10月20日、月曜日。城戸譲司は値下がり率ランキングを監視画面として開き、原油、輸出、金融の文字を含む銘柄を外した。
値上がり率ランキングにも、平常時比の売買代金急増ランキングにも入っていない。以前なら監視のまま終えた銘柄だった。
残ったのは、光洋不動産だった。
前週金曜日の終値は193円。10日の261円から5営業日で68円下がっている。出来高は1,310,000株から2,280,000株まで増え、下げる日ほど売買された株数が多かった。
不動産会社も金融市場と無関係ではない。銀行から金を借り、土地を仕入れ、建物を売る。譲司はそれを知っていた。ただ、極東金融システムや新東輸出機器ほど、海外の金融機関や円相場と直接つながってはいないように見えた。
原油が下がっても、不動産会社の在庫は減らない。銅が売られても、保有する土地が消えるわけではない。輸出企業のように、円高で製品価格が変わる会社でもない。
世界中で売られているものから、関係の薄いものへ移ればいい。
譲司はそう考えた。
現金残高は5,543,894円。30,000株を180円で買えば5,400,000円。買付手数料1,575円を加えた後に残る現金は142,319円だった。
数量欄へ30,000株と入れた時、佐伯が横から画面を見た。
「半分、残したら?」
「何のために?」
「次に間違えた時」
「半分で買ったら、戻しても取り返せない」
「全部なら取り返せる?」
「値幅が同じなら利益も倍になる」
「損も」
譲司は返さず、午前8時15分に180円の買い指値を送信した。
光洋不動産は188円で始まり、高値196円、安値169円、終値176円。注文は複数回に分かれ、加重平均180円で30,000株すべて約定した。
現金 142,319円
保有株評価額 5,280,000円
口座時価 5,422,319円
買付日の終値だけで、121,575円減っていた。
右のモニターでは、国内株だけでなく、原油、銅、ゴムも下がっていた。円は外貨に対して買われ、資源国通貨は売られている。金は安全資産として買われる時間と、現金を作るために売られる時間が1日の中にあった。
同じ方向へ動く理由は、一つではなかった。
ニュース欄には、金融機関の損失、企業の資金繰り、景気見通しの下方修正が並んでいた。原油が下がれば燃料費は減る。銅が下がれば材料費は減る。円が上がれば輸入価格は下がる。それでも、費用が減る会社より、売上そのものが消えると見られた会社の方が多く売られている。
譲司は値下がりした商品を一つずつ開いた。どの価格にも、それを必要とする会社と、それを作る会社がある。どこかの費用が下がれば、どこかの売上が減る。同じニュースを好材料と悪材料へ分けることはできた。だが、どちらが株価へ先に出るかは画面を見ても決まらなかった。
光洋不動産には、原油の輸出企業も、銅鉱山も、海外売上もなかった。少なくとも、右の画面で赤くなっている商品名と会社名を直接つなぐ線は見つからない。
譲司は右のモニターを最小化した。光洋不動産の業績画面を左へ広げる。
保有物件。販売予定。含み資産。借入金。
数字を読めば、会社が明日なくなるとは思えなかった。
21日の終値は163円。22日は155円。23日は130円。
学校では、昼休みに公開株価を開かなかった。開いても、売る条件がない。前日より下がったことだけを見れば、理由を増やすか、今すぐ売るかのどちらかになる。譲司は机の中で携帯電話が震えたように感じ、手を入れた。着信も通知もなかった。
放課後、部屋へ戻ると最初に残高を開いた。価格を確認する前から、減っている金額は想像できた。30,000株は、1円で30,000円動く。終値が10円下がれば300,000円。計算が簡単になった分だけ、画面を開く前に損失が分かった。
株価が100円台になってから、値下がり幅は小さく見えた。180円から130円へ下がれば50円だが、30,000株では1,500,000円になる。譲司は金額を計算した後、株価の方だけを見直した。
130円。
1,000円の株が50円下がるのとは違う。100円台なら、下がれる金額には限界がある。
24日、光洋不動産は132円で始まり、高値138円、安値105円、終値110円だった。
譲司は売却条件を100円へ置いた。
買付前の表には、その数字はない。前の取引では、買付後に撤退幅を広げたことを佐伯に問われた。今回は文章を足さなかった。
100円。
それだけを売却注文へ入れた。
27日、月曜日。始値103円、高値107円、安値89円、終値98円。30,000株は加重平均100円で全量約定した。
売却代金 3,000,000円
売却手数料 1,575円
