相場師は欲望から降りられない   作:山崎春のパン祭り

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第二十二話 税引当を戻す

 振替金額の欄には、7桁まで入力できた。

 

 2008年7月7日、月曜日。午前7時18分。城戸譲司は左のモニターに東都ネット証券の入出金画面を開き、右のモニターには東海精工と商品価格の一覧を並べていた。

 

 運用口座残高 39,227,589円

 税引当口座残高 2,782,055円

 

 東海精工を20,000株、2,000円で買う。

 

 買付代金 40,000,000円

 買付手数料 1,575円

 買付必要額 40,001,575円

 

 運用口座だけでは、773,986円足りなかった。

 振替画面には、773,986円と入力することもできる。そうすれば税引当口座には2,008,069円残る。譲司は不足額を一度入力し、数字を全て消した。

 

 2,782,055円。

 

 税引当口座の残高を、そのまま振替金額へ入れた。

 携帯電話を耳へ当てる。佐伯はまだ家にいた。

 

「全部戻すの?」

「足りないから」

「足りないのは77万円くらいだろ」

「残りを置いておく意味がない」

「税金に使う金だよ」

「払う時に残高から出す」

「次も減ったら?」

「減ると決まってない」

 

 佐伯の口座には、協和包装装置を含めて三つの利益が並んでいた。増えた金を次の注文へ使うことに、もう抵抗はなかった。それでも、税引当まで同じ資金として扱う考えには頷かなかった。

 

「僕は利益を次に使った。でも、税金は利益じゃない」

「口座にあるなら同じ金だ」

「払う先が決まってる」

「払う時に残っていればいい」

 

 電話の向こうで、短い沈黙があった。

 

「……全額じゃなくても買える」

「20,000株で見ると決めた」

「19,000株でも条件は同じだろ」

「1円動いた時の金額が違う」

「それが条件なの?」

「結果の大きさも含めて運用だ」

 

 譲司は振替確認のボタンへカーソルを置いた。最終確認には、前の年と同じく美佐子が保管している書類番号が必要だった。

 階下へ降りると、美佐子は弁当箱へご飯を詰めていた。譲司が印刷した画面を食卓へ置く。

 

「税金の口座から、全部戻す」

「いくら?」

「2,782,055円」

「足りないのは?」

「773,986円」

「じゃあ、どうして全部戻すの?」

「同じ自分の金を分ける意味がない」

「分けた時は、意味があるって話だったよ」

「払う必要が出た時に払う」

「申告の書類は?」

「残してある」

「納める時期は?」

「来年」

「来年まで、これが残っている保証は?」

「口座に残高があれば払える」

「残っていなかったら」

「次の利益か、残った金から払う」

 

 美佐子は声を上げなかった。冷蔵庫へ弁当を入れ、引き出しから白い封筒を出した。「2008年途中税引当」と書かれている。

 

「戻すなら、このお金が消えたことにはしないで」

「消えない。運用口座へ移る」

「税金を払う義務も移らないよ」

「分かってる」

「分かってるなら、振替した日と金額をここへ入れて」

 

 美佐子は封筒の表を指した。譲司は7月7日、2,782,055円、運用口座へ戻す、と書いた。

 

「止めないの?」

「止めて聞くなら、もう止まってるでしょう」

「口座は俺の金だ」

「そう。だから、使った結果も譲司のもの」

 

 美佐子は書類番号を読み上げた。

 二階へ戻り、振替を確定する。

 

 振替後運用口座残高 42,009,644円

 税引当口座残高 0円

 

 最高残高と同じ数字が、もう一度運用口座へ表示された。

 6月に3,000万円を別へ移す案を拒んだ時、譲司は税引当を残していることを、自分が境界を守れる証拠にしていた。生活資金を分けなくても、必要な金は分けている。そう説明した。

 今、その証拠を注文資金へ戻そうとしている。

 それでも譲司には、規則を破る感覚がなかった。税引当は納付まで一時的に置いただけの金で、固定資金とは違う。税額が確定したわけでもない。運用口座に戻しても、納税義務を忘れなければ管理は続いている。

 境界を消すのではなく、境界の場所を頭の中へ移すだけだった。

 右のモニターでは、銅とゴムが春の高値を保てなくなっていた。原油は高値圏で大きく振れ、前日まで同じ方向へ動いていた商品が揃わなくなっている。東海精工の同業銘柄も、6月末から高値を切り下げていた。

