1月23日、水曜日。午前8時を過ぎても、城戸譲司は注文画面を開かなかった。
左のモニターには東日本電子部品の5日分が並んでいる。
1月16日、終値1,298円。
17日、1,207円。
18日、1,078円。
21日、1,007円。
22日、995円。
5営業日で300円以上下がっていた。最初の日に買っていれば、12,000株で3,000,000円を超える含み損になっている。昨日の安値は950円。1,000円を割ったという事実だけなら、以前の譲司には買う理由になった。
値下がり率ランキングにも東日本電子部品は残っていた。譲司は監視銘柄には残したが、買付候補へは移さず、その一覧を閉じた。値下がり率は、反発を待つ銘柄を見張る画面であって、買う株を決める入口ではなかった。市場全体の画面へ戻る。
年明けから指数は下がり、新安値を付ける銘柄が増えていた。前日まで上がっていた業種も、翌日には売られる。1月18日には、値下がりした銘柄数を表へ入力するだけで1行が埋まった。
佐伯が作った表には、売買した日のほかに、注文しなかった日も残っている。
市場安値更新。
新安値銘柄数増加。
候補なし。
同じ3項目が続いた。
年末に1,400万円を超える運用資金が残った時、譲司は1月の最初から大きな注文を出せると思っていた。実際には、年明け最初の2週間、注文履歴は空白のままだった。
朝に市場画面を開き、その後で値上がり率ランキングと売買代金急増ランキングから候補を入れる。放課後に帰宅すると、候補の多くは市場指数と一緒に安値を更新している。翌朝には登録を外す。その繰り返しだった。
現金だけなら残高は減らない。それでも譲司は、何も買わない日を利益のない日として数えた。12,000株を買って100円上がれば1,200,000円になる。注文しないまま1週間過ぎれば、その金額を得る機会を5回失ったように感じた。
食卓で美佐子が、年末に分けた税引当の封筒を引き出しへ移した。
「今年の分は、今年の分で置いてあるからね」
「分かってる」
「口座、減ってない?」
「現金だから同じ」
「じゃあ、今は何もしてないの」
「待ってる」
遥が箸を止めた。
「株って、待ってるだけでもやってることになるの?」
「買わない判断をしてる」
「ゲームなら、始めてないだけじゃん」
譲司は答えなかった。市場が下がり続けている時、注文しないことが判断なのか、怖くて押せないだけなのかは、結果が出る前には分けにくかった。
夜、左のモニターには値下がりした株が並び、右には金、原油、銅が表示された。株が全面安でも、全ての商品が同じ割合で下がるわけではない。画面を増やしたことで答えが増えたのではなく、同じ説明では足りない値動きが増えた。
「今日も買わないの?」
電話の向こうで佐伯が聞いた。
「まだ分からない」
「下がりすぎじゃない?」
「下がりすぎの線を引けるなら、昨日買ってる」
「底は分からないってこと?」
「底だったかは後で分かる」
「じゃあ、何を待つ?」
「下がらなくなること」
言ってから、説明になっていないと思った。
譲司が待っていたのは、指数が大きく上がる日ではない。新安値を付ける銘柄が減ること。指数が安値を更新しても、下げ幅が前日より小さくなること。売買代金が増えた日に、安値から買い戻されること。業種の中で1銘柄だけではなく、複数の株へ買いが広がることだった。
21日、指数は前週の安値を割った。それでも新安値銘柄数は前日より減った。22日、東日本電子部品は970円で始まり、一時950円まで下がった後、1,088円まで買われた。終値は995円だった。
高値からは押し戻されている。反発と呼べるほど強くはない。ただし、前日までのように安値で終わってはいなかった。
その日の引け後、東日本電子部品は売買代金急増ランキングにも入った。値下がり率側で監視していた銘柄を、そこで初めて買付候補へ移した。
右のモニターでは、金が上がっていた。原油は下がり、銅も弱い。世界景気が悪いなら全部下がるはずだと考えれば、金の上昇だけが邪魔になる。安全な場所へ移る金と、需要が減ると見られた物の価格は、同じ方向へ動かなかった。
「金が上がってる」
佐伯が言った。
「株の買い理由にはしない」
「原油は下がってる」
「それも答えじゃない」
「何のために見てるんだよ」
「資金が逃げている先と、売られている物が同じじゃないことを見る」
「それで、何か分かった?」
「まだ」
