11月21日に北辰新素材を売ってから、城戸譲司は東都ネット証券の画面を毎日開いた。
現金残高 885,179円
保有株なし。
未約定注文なし。
数字は変わらなかった。
値上がり率ランキングと売買代金急増ランキングには、その日も銘柄が並んだ。100円を下回る株も、前日比で2割を超えた株もある。譲司は銘柄名を開き、材料、出来高、売買代金、同業種の値動きを確認した。数量欄までは進まなかった。
主入口に銘柄がないわけではない。市場全体、業種、個別材料を同じ方向へ結べず、買付理由を書けなかった。
学校では、授業の合間に携帯電話を開く回数が減った。見なくても安心できるようになったのではない。表示される885,179円が変わらないと分かっていたためだった。教科書の文章は以前より目に入ったが、授業が終わると、見なかった時間に上がった銘柄をまとめて確認した。
夕食へ下りる時刻は少し早くなった。美佐子は何も言わず、冷めていない皿を出した。誠一は仕事の話をし、遥は学校で借りた本を見せた。譲司は会話を聞きながら、値上がり率上位の銘柄名を頭の中で繰り返した。画面を閉じても、相場が閉じたわけではなかった。
市場全体は弱い。業種の資金流入は続いていない。個別株だけが1日跳ねている。以前なら、それを買わない条件として表へ入れた。今は条件を見つけても、見送った判断が正しいと確かめるために翌日の価格を見続けた。
上がれば、買わなかった金額を計算した。下がれば、避けた損失を計算した。
どちらも口座残高には入らなかった。
佐伯が作った相場表には、11月21日以降の日付だけが増えた。注文状態の列へ「なし」と入力する。損益は0円。現金比率は100%だった。
譲司は、100%という数字を安全とは呼ばなかった。買える株数が少ない状態に見えた。
12月に入ると、原油、銅、ゴムの価格表も更新した。夏の高値から線が下がり続けている。株式だけでなく、企業が工場で使う物、運ぶ物、作る物まで売られていた。金は上がる日も下がる日もあり、安全という一語では同じ欄へ入らなかった。
商品価格の表には、前日比と円換算だけがある。どの月の価格か、いつ受け渡す物か、現物と同じ値段なのかは空欄のままだった。
会社の決算なら経営者の説明が付く。商品には会社名がない。天候、生産量、在庫、輸送、為替、使う側の需要が価格へ集まる。
譲司は、その方が企業の説明より近いように感じた。
12月19日、金曜日。日本銀行が政策金利の誘導目標を0.1%前後へ引き下げたという速報が出た。
譲司は株価指数、円相場、銀行株、輸出株を順に開いた。速報直後に動いた銘柄はあったが、午後まで同じ方向へ進んだわけではない。原油と銅の画面も開いた。政策発表だけでは、世界の需要が戻ったかどうかは分からなかった。
値上がり率ランキングに、80円台の不動産株が入っていた。
譲司は材料を読んだ。借入条件の変更。保有物件の一部売却。資金繰りへの不安が消えたとは書かれていない。市場全体、業種、資金流入。三つの欄を埋めようとして、どれも途中で止まった。
注文画面を閉じた。
午後7時を過ぎ、携帯電話に佐伯から短いメールが届いた。
来週の土曜、釣り行かない。
譲司は日付を確認した。翌週の27日。市場は休みだった。
何を釣るのか、どこへ行くのかは書かれていない。譲司は「行く」とだけ返した。
12月20日、土曜日。佐伯は、前営業日までのランキングを基にした候補表とノートパソコンを持って城戸家へ来た。
市場全体は前週より落ち着いていた。候補の業種にも資金が戻り、その銘柄は前営業日の値上がり率ランキングと平常時比の売買代金急増ランキングの両方へ入っている。個別材料も確認できた。
佐伯は買付理由と撤退条件を読み直した。数量は口座残高の半分以下に収めてある。
「条件は?」
「崩れてない」
「市場は?」
「前より落ち着いてる。業種にも戻ってる」
「材料は?」
「確認した」