 東海精工は工場向けの精密機械を作っている。受注残はある。会社固有の下方修正も出ていない。金属と燃料の価格が下がれば、材料費と輸送費は軽くなる。

 市場全体が弱いことは見えていた。機械株の売買代金も減っていた。

 譲司はその二つを、買わない理由ではなく、好材料が株価へ反映される前の状態と読んだ。

 市場が先に下がる。

 原材料価格が下がる。

 企業利益は後から改善する。

 順序がずれているだけなら、先に買う方が安い。

 東海精工は前週、2,340円から2,070円まで下がっていた。安くなったことだけでは買わない。譲司はそう決めている。だが今回は、資源価格の下落という新しい理由がある。

 

 午前8時15分、20,000株、2,000円の買い指値を送信した。

 全量約定後の現金は2,008,069円になる。税引当口座へ残せたはずの金額と同じだった。

 学校へ着くまで、その一致を考えないようにした。

 

 放課後、注文履歴には複数回の約定が並んでいた。加重平均価格は2,000円。始値2,091円、高値2,153円、安値1,900円、終値1,980円。出来高は3,300,000株だった。

 

 現金 2,008,069円

 保有株評価額 39,600,000円

 口座時価 41,608,069円

 

 買付手数料を含め、朝より401,575円減っていた。

 譲司は右の画面へ視線を移した。銅は下げている。原油は大きく上下している。東海精工の終値は買値を20円下回った。

 

「材料費が下がるなら、今日上がらなくてもいい」

 

 誰にも聞かせる必要のない言葉を、口に出した。

 佐伯は表へ、運用口座への振替を新しい行として入れた。

 

 税引当からの振替 +2,782,055円

 資産増減 0円

 

「利益じゃないから」

「分かってる」

「開始残高を4,200万円に戻す?」

「戻す」

「税引当を外に置いた時は3,922万円だった」

「総額は4,200万円だ」

「なら、口座残高と総資産を分ける」

「列を増やすのか?」

「混ぜると、どっちを基準にしたか後で変えられる」

 

 佐伯は「運用口座」「税引当」「総資産」の3列を作った。

 

 運用口座 42,009,644円

 税引当 0円

 総資産 42,009,644円

 

 数字は同じだった。列だけが増えた。

 翌8日、東海精工の終値は1,946円。9日は1,910円。10日は1,913円まで3円戻した。

 譲司は、その3円を反転の始まりとして記録しかけた。佐伯が表を見ている。

 

「何から反転?」

「前日終値」

「買値からは下だよ」

「買値は市場の基準じゃない」

「じゃあ、どの期間で反転って書くの」

「まだ書かない」

 

 譲司は「反転」の文字を消した。

 11日の終値は1,892円。週明け14日は1,877円。15日は1,776円まで下がり、出来高は2,330,000株を超えた。

 原材料が安くなれば利益率が上がる。その考え自体は変わらない。だが、材料費が下がっているのに機械株は上がらなかった。東海精工だけではない。同業も、市場指数も下がっている。

 需要が落ちれば、材料費が下がっても受注は増えない。

 その可能性を、譲司は表の備考へ入れた。

 世界需要減速の可能性。

 入力した後、その下へ追記する。

 ただし、企業利益への反映には時間差。

 二つの文章を同じセルへ入れると、どちらを重く読むかは決まらなかった。

 東海精工だけを見れば、下げる理由はいくつも作れた。高値から売りたい人が増えた。決算前に利益を確定する人がいる。商品相場の変化が利益へ届くまで時間がかかる。

 だが、画面には東海精工以外も並んでいた。工作機械、制御装置、産業部品。同じ業種の多くが安値を更新し、上昇した銘柄も翌日には買いが続かなかった。原材料価格の低下を好材料として受け取る買いは、少なくとも株価には表れていない。

 譲司は業種の列を消さなかった。消さずに、その意味だけを弱めた。

 市場全体の下落は短期。

 企業の費用低下は中期。

 時間軸が違うなら、同時に逆方向へ動いても矛盾しない。

 16日の終値は1,737円。17日は1,736円。18日は1,698円。

 

 同じ頃、佐伯は京浜制御機器を買った。売買代金急増ランキングから候補表へ移し、市場、業種、個別材料の欄を埋めた。前の三つと同じように、撤退条件も注文前に書いた。

 今回は、増えた利益を含む口座資金の大半を入れた。確認画面は一度だけ読み、送信した。3回続けて利益になった後では、長く迷う方が過剰に見えた。

 