譲司は商品価格表へ、金、原油、銅の方向だけを書いた。値段は入れなかった。商品の表示価格には月が付いている。円へ換算する前の数字でもある。分からない単位を細かく並べれば、理解したように見えるだけだった。
午前8時12分、電子部品業種の気配を確認した。東日本電子部品だけでなく、同業3銘柄が前日終値を上回っている。昨日まで売買代金上位にいなかった2銘柄にも買い注文が増えていた。
東日本電子部品の前日高値は1,088円だった。
譲司は注文条件を入力した。
市場指数が前日安値を割っても戻す。
新安値銘柄数が増えない。
電子部品業種へ売買代金が戻る。
東日本電子部品が前日高値1,088円を上回る。
1,100円まで。
12,000株を1,100円で買えば、13,200,000円。買付手数料1,575円を加えると、口座に残る現金は987,519円になる。
資産の9割以上を1銘柄へ置く。数量を半分にすれば、反発が失敗しても損失は小さくなる。その代わり、条件がそろった時の利益も半分になる。
譲司は数量を変えなかった。
午前8時15分、前日高値を越えた場合だけ1,100円まで買う注文を送信した。
学校へ向かう途中、携帯電話は鳴らなかった。授業中に確認できないことは、以前から変わらない。違うのは、買えたかどうかより、業種全体の反発が続いているかを先に知りたいと思ったことだった。
昼休み、公開株価の画面を開く。
東日本電子部品は995円で始まり、安値948円を付けた後、1,145円まで上がっていた。出来高は、昨日までと違う速さで増えていた。電子部品業種の複数銘柄も上昇していた。
買付価格1,100円。12,000株。全量約定。
安値948円では、買値から152円下がっている。12,000株なら1,824,000円の含み損だった。
終値は1,138円。出来高1,650,000株。
現金 987,519円。
保有株評価額 13,656,000円。
口座時価 14,643,519円。
買付日の終値では、開始資産より454,425円増えていた。同じ日の安値では、1,800,000円以上減っていた。
「底では買えてないな」
佐伯が表を見て言った。
「底を買う条件じゃない」
「948円からなら、もう190円上がってる」
「948円だった時には、反発が続くか分からない」
「1,100円なら分かるの?」
「分からない。確認できる事実が増えただけ」
佐伯は買付理由の欄へ「底値」と入力しかけ、消した。
「じゃあ、反発確認」
「確認したのは、前日高値、業種、新安値銘柄数」
「長い」
「長くても分けろ」
翌24日の終値は1,204円。25日は1,258円。週明け28日は1,297円だった。
指数が下がる日にも、電子部品業種の売買代金は残った。金が上がり、原油が下がる日がある。原油が戻っても電子部品が下がる日もある。商品価格を一つ見れば市場全体が分かるという形にはならなかった。
譲司は右画面へ表示する商品を増やさなかった。金、原油、銅。それぞれの横へ、上昇、下落、方向なしとだけ入れる。
「ゴムは見ないの?」
「電子部品の判断に必要ない」
「前は全部見てた」
「全部見たら、使う数字を後から選べる」
佐伯は自分で作った商品表を閉じた。その代わり、譲司の保有理由の下へ1行を加えた。
商品価格は補助。売却条件に直接使わない。
保有している間、譲司は「反発」という言葉を表へ一度しか書かなかった。毎日上がるたびに反発継続と入力すれば、下がった日にだけ別の説明が必要になる。代わりに、指数、電子部品業種、東日本電子部品の三つを別々に記録した。
1月28日、市場指数は前日終値を下回ったが、電子部品業種は高かった。29日は指数も業種も上昇した。30日は業種内で上がる銘柄と下がる銘柄が分かれた。
「同じ順番で見ても、毎日違う」
佐伯が言った。
「同じ結果を探してるわけじゃない」
「でも、買った時と同じ形が崩れたら売るんだろ」
「何が崩れたかを見る」
「全部少しずつ悪くなったら?」
「少しを足して、大きいことにしない」
「じゃあ、一個が大きく悪くなったら?」
「それを先に見る」
譲司は答えながら、自分が売却条件を一文で書けていないことに気づいた。市場、業種、個別株の順に見る規則は、買う時には使いやすい。持っている間は三つが同時に悪化するとは限らず、どこまでなら保有理由が残るかを毎日決めなければならない。
佐伯は表へ新しい列を作ろうとした。譲司は止めた。
「何の列」
「市場、業種、個別のうち、何個残ったか」
「二個なら持つ、みたいになる」
「違うの?」
「同じ二個でも意味が違う」