佐伯は自分の口座へログインし、次営業日分の注文画面で数量欄へ入力した。確認画面には銘柄名、数量、指値、概算代金が並んだ。
送信ボタンの上で、指が止まった。
「押さないのか?」
「下がった時のことを考えてる」
「撤退条件は書いた」
「前も書いた」
「銘柄は違う」
「僕は同じだ」
佐伯は確認画面を戻り、数量欄を空にした。注文は送信されなかった。
「株が怖いんじゃない」
「じゃあ何が怖い?」
「下がった時に、事実より先に、売らなくていい話を作る自分」
佐伯は候補表を閉じた。条件が崩れた印は付けなかった。
12月27日、土曜日。午前6時30分を過ぎた頃、佐伯の家族が運転する車が城戸家の前に止まった。
美佐子は玄関で、譲司が借りた防寒着の襟を直した。
「水辺は寒いよ」
「分かってる」
「朝ご飯、車で食べないでね」
「食べた」
「帰ったら濡れた物を部屋へ持っていかない」
「分かった」
相場の話はしなかった。
車の荷室には、細長い竿袋と折り畳んだ椅子、餌の入った箱が積まれていた。佐伯は後部座席で眠そうに窓の外を見ている。
「家の?」
「うん。2本あるから」
「いつからやってる?」
「僕はほとんどやらない。小さい頃に何回か」
「釣れる場所は分かる?」
「行けば教えてくれる」
譲司は誰が教えるのか聞かなかった。
車は市の河岸らへんの鮒釣り場へ着いた。空は明るくなり始めていたが、地面には夜の冷たさが残っている。風は弱い。水面は動いていないように見えた。岸辺の枯れ草だけが、時々同じ方向へ揺れた。
車を降りると、靴底から冷気が上がった。譲司は両手をポケットへ入れたが、佐伯に竿袋を渡され、すぐに出した。池の向こう側は朝の光で白く、近くの岸には霜の残った草が倒れている。魚がいるかどうかは、水面を見ても分からなかった。
受付を済ませ、佐伯の家族は二人と道具を降ろした。昼前に迎えに来ると言って車へ戻る。
池の周囲には、すでに何人かの釣り人が座っていた。長い竿を出している人。短い間隔で餌を付け直す人。ほとんど動かず浮きを見ている人。空いている場所は多かった。
佐伯は借りた竿を1本ずつ出し、仕掛けを確認した。
「これでいい?」
「僕に聞くなよ」
「お前、数字なら全部見直すだろ」
「長さが違う」
「そこから?」
竿には同じ印が付いていなかった。仕掛けの長さも、浮きの形も少し違う。佐伯は家で教わった手順を思い出しながら、餌を小さく丸めた。
譲司は水面を見た。日が当たる場所と、木の影が残る場所がある。風が弱くても、池の端には細かな波が集まっていた。他の釣り人は等間隔には座っていない。人が多い場所が釣れるのか、単に入口から近いのかは分からなかった。
「どこへ入れる?」
「まず前でいいんじゃない」
佐伯が指した場所へ、譲司は仕掛けを入れた。
浮きが立った。
何も起きなかった。
1分も待たずに竿を上げる。餌を付け直し、少し右へ投げる。次は左。さらに遠く。反応がないたびに場所を変えた。
10回投げれば、1回くらい魚の近くへ入るように思えた。
浮きは立ち、少し沈み、波で戻る。譲司は沈んだ瞬間に竿を上げた。針には何も掛かっていない。餌の一部だけが落ちていた。
「今、動いた」
「風じゃない?」
「沈んだ」
「全部動いてるよ」
佐伯は自分の浮きを見たまま答えた。
「さっきから何回入れた?」
「数えてない」
「珍しい」
「数えても釣れない」
そう言いながら、譲司は次から回数を数え始めた。
12回。13回。14回。
投入回数は増えた。釣果は0匹だった。
株なら、注文回数を増やしても1件ごとの条件が良くなるわけではない。それは分かっていた。それでも釣りでは、仕掛けを入れなければ魚に届かないという理由で、回数を増やした。譲司は15回目の餌を付けながら、同じ言葉を相場で使えば買い続ける理由になると思った。
周囲では、同じ人が同じ場所へ仕掛けを入れている。釣れていない時間の方が長い。それでも竿を上げる間隔は、譲司より一定だった。
譲司は手を止めた。