現金残高 3,140,744円
純損失は2,403,150円だった。
佐伯は表へ数字を入れた。規則違反の欄には何も書かなかった。買付前の撤退条件が存在しないため、破った条件も表示できなかった。
自分の京浜制御機器は、まだ保有したままだった。一度は買値へ近づいたが、届かなかった。そこで売れば損を小さくできた。それでも佐伯は、戻り始めた株を途中で手放す方が間違いに思えた。
反発は続かなかった。前の安値を割ると、佐伯は会社名と「受注」「新製品」「反発」を組み合わせて検索した。新しい材料が見つからない夜は、以前保存した記事を読み直した。
悪材料は織り込み済み。
受注は消えていない。
同業が戻れば次に買われる。
文章は増えた。売却条件は、買付前の位置に残ったままだった。
夕食の席で、美佐子は残高を聞いた。
「314万円」
「追加のお金は出さないよ」
「頼んでない」
「これからも。1円も」
「分かってる」
美佐子は譲司の返事を確かめるように見た。以前なら、取引理由や残高の内訳を聞いた。今は追加資金を出さないという条件だけを言った。
誠一は味噌汁を飲み、金額を尋ねなかった。
「飯は食え」
「食べてる」
「味、分かるか?」
譲司は焼き魚を一口食べた。塩味はした。
「分かる」
「なら食え」
遥は箸を止めて譲司を見ていた。
「何?」
「怒らないの?」
「誰に?」
「前は、損したらすぐ怒ってた」
「怒っても残高は増えない」
遥はそれ以上聞かなかった。怒らない兄を安心した顔では見ていなかった。
夜中に一度目が覚めた。部屋は暗く、モニターの待機灯だけが点いている。市場は閉まっている。注文もない。残高が変わらない時間だと分かっていても、譲司は電源ボタンを押した。
口座画面が開くまでの数秒、300万円が消えている可能性を考えた。表示された残高は夕方と同じだった。変わっていないことを確認すると、今度は海外市場を開いた。眠る理由を確認するために起動した画面が、眠れない理由へ変わった。
翌朝、美佐子は朝食へ来なかった譲司の部屋を開けた。椅子に座ったまま眠っていたが、画面は点いている。美佐子はパソコンを消さず、カーテンだけを開けた。
同じ頃、佐伯直人も価格を見ない時間を作れなくなっていた。授業中は携帯電話を開かなくても、前日の終値から損失を暗算した。帰宅すると口座より先に公開株価を開き、下がっていれば材料を探し、少し戻っていれば買値までの距離を計算した。
家族が部屋へ入ると画面を閉じた。聞かれれば、「まだ売っていない」「会社は変わっていない」と答えた。損失額は答えなかった。
眠る前に価格を確認し、市場が閉じている夜中にも同じ画面を開いた。価格が変わらないことは分かっていた。それでも、翌朝に上がる材料が出ていないかを確認した。
食後、譲司は二階へ戻った。右のモニターを点ける。原油、銅、ゴムの下落率が並び、金も前日比を変えていた。どれも光洋不動産とは別の市場で売買されている。それでも、現金へ換えられるものが同じ時間に売られている。
譲司は商品価格の窓を閉じ、低位株ランキングを開いた。
東明バイオは、10月23日の72円から、24日82円、27日87円、28日100円、29日108円と上がっていた。
値上がり率ランキングにも入っていた。出来高は増えている。ただし、市場全体と業種を先に確認し、平常時比の売買代金が続くかを見る手順は短くなった。
市場全体は弱い。だが、東明バイオには買いが続いている。値上がり率と出来高を見れば、以前に失敗した新東バイオとは違った。
名前の一部が似ているだけで、会社も、材料も、株価も違う。
再生医療向けの検査試薬について、共同研究の進展を発表していた。売上への影響は未定とされている。それでも、安値は切り上がり、出来高は増えていた。
譲司は30日、午前8時15分に30,000株、100円の買い指値を送信した。
買付代金 3,000,000円
買付手数料 1,575円
買付後現金 139,169円
東明バイオは106円で始まり、高値112円、安値93円、終値98円。30,000株は加重平均100円で全量約定した。
翌31日、日本銀行が政策金利の誘導目標を0.5%前後から0.3%前後へ引き下げた。
ニュース速報が出た直後、市場指数は上へ動いた。銀行株、輸出株、不動産株の値が一斉に更新され、東明バイオも一時101円まで買われた。
譲司は右の画面へ政策金利の数字を残し、左の画面へ東明バイオの1分足を出した。発表前より高い価格で買う人間がいる。少なくとも、政策を無視して売っているだけではない。
政策が変わった。市場を支える側が動いた。前の急反発と違い、金利という条件そのものが変わった。
