3月19日、月曜日。佐伯が作った相場表には、前の取引を終えた翌日から2週間分の日付が並んでいた。
3月6日 注文なし。
3月7日 注文なし。
3月8日 注文なし。
土日を挟み、次の週にも同じ文字が続いている。
東海生活機器を売った後も、譲司は毎朝、値上がり率ランキングと売買代金急増ランキングを順に開いた。決算や新製品で急騰した会社。値上がりは小さくても、平常時より大きな金額が入った会社。候補になる銘柄はいくつもあった。
それでも数量欄へは進まなかった。
市場指数は前日の安値を割り、上昇銘柄より下落銘柄の方が多い。半導体装置が上がっても生活機器が下がり、生活機器が反発した日は精密機器が売られる。買いが一つの業種へ広がらず、二つのランキングから拾った候補も翌日には入れ替わった。
佐伯はコンピューター室で、日付だけの行を見た。
「これも残すの?」
「注文してない日?」
「残高は同じだ」
「なら、行はいらない?」
「取引履歴には出ない」
「でも、毎日見てたんだろ」
「見てた」
「それなら、見てやめたのか、最初から見なかったのか分からない」
佐伯は結果欄へ「注文なし」と入力した。損益は0円。銘柄欄と数量欄は空白のままにする。
「買わなかった理由は?」
「市場全体が弱い」
「毎日、同じことを書くの?」
「同じなら同じでいい」
「指数が何円下がったかも入れる?」
「数字は別の列にある」
佐伯は市場指数、上昇銘柄数、下落銘柄数を確認した。三つの数字が日ごとに違っても、結果欄は全て注文なしになる。
「表だけ見ると、何も起きてない2週間だな」
「金は減ってない」
「増えてもない」
「減らさない方を選んだ」
譲司が言うと、佐伯は3月8日の行へカーソルを戻した。東海生活機器を売った後、株価が少し戻った日だった。譲司が買い直さなかったため、そこにも注文なしとある。
「買い直さないのも、選んだことになる?」
「注文を出せたのに出さなかったなら」
「じゃあ、何もしてない日じゃないのか」
「画面は見てる」
佐伯は行を消さなかった。
翌9日も、譲司は午前8時を過ぎてから気配値を確認した。前日急騰した1銘柄は買い気配だったが、同じ業種の2銘柄は売り気配に沈んでいた。注文画面を開き、数量欄へ進む前に閉じる。
放課後には、その銘柄が朝の高値から下げていた。買わなかったため損失はない。だが、上がっていれば未約定の利益を計算したはずだった。譲司は値動きだけを備考へ残し、結果欄へ新しい言葉を足さなかった。
翌週の別の日には、指数が反発し、値上がり率ランキングの上位も増えた。譲司は3銘柄を登録した。値上がり率側だけでなく、売買代金急増側からも選んだが、翌朝には市場全体の買い気配が弱まり、登録を解除した。候補を消す作業にも約定履歴は残らない。佐伯の表だけが、その日に何を見て、どこで止まったかを残した。
譲司は個別株のランキングを閉じ、市場指数の1か月チャートを開いた。安値を更新する幅は小さくなっていたが、反発しても前日の高値を越えられない日が続いている。どこが底かは分からない。下がらなくなったことと、買いが戻ったことも同じではなかった。
その2週間の間、佐伯は自分のノートへ1銘柄だけ名前を書いた。
青葉計装機器。
計測機器の中で、前日高値を越え、出来高も増えていた。市場指数は弱かったが、同業2銘柄も朝から上がっている。譲司の表を見ていれば、候補として残す理由は書けた。
佐伯は譲司へ見せず、紙の上へ書いた。
仮買付 440円、1,000株。
撤退 405円。
市場全体 弱い。
業種 上昇。
実際の注文は出していない。口座も持っていない。昼休みに公開株価を確認すると、青葉計装機器は468円で終えていた。翌日は492円、その次の日は508円だった。
佐伯は508円から440円を引き、1,000を掛けた。
68,000円。
手数料は入れていない。どこで売ったかも、紙の上でしか決めていない。それでも、数字は利益に見えた。
相場表へ入力しかけ、やめた。
翌日、青葉計装機器は495円へ下がった。佐伯は508円で売ったことにしていたため、紙の利益は減らない。もし実際に買っていれば、508円で売れたかは分からない。授業中に値段を見られず、もっと上がると思って持ち続けたかもしれない。440円で買う注文が成立したかも分からない。
分からないことを消せば、紙の取引はきれいに勝てた。
それでも佐伯は、候補を選んだ日付だけは変えなかった。上がった後に銘柄名を書いたわけではない。その一点が、自分にも相場を読めた証拠のように感じられた。
代わりに紙を四つに折り、野球の成績表と同じファイルへ挟んだ。
相場表では、3月12日から北陸精密制御が値上がり率ランキングと売買代金急増ランキングの両方へ残り始めていた。
12日の終値516円。13日は538円、14日は542円、15日は549円。16日は高値582円、終値573円、出来高152,600株だった。
値上がり率だけなら、毎日さらに上の銘柄があった。譲司が見ていたのは、その銘柄へ買いが続いているかだけではなかった。
市場指数が安値を更新しなくなる。
上昇銘柄数が下落銘柄数を上回る。
精密機器業種の売買代金が増える。