 翌日から株価は下がった。終値が撤退条件へ触れた夜、佐伯は翌朝の売却画面を開いた。数量まで入力し、確認ボタンの手前で止まった。

 会社名と「受注」を検索する。以前の大型受注、新製品の発表、業界需要の予測が見つかった。受注鈍化を扱う記事もあったが、その画面は先に閉じた。

 佐伯は自分の表へ追記した。

 受注残は維持。

 新製品の需要は継続。

 下落は利益確定売りの可能性。

 撤退条件の横へ、「1日だけ確認」と入れた。

 家族には、まだ売っていないことだけを話した。

 

「下がったの?」

「ほとんど変わってない」

「売る条件は?」

「明日見る」

 

 翌日、株価は少し戻った。佐伯は売らなかった。戻ったことが、条件を延ばした判断の正しさに見えた。ここで売れば、前の取引と同じように早く手放すことになる。

 3回続けて選べた。今回だけ外れるはずがない。

 その言葉は表へ入れなかった。

 譲司が買付前に決めた撤退条件は、終値が1,450円を割った翌朝、1,400円で全て売る、だった。2,000円から3割下である。値幅は大きい。それでも20,000株では、1円で20,000円動く。撤退価格を1円下げれば、損失は20,000円増える。

 佐伯は条件のセルを開いた。

 

「1,400円、変えない?」

「変えない」

「会社の悪材料はないんだろ」

「ない」

「原材料も下がってる」

「それでも市場と業種が戻らない」

「買う時も弱かった」

「時間差だと思った」

「今は?」

「長すぎる」

 

 佐伯は自分の表を開いたまま、画面から目を離した。

 

「僕なら、もう1日見る」

「自分の株でもそうしたからか」

「少し戻った」

「売ったのか?」

「まだ」

「1日だけじゃない」

「買値までは戻ってない」

 

 譲司は条件欄へ視線を戻した。

 

「俺は変えない」

 

 佐伯は何も入力しなかった。自分の撤退条件を延ばしたままでは、譲司へ守れと言う言葉も弱くなった。

 連休明けの22日、東海精工は1,562円で終えた。23日は1,477円。24日は始値1,491円、高値1,544円、安値1,393円、終値1,445円。

 終値が条件を一度割った。

 譲司は翌朝の売り注文へ、20,000株、1,400円と入力した。

 

 25日、金曜日。東海精工は1,460円で始まり、高値1,528円、安値1,315円、終値1,379円。売り注文は複数回に分かれ、加重平均1,400円で全量約定した。

 

 売却代金 28,000,000円

 売却手数料 1,575円

 現金残高 30,006,494円

 

 買付前の総資産42,009,644円から、12,003,150円減った。

 佐伯が減少率を計算する。

 

 28.57%。

 

「消して」

「計算、間違ってない」

「まだ3,000万円ある」

「最高からの減少率だよ」

「開始は30万円だった」

「6月18日は12万円」

「どっちから見ても増えてる」

「なら、何で4,200万円を開始にしたの」

「今回の取引の開始だから」

 

 佐伯は28.57%を消さなかった。

 自分の口座では、京浜制御機器をまだ売っていない。含み損は評価額の欄にあるだけで、確定損益には入っていなかった。譲司の損失は計算できても、自分の損失はまだ結果ではないと扱っていた。

 譲司は別の欄へ、開始資金300,000円と入力しようとした。最初に運用を始めた時の金額だった。6月18日の122,360円でも、2008年初の14,189,094円でもない。

 どの数字を使っても、現在の3,000万円は利益に見える。

 同じ3,000万円が、2週間前から見れば大損失に見える。

 

「比較する数字を一つに決める必要はない」

「じゃあ、全部残す」

「多すぎる」

「多いから、都合のいい数字だけ選べるんだろ」

 

 佐伯は表を保存した。

 その日の夕食で、遥が二つのモニターの電気代を聞いた。

 

「株、減ったの?」

「残高は3,000万円」

「前はいくら?」

「4,200万円」

「じゃあ1,200万円減った?」

「取引の損失はそうなる」

「1,200万円って、家買える?」

「場所による」

「車は?」

「買える」

「それがなくなったの?」

「最初から物を買う予定はない」

 

 遥は意味が分からないという顔をした。美佐子は数字を確認したが、使った税引当については聞かなかった。封筒に記録があるためだった。

 誠一は茶碗を置いた。

 