その違いが東明バイオの事業へどう届くかは書かなかった。資金調達費用が下がるのか、研究投資が増えるのか、市場全体の評価が上がるのか。どれも可能性としては残る。可能性が残ることを、売らない理由として使った。
譲司はその文章を、買付前理由の下へ入れた。
東明バイオの終値は90円だった。
11月4日は88円。5日は76円。6日は64円。
政策金利が下がっても、保有株の売りは止まらなかった。再生医療の研究が1日で消えたわけでもない。会社固有の悪材料は発表されていない。
譲司は、政策効果が市場全体へ届くまで時間がかかると考えた。
光洋不動産では、原油や輸出と関係が薄いと考えた。東明バイオでは、景気と関係の薄い成長分野だと考えた。
どちらも、世界全体が現金を求めている画面から、銘柄だけを切り離すための言葉になった。
7日、金曜日。東明バイオは64円で始まり、高値67円、安値51円、終値54円。
30,000株を加重平均55円で全て売った。
売却代金 1,650,000円
売却手数料 1,575円
現金残高 1,787,594円
純損失は1,353,150円だった。
画面に表示された残高を見た時、譲司は最初の大損前に一度だけ表示された最高口座時価を思い出した。
1,803,972円。
現在との差は16,378円だった。
4,200万円から落ちた数字より、最初の失敗で残せなかった最高値の方が近くなっていた。
佐伯の京浜制御機器は、前日の6日、木曜日に小さく反発していた。
佐伯は売却画面を開いた。損失は残るが、前日より小さい。買値には届いていない。ここで売れば、戻り始めたところを手放すことになる。
閉じた。
7日、反発分を失った。さらに下がると、以前保存した大型受注の記事をまた開いた。文章は同じだった。会社も同じだった。違うのは株価だけだった。
そんなはずはない。
上がるはずだ。
何度読んでも株価は戻らなかった。
佐伯は、その日の下落を最後まで見られなくなった。買付前の撤退条件でも、買値へ戻る条件でもない。含み損の数字をもう一度見ることに耐えられず、全株の売却注文を出した。
約定後、最初にしたのは損失額の確認ではなかった。売った後の株価を開いた。少し戻ると、早く売りすぎたと思った。下がると、もっと早く売るべきだったと思った。保有していなくても、どちらへ動いても確認する理由が残った。
翌8日、土曜日も、佐伯は京浜制御機器の株価を開いた。保有株ではない。それでも少し戻れば早く売ったと思い、さらに下がれば、もっと早く売るべきだったと思った。
同じ8日、美琴と駅前で短く会った。約束ではない。美琴が取材先へ向かう途中、譲司を見つけて立ち止まっただけだった。
「痩せた?」
「変わってない」
「寝てる?」
「必要な分は」
美琴は譲司の顔を見た後、鞄の肩紐を持ち直した。
「前は、会社だけじゃなくて、市場と業種も見るって言ってた」
「今も見てる」
「見て、それでも買ったの?」
「買った理由はある」
「今の説明じゃなくて、見る順番の話」
「市場が変わった」
「順番も変わるの?」
「状況が違う」
美琴は反論しなかった。譲司へ売れとも、次を買うなとも言わなかった。
「そう」
それだけ言い、改札の方へ歩いた。譲司は呼び止めなかった。美琴も振り返らなかった。
9日、日曜日。佐伯は自分の口座画面を譲司へ見せた。
保有株なし。
未約定注文なし。
現金のみ。
「全部売った」
「損切りしたのか?」
「した」
「戻るかもしれない」
「戻っても、僕の株じゃない」
「次は?」
「今は注文しない」
「候補がない?」
「画面を開けば、あると思う」
「なら探せばいい」
「まだ探したくない」
佐伯は金額を読み上げなかった。譲司も聞かなかった。
「持ってる間、授業でも家でも、価格を見ない時間を作れなかった」
「それは銘柄の理由じゃない」
「僕が今、買わない理由」
「株が戻ったら?」
「戻るかもしれない」
「なら損切りが間違いになる」
「口座を見なくていい時間が戻るなら、それでいい」
佐伯は口座画面を閉じた。
譲司には、その答えを損益欄へ入れる方法が分からなかった。
「俺の表、続ける?」
「今年の集計までは」
「その後は」
「まだ決めてない」
現金残高だけになった口座は、数字が動かない分、以前より狭く見えた。
その夜、譲司は北辰新素材を開いた。
11月4日の終値は48円。5日は51円。6日は55円。7日は59円。株価は東明バイオと逆に上がっていた。新素材の量産試験について発表し、低位株ランキングの上位に入っている。
値上がり率は確認した。平常時比の売買代金、業種全体、新素材需要と商品価格のつながりは、候補から外すほど詳しく調べなかった。