その中で北陸精密制御が前日高値を越える。
順番を表へ入れると、銘柄名は最後になった。
「前は、銘柄から書いてたよな」
佐伯が言った。
「前は個別の材料を先に探してた」
「今は、市場が上がればどの株でもいいの?」
「どれでもよくはない」
「じゃあ、北陸精密制御が先?」
「市場が先」
「市場の次は?」
「資金が集まってる業種」
「その後に銘柄?」
「そう」
佐伯は表の列を並べ替えた。
市場全体。
業種。
個別株。
「この順なら、東海生活機器は買ってない?」
「たぶん」
「たぶん?」
「同じ日の同じ数字を見ても、会社の決算を優先したかもしれない」
「順番を変えても、最後に決めるのはお前か」
「表が注文するわけじゃない」
3月19日、午前8時を過ぎると、市場全体の買い気配が前週末より高くなった。精密機器業種の2銘柄にも買い注文が入り、北陸精密制御は600円付近で始まりそうだった。
前週高値582円を越える。
市場指数が前週安値を割らない。
上昇銘柄数が広がる。
精密機器業種の売買代金が増える。
600円まで。
3,000株なら1,800,000円。買付手数料1,575円を加えると、買付後の現金は66,281円になる。
午前8時15分、譲司は3,000株、600円の買い指値を送信した。
学校へ向かう間も、市場指数が寄り付きだけ上がって売られる可能性を考えた。北陸精密制御だけが高く始まり、業種の2銘柄が下がる可能性もある。注文が成立しても、順番が崩れれば持ち続ける理由はなくなる。
放課後、注文履歴には3,000株、600円、全量約定と表示されていた。
始値600円、高値633円、安値563円、終値621円。出来高297,000株。前週金曜日のほぼ2倍だった。
現金 66,281円。
保有株評価額 1,863,000円。
口座時価 1,929,281円。
買付日の安値563円では、111,000円の含み損になっていた。終値では63,000円の含み益へ戻っている。
譲司は安値も表へ残した。市場と業種が強くても、買値から下がらないわけではない。
翌日の終値は661円。22日は684円。23日は713円だった。市場指数が下がる日もあったが、精密機器業種の売買代金は急増前の水準へ戻らず、北陸精密制御は安値を切り上げた。
26日は始値712円、高値769円、終値754円。27日は789円、28日は820円で終えた。市場指数が小さく下げた28日も、精密機器業種では上昇銘柄が多く、北陸精密制御の出来高は205,800株まで増えていた。
譲司は表の市場全体へ「下落」、業種へ「上昇」、個別株へ「高値更新」と入力した。三つが同じ方向へ動く日ばかりではない。市場全体が弱いだけで即座に売れば、東海生活機器と同じ言葉を機械的に使うことになる。かといって個別株だけを見れば、最初に市場を確認する順番が消える。
「市場が下がったのに、持つの?」
「業種への買いは残ってる」
「前は、市場が弱いから売った」
「前は業種も個別も下がってた」
「三つ全部で決める?」
「一つだけで決めない」
佐伯は3列へ丸印を付けた。丸の数で売買する規則にはしなかった。どれを先に確認したかだけを、左から右へ残した。
譲司は追加購入しなかった。
「同じ条件なら、もっと買えばいいんじゃない?」
佐伯が聞いた。
「同じじゃない」
「買った時より上がってるだけ?」
「3,000株で1円動けば3,000円だ。最初より口座への影響が大きい」
「条件じゃなくて、数量の問題?」
「両方」
譲司は、追加しない理由を1行で書けなかった。市場、業種、個別株の順番は残っている。だが、買付後に価格が上がったことで、同じ数量でも損失額の基準が変わっていた。
3月末、北陸精密制御は864円で終えた。4月2日は927円、3日は1,013円。5日の高値は1,079円だった。
譲司は1,080円の売り指値を入力した。
「1円足りない」
佐伯が5日の高値を見た。
「明日も注文は変えない」
「1,079円で売れば全部売れたかもしれない」
「今日の高値を見てからなら、いくらでも1円下げられる」
「北関通信設備は、1円届かなくて買えなかった」
「だからって、毎回1円を動かす理由にはならない」
4月6日、金曜日。北陸精密制御は1,062円で始まり、高値1,099円、安値1,026円、終値1,064円。3,000株は1,080円で全量約定した。
売買差益は1,440,000円。買付手数料1,575円、売却手数料1,575円。
純利益 1,436,850円。
現金残高 3,304,706円。
譲司は売却結果を入力し、表の市場、業種、個別株を上から見直した。
「同じ条件なら、再現できる」
口にすると、佐伯が手を止めた。
「何が同じなら?」
「順番」
「市場が上がって、業種が上がって、株が上がる?」
「買いが戻る順番」
「市場は何日上がれば戻ったことになる」
「安値を更新しなくなって、上昇銘柄が増える」
「何銘柄増えたら?」
「前の日より多ければいいわけじゃない」
「業種の売買代金は、何倍なら集まったことになる?」
「銘柄による」
「じゃあ、同じって何」