佐伯は列を消した。数字へ変えれば比べやすくなる。だが、比べやすさが判断の正しさにはならないことを、東海生活機器の損切りから二人とも知り始めていた。
1月29日の終値は1,392円。30日は1,474円。31日は1,510円まで上がった。
12,000株では、1円動くたび12,000円増減する。1,510円なら、買値との差は410円。含み益は4,920,000円だった。
譲司は1,550円の売り指値を入力した。
「反発、終わったの?」
「まだ終わってない」
「じゃあ、何で売る?」
「高値更新の幅が小さくなってる。業種の売買代金も昨日より減った」
「明日また増えたら?」
「売れた後なら、次の条件を待つ」
「また買う?」
「同じ反発を追い直さない」
底を決めない代わりに、天井も決められない。譲司は反発が終わったと断定せず、条件の勢いが弱くなったところで売ることにした。
2月1日、金曜日。東日本電子部品は1,507円で始まり、高値1,578円、安値1,469円、終値1,538円。売り注文は1,550円で全量約定した。
売買差益 5,400,000円。
買付手数料 1,575円。
売却手数料 1,575円。
純利益 5,396,850円。
現金残高 19,585,944円。
譲司は売却後、東日本電子部品を登録一覧から消さなかった。
2月4日の終値は1,554円。5日は1,632円。6日は高値1,689円、終値1,635円まで上がった。
1,550円で売らず、1,689円で売れたとすれば、差は139円。12,000株なら1,668,000円になる。
譲司は計算した。表の損益欄には入れなかった。
「買い直さないの?」
佐伯が聞いた。
「売る前より高い」
「まだ上がってる」
「それは見れば分かる」
「前なら買ってた?」
「前なら、売ったことを間違いにしたくなくて買ってた」
「今は」
「別の取引になる理由がない」
譲司は備考へ「売却後高値1,689円」とだけ残した。逃した利益ではなく、売却後の事実だった。
2月12日、佐伯は放課後のコンピューター室で、一枚の封筒を机へ置いた。
「口座、できた」
前の年末に送った「少し話がある」というメールの続きだった。保護者の同意書、本人確認書類、振込先の控え。佐伯は自分の貯金30万円を入れ、追加資金は出してもらわないと家族へ約束していた。
「銘柄は?」
「言わない」
「買う前に確認しないのか」
「お前に選ばせないって決めた」
「表は?」
「自分で作った」
佐伯はフロッピーディスクから別の表を開いた。譲司の取引表と列名は似ていたが、市場全体、業種、買付前理由、撤退条件の順番を変えている。
「何で順番を変えた?」
「同じにしたら、お前の規則を使ったことになる」
「順番で別物にはならない」
「分かってる。でも、自分で作りたかった」
銘柄名は協和包装装置。以前、紙の上で利益を計算した青葉計装機器とは別だった。
包装機械の受注増加が発表され、機械業種の中でも売買代金が増えている。佐伯は400株を620円で買う条件を書いていた。
買付代金 248,000円。
買付手数料 472円。
買付後現金 51,528円。
「少ないな」
「何が?」
「残る現金」
「お前に言われたくない」
2月13日の朝、佐伯直人は自宅の机で注文画面を開いた。
紙上取引では、買付条件を書けば、その日の終値を後から入力するだけだった。今は「注文確認」の先に、自分の貯金があった。画面を閉じれば30万円はそのまま残る。送信すれば、値下がりした金額が家族へ見せる残高になる。
佐伯は買付前理由を上から読み直した。市場全体、機械業種、受注増加、売買代金。撤退条件の欄も埋まっている。文字は昨日と変わっていないのに、注文画面を開いた後では、どの条件も送信を正当化するために書いたように見えた。
カーソルを確認ボタンへ置き、いったん外した。紙上利益を自分の力だと確かめたいなら、ここで閉じることはできない。だが、確かめたいという気持ちは買付理由ではなかった。
2月13日、水曜日。佐伯は午前8時17分に400株、620円の注文を出した。
受付番号が表示されると、胸の奥が一度だけ強く縮んだ。佐伯は注文一覧を開き、取消の位置を確認した。まだ約定していないなら戻せる。指をそこへ置いたまま、昨日書いた条件をもう一度読み、画面を閉じた。
学校へ向かう途中、家族連絡用の携帯電話を何度か開いた。証券口座にはログインしなかった。公開株価もまだ動いていない。それでも、通知が来ていない画面を確認するたび、何も変わっていないことだけは分かった。
