した。

 譲司は、その三つを見ていた。

 中央半導体装置の行と並べると、違いは明確だった。中央半導体装置は市場、業種、個別株の順に全て上向いていた。東海生活機器は、個別株の材料と売買代金だけが残り、市場と業種が逆を向いていた。

 表の形だけなら、買付条件は不足している。

 だが、譲司には二つの銘柄が同じ条件である必要はないようにも思えた。半導体装置は景気の期待で買われる。生活機器は家庭で使われ、景気が悪くても需要が消えにくい。市場全体が弱い時ほど、業績の良い会社へ資金が移る可能性もある。

 その考えは、注文前の表にはなかった。

 譲司は「生活必需に近い」と入力しかけ、決算資料を読み直した。主力は高価格帯の調理機器で、買い替えを急がなくても生活はできる。必需品と呼ぶには広すぎる。入力した文字を消した。

 それでも、決算資料を開くと数字は良かった。新製品の発売予定も変わっていない。前週高値から下がったことで、1,200円近くで買うより安くなった。

 2月27日の朝、譲司は買付理由を書いた。

 

 増収増益。

 新製品発売。

 前週から売買代金増加。

 1,050円まで。

 

 その下へ、小さく2行を加えた。

 

 市場全体は弱い。

 同業2銘柄は前週高値を越えていない。

 

 午前8時12分、気配値は1,050円付近にあった。

 

「それ、見送る条件じゃないの?」

 

 電話の向こうで佐伯が聞いた。

 

「会社に悪材料はない」

「市場が弱いのは?」

「会社の価値とは別だ」

「じゃあ、何で表に入れたの?」

「値動きへ影響するから」

「影響するのに、買う?」

「好決算で売られすぎてる」

 

 言葉にした後、譲司は「売られすぎ」の基準を書こうとした。前週高値1,202円からなら、10%以上下がっている。だが、その値段へ戻ると決まっているわけではない。

 表には追加しなかった。

 午前8時15分、東海生活機器へ2,000株、1,050円の買い指値を送信した。

 買付代金2,100,000円。買付手数料1,575円。全量約定後の現金は129,431円になる。

 東海生活機器は1,055円で始まり、1,091円まで上がった後、998円まで下がった。注文は1,050円で成立していた。終値は1,040円。

 買付日の時点で、2,000株は20,000円の含み損だった。

 

 翌28日、海外市場の下落を受け、朝から幅広い銘柄へ売りが出た。

 東海生活機器は1,036円で始まり、高値1,085円、安値911円、終値956円。出来高は200,400株まで増えた。生活機器業種の2銘柄も下落し、市場指数も大きく下げた。

 好決算を発表していない会社だけが売られたわけではなかった。利益が増えている会社も、新製品を出す会社も、同じ時間に売られた。

 譲司は東海生活機器の開示資料をもう一度読んだ。

 数字は前日と同じだった。

 3月1日の終値は924円。2日は874円。個別の悪材料は出なかった。市場指数は下げ止まらず、生活機器業種の売買代金は増えていたが、買いではなく安値を更新する売買が続いていた。

 学校では、譲司が教室の時計を見る回数が増えた。昼休みに公開株価を開いても、会社の決算資料は前日と同じで、変わっているのは値段だけだった。

 佐伯は東海生活機器の行へ「悪材料なし」と入力しようとして、手を止めた。

 

「『なし』でいいの?」

「出てない」

「見つけてないだけかもしれない」

「全部の情報は見つけられない」

「じゃあ、空欄にする?」

「確認した範囲ではなし」

 

 佐伯は列幅を広げ、そのまま入力した。短い言葉を長くすれば安全になるわけではない。それでも「なし」と断定するより、どこまで確認したかが残った。

 譲司は同じ行の市場全体を見た。そこには「下落」としか書かれていない。確認範囲を増やしても、買付前に見ていた事実は変わらなかった。

 事前に決めた撤退価格は870円だった。

 譲司は数字を変えなかった。

 

「870円って、会社が悪くなる値段?」

 

 3月2日の夜、佐伯が聞いた。

 

「違う」

「じゃあ、何でその値段?」

「買った時に、前の安値を割ったら保有理由を見直すと決めた」

「前の安値は?」

「848円」

「870円は上だろ」

「月曜に下へ始まっても、848円まで待たない」

「好決算は残ってるんだろ」

「残ってる」

「新製品も?」

「残ってる」

「それなら、売らなくてもいいんじゃない?」

 

 譲司は表の市場全体と業種の欄を選んだ。

 

「こっちが残ってない」

 

 佐伯は画面を見た。個別株の右には、佐伯が追加した出来高、売買代金、市場全体、業種の列が並んでいる。佐伯は見出しを順に指で追った。

 

「列を増やせば、間違えなくなると思ってた」

「間違いは残る」

「でも、見てなかったよりはいいだろ」

「見てても買った」

 

 譲司が言うと、佐伯は何も返さなかった。

 市場全体と業種の弱さは、空欄ではなかった。見落としたわけでも、後から知ったわけでもない。譲司は二つの警告を表へ入れたまま、会社の数字を優先した。

 

 3月5日の午前8時15分、2,000株、870円の売り指値を送信した。

 

 学校では、佐伯が相場表の印刷を持ってきた。市場指数と騰落銘柄数の列を右端へ追加している。

 