譲司は市場全体、業種、個別株の3列を見た。順番は説明できる。それぞれを何日、何円、何倍で同じと呼ぶかは、一つの数式になっていなかった。
「先に見る場所が同じだ」
「結果が同じじゃなくて?」
「結果は決められない」
「再現できるのは、利益じゃなくて見る順番?」
「そうだ」
「それで負けることもある?」
「ある」
「なら、再現って言葉は大きすぎない?」
譲司は条件名へ付けようとした「再現」という文字を見た。夏休みに入力しかけ、消さずに残した言葉だった。今回は削除しなかったが、その右へ「順序」と付け足した。
佐伯は頷かず、北陸精密制御の行を保存した。
翌週、新生コンテンツネットが値上がり率ランキングの上位へ残った。売買代金急増ランキングにも入ったが、最初に見つけたのは値上がり率側だった。
4月9日の終値550円。10日は570円、11日は578円、12日は586円、13日は611円。出来高は146,200株から254,200株まで増えていた。
市場指数は前月の安値を割らず、コンテンツ配信業種の売買代金も増えている。北陸精密制御とは会社も業種も違う。それでも、譲司が画面を開く順番は同じだった。
市場。
業種。
個別株。
4月16日、午前8時15分。新生コンテンツネットへ5,000株、640円の買い指値を送信した。
買付代金3,200,000円。買付手数料1,575円。買付後現金は103,131円。
注文は640円で全量約定した。始値640円、高値675円、安値604円、終値662円。出来高495,000株だった。
2件目の保有経過を、譲司は北陸精密制御と同じ密度では書かなかった。違う数字だけを残した。
株数 5,000株。
1円の増減 5,000円。
業種 コンテンツ配信。
買付日出来高 495,000株。
4月23日の終値797円。24日は813円、27日は861円。連休前の口座時価は4,408,131円になった。
市場が休みの日、譲司は新生コンテンツネットの材料を読み直した。動画配信設備の増強、広告契約の増加、会員数の伸び。会社の説明だけを並べれば、保有理由はいくらでも増やせた。譲司は新しい項目を足さず、休日前までの市場と業種の数字だけを見直した。
5月1日の終値は899円。2日は934円。連休明けの7日は937円と伸びが止まったが、安値は921円で、業種の売買代金も急減していない。譲司は売却条件を変えず、注文も追加しなかった。
8日は957円、10日は1,040円、17日は1,140円まで上がった。5,000株では、1日の値幅が口座残高を数十万円動かした。譲司は利益額を先に計算しそうになるたび、市場、業種、個別株の順で画面を開き直した。
順番を守った日が増えるほど、その方法が自分のものになったように感じた。
美琴から届いていたメールへ返信しようとして、携帯電話を開いた。進路のことで少し話したい、と書かれていた。
受験勉強と取材で忙しいことは聞いている。図書館へ行く日を返すこともできた。だが、譲司が最初に書いたのは、新生コンテンツネットという銘柄名だった。
文字を全て消した。
相場以外に何を伝えるのか決められず、携帯電話を閉じた。
5月18日、金曜日。譲司は5,000株、1,180円の売り指値を送信した。
新生コンテンツネットは1,145円で始まり、高値1,201円、安値1,121円、終値1,162円。注文は1,180円で全量約定した。
売買差益2,700,000円。買付手数料1,575円、売却手数料1,575円。
純利益 2,696,850円。
現金残高 6,001,556円。
相場表の残高は、初めて600万円を越えた。
夕食で美佐子へ残高を伝えると、最初に聞かれたのは次の銘柄ではなかった。
「学校は休んでない?」
「休んでない」
「授業中に注文した?」
「してない」
「税金に分けたお金は」
「別にある」
600万円という金額を聞いても、美佐子は使い道を数えなかった。譲司は利益の説明を続けようとしたが、誠一が食卓へ皿を運び、話はそこで終わった。口座の桁が増えても、家の夕食の時間は変わらなかった。
佐伯は北陸精密制御と新生コンテンツネットの2行を並べ、市場、業種、個別株の欄を上から確認した。
「順番は同じ」
「そうだ」
「会社は全然違う」
「資金が入った場所も違う」
「でも、先に市場を見る」
「市場が弱ければ、銘柄を探さない」
佐伯は3月の行まで戻った。
注文なし。
注文なし。
注文なし。
その日付がなければ、2件の利益だけが連続して見える。待っていた期間を消せば、ランキングから銘柄を選び続けていたようにも見えた。
佐伯は注文なしの行を残した。
その横で、鞄から折った紙が少しだけ見えた。青葉計装機器、440円、1,000株。紙の中では68,000円増えている。
譲司の相場表には入っていない。口座残高にも加わっていない。
佐伯は紙を開かず、鞄の奥へ戻した。
【今回の運用資産推移】
開始時:1,867,856円
終了時:6,001,556円
増減額:+4,133,700円
増減率:+221.31%
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