協和包装装置は614円で始まり、高値642円、安値598円、終値631円。注文は620円で全量約定した。
放課後、佐伯は約定履歴を開く前に、公開株価で終値を確認していた。631円を見た瞬間、約定していてほしいと思った。朝には、約定しなければ金は減らないと考えていた。同じ注文なのに、終値を知った後では願う方向が変わっていた。
「口座を先に見ればいいだろ」
「約定してなかった時、保有してるつもりで計算したくない」
「公開株価を見たら同じだ」
「それは……そうだけど」
佐伯は笑ったが、すぐにはログインボタンを押さなかった。未約定なら、紙上では正しかったと考えられる。約定していれば、次の日からは正しさではなく残高が動く。
口座を開く。
協和包装装置。
400株。
620円。
全量約定。
含み益は4,400円だった。
佐伯は最初に金額を見た。次に視線を外し、もう一度同じ金額を確認した。数字は変わらない。喉の奥が乾き、マウスを握る指だけが温かくなった。紙上利益より小さい。それでも、自分の注文番号と自分の口座に結び付いた金額だった。
利益額を閉じた後、約定時刻を二度確認した。
「利益よりそっちを見るのか」
「紙じゃないから」
紙上取引では、安値で買い、高値の手前で売ったことにできた。実際の約定履歴には、620円と時刻が残っている。後から610円で買ったことにも、640円まで待ったことにもできない。
佐伯はその履歴を、譲司へ渡さず自分の表へ入力した。入力を終えても口座を閉じず、残高と協和包装装置の行を交互に見た。
翌日から、協和包装装置は630円台と640円台を行き来した。佐伯は昼休みになると公開株価を開いた。授業中には見ないと家族へ言っていたため、休み時間に見るのは規則の外ではないと考えた。
ところが、休み時間が来る前から時計を見るようになった。教師が黒板へ数字を書くと、620円との差へ置き換えた。携帯電話へ手を伸ばしてから、まだ授業中だと気づき、鞄の上で指を止めることもあった。
価格を確認する理由は毎回変わった。最初は撤退条件の確認。次は業種全体の確認。その次は、見なくても条件を守れるか確かめるためだった。理由を付けるたび、確認したいという感情だけが表の外へ残った。
2月18日の終値は652円。19日は667円。含み益が増えると、注文を出す前に感じた怖さが、慎重さだったように見え始めた。佐伯は翌日の売却条件を680円へ置いた。
「切りのいい数字?」
「高値更新が小さくなった」
「680円じゃないと駄目な理由は?」
「お前も800円とか1,050円を使うだろ」
「理由を聞いてる」
「……前日高値を越えて買われたら、そこで全部売る」
佐伯は売却理由を書き直し、価格だけは680円のままにした。理由が価格を決めたのか、先に置いた価格へ理由を合わせたのか、自分でも完全には分けられなかった。
2月20日、水曜日。協和包装装置は668円で始まり、高値692円、安値651円、終値673円。400株は680円で全量約定した。
売買差益 24,000円。
買付手数料 472円。
売却手数料 472円。
純利益 23,056円。
口座残高 323,056円。
「23,000円」
佐伯は言った。
「23,056円」
「そこ直すと思った」
「残高は1円単位で残せ」
佐伯は利益額より、結果欄へ「売却」と入力した時に長く画面を見ていた。取消でも未約定でも、紙上利益でもない。自分の注文番号があり、自分の口座へ金が増えている。
譲司の表を整えた時には得られなかったものが、23,056円の中に入っているように見えた。
売却すれば値動きから離れられると思っていた。実際には、保有欄が空になった直後、佐伯は協和包装装置の公開株価を開いた。
売値より下なら、自分の判断が正しかったことになる。上なら、次はもう少し長く持てばいい。どちらへ動いても、次の取引へ使える答えが出るように思えた。
佐伯の家では、売却後の残高を見せた時、父親は利益より先に入金額を確認した。30万円から23,056円増えている。
「もう1回やるのか」
「やる」
「同じ条件が出たら?」
「前より早く決められると思う」
「利益も使うのか」
「口座に入ってるから」
父親は追加資金を出さないという約束だけを確認した。佐伯はすぐに頷いた。その利益は小遣いや学費ではなく、次の注文へ使える資金になった。
最初の注文前には、買付理由を何度も読み直した。利益を確定した後では、その慎重さの一部が必要以上だったように見え始めた。市場、業種、材料、売買代金。前回と同じ並びが出れば、今度は確認画面で長く止まる必要はない。