水面へ日が当たり始める。風向きが少し変わり、浮きの左側だけ細かな波が増えた。遠くの釣り人が1匹を取り込み、すぐ魚を水へ戻す。その人の位置には日が当たっていた。別の場所では、日陰のままでも浮きが動いている。
人が多い場所。水面の波。日向と日陰。竿の長さ。餌を入れる間隔。
同じ条件は一つもなかった。
譲司は仕掛けを少し手前へ入れた。今度は竿を上げず、浮きの先だけを見る。
小さく沈んだ。
反射的に手首を上げた。
竿先が一度だけ重くなり、すぐ軽くなった。水面に輪が広がる。魚は掛かっていなかった。
「早かった?」
「たぶん」
「どれくらい待つ?」
「分かんない。今のが魚かも分かんない」
佐伯は笑わなかった。自分の浮きがゆっくり横へ動くと、竿を上げた。何も掛かっていない。
「お前も外してる」
「外すよ」
「分かってて上げたのか?」
「上げてから違ったって分かる」
譲司は餌を付け直した。
同じ場所へ入れる。浮きが立つまで待つ。波で上下する幅を見る。日が当たると、細い先端が見えにくくなった。体の位置を少し変える。
しばらくして、浮きが波とは違う速さで1目盛りだけ沈んだ。
譲司はすぐには上げなかった。
もう一度、短く沈む。
竿を上げた。
先が曲がった。水面の下で何かが横へ動く。強く引けば外れる気がして、譲司は腕を止めた。竿のしなりが戻るのを待ち、佐伯に言われた方向へ魚を寄せる。
水面に銀色が見えた。
20センチ台の小さなヘラブナだった。
佐伯が網を出し、魚を受けた。譲司は針を外す手順が分からず、佐伯の指を見た。魚は網の中で体を反らせ、数字に変わらない重さを手へ伝えた。
「1匹」
「うん」
「何回目だった?」
「数えるの、途中でやめただろ」
譲司は返事をしなかった。
魚を水へ戻す。手のひらから重さが消え、池の色へ紛れた。持ち帰らないため、残高のように残る物はなかった。
それでも、釣れた瞬間より、その前に浮きだけを見続けた時間の方が強く残った。何も起きていないように見える間にも、波と風と餌は少しずつ変わっていた。
1匹を釣った後、譲司はすぐ次を狙わなかった。針先を確かめ、崩れた餌を作り直す。釣れた場所へ同じように入れれば、もう1匹来るように思えた。しかし、水面の波はさっきと違い、日向の範囲も広がっていた。再現しようとしても、同じ条件は残っていなかった。
9時を過ぎる頃、佐伯も1匹釣った。譲司より少し大きく見えたが、二人とも長さを測らなかった。佐伯は魚を水へ戻し、濡れた手を布で拭いた。
「記録しないのか?」
「1匹でいいだろ」
「大きさは?」
「測ってない」
「次と比べられない」
「次、同じ魚じゃないよ」
譲司は自分の魚も測っていないことに気づいた。
昼前、二人は竿を置き、温かい缶の飲み物を開けた。日が高くなっても、座ったままでは足先が冷えた。
佐伯は水面を見たまま言った。
「口座、閉じることにした」
「現金にしたままじゃ駄目なのか?」
「画面を開く」
「注文しなければ減らない」
「上がった株を見たら、買わなかった金を計算する」
譲司は缶を持つ手を止めた。
「それは損失じゃない」
「分かってる。お前の表で覚えた」
「なら入れなければいい」
「表に入れなくても、頭で計算する」
「この前の銘柄、条件は悪くなかった」
「なら買えばよかった」
「押せなかった」
佐伯は缶を両手で包んだ。
「3回勝って、読む回数を減らした。4回目も同じだと思った」
「京浜制御機器」
「下がったら1日だけって延ばした。少し戻ったら、延ばして正しかったと思った」
「材料はあった」
「あったんじゃない。残した」
受注、新製品、同業の反発。悪材料には「一時的」「織り込み済み」と書いた。家には、ほとんど変わっていないと答えた。
「上がる理由を調べてるつもりだった。実際は、売らなくていい理由を探してた」
「次は守れる」
「そう思う。でも前もそう思った」
「記録すれば、変えた場所は分かる」
「記録してた僕が変えた」
「変更できないようにすればいい」