「また増やしたのか」

「下がった会社の数も要るだろ。指数だけなら、一部の大きい会社で動くかもしれない」

「そうだな」

「これなら、全体が下がってるか分かる」

「分かった後、どうする」

 

 佐伯は答えず、紙を折った。

 昼休み、公開株価ページでは東海生活機器が850円台で動いていた。売り注文が成立したかは分からない。佐伯は株価を一度見た後、別の銘柄の騰落率を紙へ書いた。

 

「何」

「何でもない」

「銘柄名、書いたろ」

「表に入れるか考えてるだけ」

「買うのか」

「口座ない」

「なら0円だ」

「分かってる」

 

 佐伯は銘柄名を消さず、紙を鞄へ入れた。

 

 放課後、売却結果を確認した後も、譲司は東海生活機器の会社情報を探し続けた。

 

 その日の夕方、美琴と図書館で会った。

 美琴は学校新聞の次号用に、地域の生活用品会社を扱った記事を持っていた。見出しには太い字で「悪い会社が残したもの」と書かれている。

 

「何が悪いんだ」

「工場を一つ閉めて、100人以上辞めた」

「赤字だった?」

「去年は。今期は黒字に戻ってる」

「なら、閉めた効果もある」

「そう言うと思った」

 

 美琴は見出しを隠すように紙を裏返した。

 

「今日、取引先にも聞いた。閉めた工場の仕事を受けてた会社」

「契約を切られた?」

「減った。でも、支払いは早かったって。急に倒れられるより、先に縮めた方が取引先も動けたって言ってた」

「良い会社だった?」

「100人辞めてる」

「悪い会社?」

「だから、その見出しを消してる」

 

 美琴は紙を表へ戻し、見出しに横線を引いた。空いた場所へ新しい言葉は書かなかった。

 

「記事を出さないのか」

「出す。見出しは後で決める」

「会社の評価がない」

「評価しないとは言ってない。最初から一言で決めないだけ」

 

 美琴は譲司のノートパソコンを見た。画面には東海生活機器の決算資料が残っている。

 

「そっちは良い会社?」

「数字は良い」

「今日、上がった?」

「売った」

「悪くなったから?」

「市場と業種が弱い」

「会社は」

「悪材料はない」

 

 美琴は少しだけ眉を寄せたが、相場の正解を聞かなかった。自分の記事の見出しをもう一度消し、取材先の発言へ戻った。

 譲司も決算資料を閉じた。

 

 夕食の時、美佐子は食卓の電気ポットを見た後、譲司へ聞いた。

 

「今日売った会社、こういう物を作ってる会社?」

「調理機器が中心」

「壊れたの?」

「製品事故は出てない」

「売れなくなった?」

「決算では売上も増えてる」

「じゃあ、何で株は下がるの」

「会社だけが売られたんじゃない」

「会社が悪くなくても下がる?」

「下がる」

「良い会社なら、また上がる?」

 

 譲司はすぐに答えなかった。会社が利益を出し続ければ、長い時間では株価へ反映される可能性がある。だが、自分が買った日と、戻るまでの時間は別だった。

 

「分からない」

 

 美佐子は意外そうな顔をしたが、それ以上聞かなかった。ポットから湯を注ぎ、遥のカップへ置いた。製品が使えることと、明日の株価は食卓では結びつかなかった。

 

 翌6日、東海生活機器は868円で終えた。7日は890円まで戻り、8日の終値は887円だった。会社から新しい材料は出ていない。市場全体も前週ほど一方向には下がらなかった。

 870円で売った2,000株を890円まで持っていれば、40,000円多く残ったことになる。譲司は一度だけ計算し、損失欄には入れなかった。

 870円の売却は、翌日の安値や2日後の終値を知って決めたものではない。3月5日の朝に見えていたのは、市場、業種、個別株が揃って下がり、事前の撤退価格へ近づいていたことだけだった。

 株価が戻ったことで、東海生活機器が良い会社だった可能性が証明されたわけでもない。売った判断が間違いだったことにもならない。反対に、下がり続けていれば正しい会社評価が得られたわけでもなかった。

 譲司は備考欄へ「売却後 3月7日終値890円」とだけ残した。利益にも損失にも加えず、売買理由の隣へ置かなかった。

 

 8日の放課後、佐伯が城戸家へ来ると、二人で相場表へ売却結果を入力した。

 

 中央半導体装置 +697,375円。

 東海生活機器 -363,150円。

 

 2件を合わせれば、334,225円の利益が残っている。年初の1,533,631円から見ても、口座は増えていた。

 佐伯が追加した市場指数と騰落銘柄数の列は、東海生活機器の行で埋まっていた。買付前から、市場指数は下落。同業種も弱い。下落銘柄数は上昇銘柄数を上回っていた。

 譲司は次の行へ銘柄名を入れなかった。

 値上がり率ランキングと売買代金急増ランキングには、新しい候補が並んでいた。決算の良い会社も、値上がりは小さくても平常時より大きな資金が入った会社もあった。譲司は登録ボタンを押さず、先に別の画面を開いた。

 東海生活機器を売った日の市場指数を開く。終値、安値、売買代金、上昇銘柄数、下落銘柄数を順に表へ移した。

 佐伯が帰った後も、その日の数字だけをもう一度確認した。

 




【今回の運用資産推移】
開始時:1,533,631円
終了時:1,867,856円
増減額:+334,225円
増減率:+21.79%
取引回数:8回
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