その夜、佐伯は値上がり率ランキングと売買代金急増ランキングを開き、次の候補を自分の表へ移した。前回の利益を再現できれば、紙の上だけではなく、自分にも銘柄を選ぶ力があることになる。
学校では見ないと家族へ答えた。授業中に口座へログインしていないため、文面どおりなら嘘ではなかった。だが、教師が黒板へ数字を書くたび、620円から何円上がったかを思い出した。休み時間には時計を見て、昼休みまでの残りを数えた。
家族へ話したのは利益額と売却日だった。朝に注文を出してから1時間目まで何度も携帯電話を開いたことや、帰宅後に売却後の株価を3回更新したことは言わなかった。
表へは、売買理由、約定、手数料、結果が残る。価格を確認したくなった回数は残らない。佐伯は、自分が作った表にも見えない部分があると知った。しかし、結果欄が利益なら、その見えない部分まで問題にする必要はないと考えた。
3月上旬、美琴の卒業式が終わった夕方、譲司は二人が通った高校の最寄り駅で待った。
美琴の胸元には、在校生から渡された小さな花が付いていた。譲司はそれを見てから、何と声を掛けるべきか考えた。卒業おめでとう、と言うだけなら駅で待つ必要はなかった。大学へ行っても取材を続けることは、前の年から聞いている。
美琴が進む時間と、自分が市場画面の前で過ごした時間を比べようとして、単位がないことに気づいた。利益なら円で残る。保有期間なら営業日で数えられる。誰かとの距離には、同じ表を使えなかった。
美琴は制服の上に紺色のコートを着て、卒業証書の筒と何冊かのノートが入った鞄を持っていた。校門の前では同級生が写真を撮り、保護者が名前を呼んでいる。
「来ると思わなかった」
「返す物があった」
譲司は、以前もらった地域面の記事を透明なファイルへ入れて渡した。美琴は受け取ったが、中を確認しなかった。
「大学へ持っていくノート、増えた」
「取材の?」
「取材のもある」
美琴が鞄から薄いノートを出した時、開きかけたページの上に自分の名前が見えた。短い文が何行もあり、その間に空白が残っていた。
「それ、俺の名前」
「見えた?」
「何を書いた」
「譲司が言ったこと。言わなかったこと。忘れたこと」
「見せる?」
「見せない」
「何で」
「株の記録みたいに読まれるために書いたんじゃないから」
「記録なら、確認できる」
「そういうところ」
美琴はノートを閉じ、自分の鞄へ戻した。譲司が覚えていない言葉がどれなのかは言わなかった。
「譲司は来年卒業したら、平日も市場を見られるの?」
「学校がなくなれば」
「市場が閉まった後は?」
「美琴は大学へ行く」
「行くよ。取材も続ける」
「何を調べる?」
「まだ決めてない。決めてから人に会うと、前みたいになるから」
譲司の携帯電話へ、佐伯から短いメールが届いた。
協和包装 今日も上。
売却後の株価だった。
譲司は返信せず、東日本電子部品の売却理由を頭の中で読み返した。売却後に上がったことを理由に買い直さなかった。佐伯にも同じことを言うべきか考えた。
「今、株のこと考えてる?」
美琴が聞いた。
「佐伯が売った株」
「今日じゃないと駄目?」
「売った後に上がってる」
「それで?」
「買い直す理由にはならない」
「私に言ってる?」
「整理してる」
美琴は卒業証書の筒を持ち直した。
「譲司は、理由が言えたら終わりなの?」
「何が」
「話」
駅前の信号が青に変わった。美琴は譲司の返事を待たなかった。
「じゃあ、また」
横断歩道を渡り、大学の入学手続きへ必要な写真を撮りに行くと言った。譲司は見送った後、佐伯へ返信した。
売却後上昇。損益0円。買い直し理由なし。
翌日の昼休み、佐伯はその文を自分の表の備考へ入れていた。
「昨日、何回見た」
譲司が聞いた。
「何を」
「協和包装」
「昼と、放課後」
「授業の間は」
「見てない」
「本当に?」
「見てないよ」
佐伯は画面を閉じた。
協和包装装置の前日の終値は691円だった。
佐伯は、その数字を1円単位で覚えていた。損失を恐れて覚えたのではない。売った後も上がった事実が、次はもっと取れるという予想へ変わっていた。
放課後には、すでに次の候補表を開いていた。前回より確認する欄は減っていない。それでも、注文を押すまでに必要な時間は短くできると思っていた。
【今回の運用資産推移】
開始時:14,189,094円
終了時:19,585,944円
増減額:+5,396,850円
増減率:+38.04%
取引回数:13回