「3,000万円なら、もう十分じゃないのか」

「前にも聞いた」

「前は4,200万円あったんだろ」

「3,000万円でも運用できる」

「何が十分かを聞いてる」

「数量は減る。でも続けられる」

 

 誠一は、それ以上同じ質問をしなかった。

 東海精工を売った後も、原油と工業金属の下落は止まらなかった。製造株へ資金は戻らない。

 譲司は、読み違えたとは書かなかった。

 原材料安が利益へ反映されるまで、時間がかかる。

 その文章を残し、次の銘柄を探した。

 南関住宅開発は、東海精工とは業種が違う。輸出企業でも、資源会社でもない。住宅用地と分譲住宅を扱う国内企業だった。資材価格と燃料費が下がれば建築費は軽くなる。円高の直接影響も小さい。

 

 7月28日の終値は1,346円。29日は1,320円。30日は1,245円。31日は1,204円。8月1日は1,190円。

 5日続けて下がっていた。

 値下がり率ランキングから候補を選ばない。下がっただけでは買わない。譲司は規則を読み直した。

 南関住宅開発は値下がり率側では監視にとどめた。だが、値上がり率ランキングにも売買代金急増ランキングにも入っていないまま、保有土地と1株当たり純資産を調べ始めた。

 販売戸数は減っているが、1株当たり純資産と比べれば株価は低い。材料費の下落も、いずれ利益へ出る。

 市場全体と不動産業種の売買代金は弱いままだった。

 譲司は規則を削除しなかった。その下へ1行追加した。

 市場が弱くても、個別の資産価値と費用低下が明確なら対象外にしない。

 追加した時刻も残した。後から書いたことは分かる。それで、書き換えではないと思った。

 佐伯が画面を見た。

 

「東海精工と同じじゃない?」

「業種が違う」

「原材料が安くなるって理由は同じ」

「機械は設備投資。住宅は生活需要」

「市場が弱いのも同じ」

「別銘柄だ」

「買い下がりじゃないってこと?」

「同じ株を追加してない」

「口座全体では、下がった後にまた買うんだろ」

「それを買い下がりとは言わない」

 

 佐伯は反論をやめた。京浜制御機器にも、会社固有の条件は残っていると書いていた。同じ言葉を自分の保有理由へ使っている間は、譲司の例外だけを否定できなかった。

 南関住宅開発の1日の出来高は増えていた。しかし、増えた売買の多くが高値を押し上げず、安値を更新する側で成立している。以前の譲司なら、出来高が増えても高値を維持できなければ買いを見送った。

 今回は、売買代金が大きいことを、売りたい人が出尽くす途中と読んだ。

 同じ数字でも、上昇局面では資金流入、下落局面では売りの吸収と呼べる。どちらが正しいかは、その後の値動きでしか確定しない。

 譲司は注文前理由へ「売りを吸収」と入力した。佐伯は時刻欄を見た。

 

「それ、前から使ってた言葉?」

「今の状態に合う」

「下がってる時にも使えるんだ」

「出来高がある」

「もっと下がっても、吸収中って言える?」

「安値の更新幅を見る」

 

 答えられたため、譲司は文章を残した。

 

 8月4日、月曜日。午前8時15分、南関住宅開発へ25,000株、1,150円の買い指値を送信した。

 

 買付代金 28,750,000円

 買付手数料 1,575円

 買付後現金 1,254,919円

 

 始値1,195円、高値1,232円、安値1,092円、終値1,138円。注文は加重平均1,150円で全量約定した。

 初日から、保有株の評価額は買付代金を下回った。

 5日の終値は1,105円。6日は1,074円。7日に1,105円まで戻った。

 譲司は、その1日だけを東海精工との違いとして見た。住宅株には買いが残っている。翌8日は1,080円。11日は1,055円。

 戻った日の高値を、次の日には越えられなかった。

 12日は1,016円。13日は988円。14日は978円。15日は950円。

 市場指数が下がるたび、譲司は南関住宅開発の固有材料を確認した。土地の価値。資材価格。国内需要。会社固有の破綻材料はない。

 市場全体と業種が売られていることは、会社の土地が消えたことを意味しない。

 含み損が増えるにつれ、譲司は商品価格の画面を開く回数を減らした。原油や銅が下がるたび、建築費には追い風だと考えられる。だが、その説明を確認するなら、住宅株が上がらない理由も同時に見なければならない。

 右のモニターを閉じると、南関住宅開発だけを見られた。企業の土地と買値の差を計算し、過去の高値まで戻った場合の利益を出す。市場全体の下落は画面の外へ移った。

 見えていないわけではなかった。見える画面を減らした。

 同時に、土地が消えていないことは、明日買いが戻ることも意味しなかった。

 

 8月16日、美琴から短いメールが届いた。

 17日の午後、空いてる?