55円なら、30,000株を買っても1,650,000円だった。
1株55円。
ゼロまで下がっても1株当たりの損失は55円である。1,000円の株が半値になるより、減る金額は小さいように見えた。
30,000株なら、1円で30,000円動く。
譲司は1円当たりの損益を計算した。次に、55円から25円まで下がった場合の損失を計算しようとして、止めた。
30円も下がるには、株価が半分以下になる必要がある。
東明バイオは100円から55円まで下がった。光洋不動産は180円から100円まで下がった。銘柄は違う。
北辰新素材は、直近4営業日で上がっている。
譲司は商品価格指数の画面を開いた。夏の高値から大きく下がった線が表示される。原油、銅、ゴムも、その下に並んでいた。
新素材の需要と、現在の商品価格がどうつながるかを調べる前に、画面を閉じた。
低位株ランキングだけを残した。
11月10日、月曜日。30,000株、55円の買い指値を送信した。
買付代金 1,650,000円
買付手数料 1,575円
買付後現金 136,019円
北辰新素材は59円で始まり、高値62円、安値51円、終値54円。注文は加重平均55円で全量約定した。
佐伯は約定結果を表へ入れた。
「売る条件は?」
「値動きを見る」
「数字は?」
「まだ決めない」
佐伯は空欄のまま保存した。
11日の終値は51円。12日も51円。13日は48円。14日は43円。
譲司は学校で教科書を開き、授業中に一度も株価を書かなかった。数字は書かなかったが、43円から1円下がるたびに30,000円減ることは暗算していた。
教師に指名され、教科書の英文を読んだ。行は追えても意味が頭に残らない。読み終えた後、教師が次の生徒を指した。譲司は自分が何を読んだのか思い出せず、ページ番号だけを覚えていた。
放課後、佐伯は相場表を開かなかった。譲司が自分で終値を入力する。43円。セルの幅は変わらない。4,200万円を表示した時と同じ字体で、43円が収まった。
17日の終値は38円。18日は34円。19日は29円。20日は26円。
下がるたび、ゼロまでの距離は短くなった。38円からなら残り38円。29円からなら残り29円。損失額は増えているのに、これから失える1株当たりの金額だけは小さくなる。譲司はその二つを同じ画面で見なかった。
食卓へ下りる時間は遅くなった。美佐子が温め直した皿を机へ運び、食べ終わる前に冷めた。誠一は残高を聞かなかった。遥は譲司の部屋の前で立ち止まり、声をかけずに階段を下りた。
21日、金曜日。北辰新素材は26円で始まり、高値27円、安値23円、終値24円。
30,000株は加重平均25円で全量約定した。
売却代金 750,000円
売却手数料 840円
現金残高 885,179円
純損失は902,415円だった。
保有株なし。
未約定注文なし。
口座画面の余白が広くなった。4,200万円あった時も、保有株がなければ表示される項目は同じだった。銘柄名の欄は空白で、現金残高だけが1行に残る。桁が減ったため、数字の右側にも空白があった。
譲司は売却画面を閉じた。
机の上にある携帯電話へ手を伸ばした。誰へ連絡するかは決めていなかった。指が発信履歴を開き、閉じる。
古い電話の受話器を握る指が見えた。
注文を出した後の部屋には、誰もいなかった。
映像は二つだけで途切れた。声も、名前もなかった。
譲司は相場表を開いた。
佐伯が作った列は、画面の右まで続いている。買付前理由、撤退条件、市場全体、業種、出来高、売買代金、手数料、保有営業日、規則違反。列は残っていた。
最後の3行へ数字を入れる。
光洋不動産 -2,403,150円
東明バイオ -1,353,150円
北辰新素材 -902,415円
10月20日の5,543,894円は、885,179円になった。
16歳になった朝の残高を、表の下へ書く。
122,360円。
今回の運用で最も多かった残高を、その下へ書く。
42,009,644円。
現在残高を入力する。
885,179円。
増減率の欄へ数式を入れようとした。
開始を122,360円にすれば、まだ大幅な利益だった。最高を42,009,644円にすれば、ほとんど失っている。年初の14,189,094円を使えば、別の数字になる。
どれも事実だった。
譲司は開始値を選べなかった。
開始 122,360円
最高 42,009,644円
現在 885,179円
増減率 ____
カーソルが空欄で点滅する。
【今回の運用資産推移】
開始時:5,543,894円
終了時:885,179円
増減額:-4,658,715円
増減率:-84.03%
取引回数:23回