 駅前の写真展、行くなら今日中に返事して。

 相場とは関係のない予定だった。

 譲司は返信画面を開いた。市場は休みである。明日も休みだった。行けない理由はない。

 南関住宅開発の金曜日終値950円を思い出した。1株200円の含み損。25,000株で5,000,000円。月曜日に900円を割るかもしれない。

 返事は市場が開いてからでもできると考え、携帯電話を伏せた。

 

 夜、美琴から追加の連絡はなかった。

 

 18日、南関住宅開発は894円で終えた。19日は865円。20日は835円。21日は807円。

 譲司は売却条件を変えなかった。

 終値が800円を割った翌朝、760円で全て売る。

 21日の安値は784円だったが、終値は807円。条件には触れていない。

 

「あと7円」

 

 譲司が言うと、佐伯が聞いた。

 

「何まで?」

「撤退条件」

「7円上だから持つ?」

「終値で決める」

「明日、760円で売れたら、いくら残る?」

「2,000万円くらい」

「4,200万円から?」

「3,000万円からだ」

「東海精工を売った後を開始にするの?」

「別の取引だから」

 

 佐伯は、自分の取引表を鞄から出した。買付前の撤退条件の下に、後から足した文章が続いていた。

 受注残。

 新製品。

 業界需要。

 売られすぎ。

 戻りの可能性。

 

「まだ持ってる」

「1日だけじゃなかったのか?」

「戻ったら売るつもりだった」

「戻っただろ」

「買値までは戻ってない」

「条件は?」

「今は、買値に近づいたら売る」

「家には?」

「ほとんど変わってないって言った」

 

 佐伯は表を閉じなかった。閉じれば価格を確認したくなり、開いていれば上がる材料を探したくなった。

 

「僕の話は関係ないか」

「口座が違う」

「そうだね」

 

 その夜、佐伯直人は京浜制御機器の会社名を何度も検索した。新しい好材料は出ていない。以前読んだ受注発表を開き直し、同業他社の反発記事を保存した。業績見通しを引き下げる記事は、見出しだけで閉じた。

 株価は買値から離れていた。買値まで戻るために必要な上昇率を計算し、数字が大きいためセルを閉じた。

 そんなはずはない。

 上がるはずだ。

 

 8月22日、金曜日。南関住宅開発は812円で始まり、高値848円、安値714円、終値749円。

 25,000株の売り注文は、加重平均760円で全量約定した。

 

 売却代金 19,000,000円

 売却手数料 1,575円

 現金残高 20,253,344円

 

 買付手数料と売却手数料を含む純損失は9,753,150円だった。

 東海精工を買う前の42,009,644円から、21,756,300円減っていた。

 半分を超えている。

 譲司は割合を計算しなかった。佐伯も、この日は数字を読み上げなかった。

 

 保有株なし。

 未約定注文なし。

 税引当口座残高 0円。

 

 美琴のメールを開く。写真展は5日前に終わっていた。

 返信欄へ「また今度」と入力し、送信せずに閉じた。

 

 夕食後、美佐子が白い封筒を持って二階へ来た。

 

「これ、ここに置くね」

 

 机の端へ「2008年途中税引当」と書かれた封筒を置く。中には、6月に分けた記録と、7月7日に全額を戻した記録が入っていた。

 

「税金の計算は、また必要になるから」

「分かってる」

「残高、聞かない方がいい?」

「2,000万円ある」

「そう」

 

 美佐子は多いとも少ないとも言わなかった。

 譲司は振替履歴を開いた。

 

 7月7日

 税引当口座から運用口座へ

 2,782,055円

 振替完了

 

 画面を閉じる。

 封筒の中は見なかった。

 もう一方のモニターでは、原油の高値からの下落幅が広がっていた。

 相場表の末尾には、開始時残高39,227,589円、税引当からの振替+2,782,055円、東海精工と南関住宅開発の売買損失-21,756,300円を別々に残した。差し引き20,253,344円。開始時からの減少は18,974,245円だった。




【今回の運用資産推移】
開始時:39,227,589円
終了時:20,253,344円
増減額:-18,974,245円
増減率:-48.37%
取引回数:17回
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