「そこまでして続ける理由が、僕にはない」
佐伯は水面へ目を戻した。
「僕は相場を降りる。負けたからじゃない。続けると、自分の見たいものしか見なくなるから」
譲司は、相場を降りろと言われると思った。4,200万円から90万円まで減らした自分へ、同じ判断を求められても不思議ではなかった。
佐伯は何も続けなかった。
「戻る株を見たら後悔する」
「すると思う」
「まだ画面も見る?」
「見るかもしれない」
「それでも閉じる?」
「治ったわけじゃないから閉じる。注文を出せる場所を残さない」
「俺の表は?」
「年末までやる」
「その後は?」
「表は渡す。使うかはお前が決めればいい」
「相場をやめろとは言わないのか?」
「言ってもやめないだろ」
「理由はそれだけか?」
「お前の口座だから」
風が少し強くなり、水面の細かな波が増えた。二人は空になった缶を袋へ入れ、もう一度竿を出した。
譲司は同じ場所へ仕掛けを入れた。
魚も市場も、自分が入った場所へ来る義務はない。反応がない場所へ回数だけ増やしても、投入回数は成果にならない。風、時刻、場所、餌が合っていても、必ず釣れるわけではない。
似ていると思った。
同時に、釣れなくても減るのは餌と時間だけだった。口座残高は減らない。学校を休む理由にも、家族へ損失を隠す理由にもならない。
譲司はその差を考えたが、浮きが小さく動くと、そちらへ意識が戻った。
魚は画面の数字ではなかった。水温、季節、餌、場所で動く実在する物だった。
原油、銅、ゴム、穀物も実在する。工場で使われ、運ばれ、消費される。企業の説明より、何がどれだけ存在し、誰が必要としているかへ近い。
譲司は、商品価格の表に残った空欄を思い出した。限月。受渡し。現物との違い。
空欄があることより、実在する対象を読む方が先に見えた。
「釣れなくても、今日はそれで終われる」
佐伯が言った。
譲司は返事をせず、浮きを見た。
昼前、迎えの車が来た。二人は魚を持ち帰らず、借りた竿と仕掛けを拭いて荷室へ戻した。
帰宅すると、美佐子は玄関へ古いタオルを置いた。
「濡れた物はここ」
「ほとんど濡れてない」
「水辺に置いた物は全部」
遥が竿袋を見た。
「魚は?」
「戻した」
「釣れなかったの?」
「1匹」
「じゃあ、何で持ってこないの?」
「持って帰るための釣りじゃない」
「何それ」
遥は理解できないまま、佐伯が何匹釣ったかを聞いた。譲司が1匹と答えると、勝ち負けが同じでつまらないと言った。
翌日、佐伯は城戸家へ取引履歴を持ってきた。
相場表の23行を、取引番号順に並べる。買付日、売却日、数量、買値、売値、買付手数料、売却手数料、売却後残高。注文を取り消した銘柄や未約定の銘柄は別の表に残し、23取引へ混ぜなかった。
佐伯は1行ずつ数式を確認した。
利益取引 14回。
損失取引 9回。
売買差益合計 2,367,000円。
手数料合計 60,949円。
売買による純増加 2,306,051円。
開始残高122,360円へ純増加を足すと、2,428,411円になる。
運用口座の残高は885,179円だった。
「合わない」
譲司が言う前に、佐伯は別の2行を表示した。
2006年税引当 137,070円。
2007年税引当 1,406,162円。
合計1,543,232円。運用口座885,179円と足すと、2,428,411円になる。
「こっちは口座の外」
「納税に使う金だ」
「だから運用残高へ戻さない」
2008年途中税引当2,782,055円には、分離と全額振替の二つの記録がある。残高は0円。振替そのものによる資産増減も0円だった。
2008年初運用資金14,189,094円から、年末の885,179円を引く。
13,303,915円。
「今年の運用損失」
佐伯は読み上げ、それ以上の数字を続けなかった。
最高残高42,009,644円から現在残高を引けば、別の金額になる。16歳になった朝の122,360円から見れば、運用口座だけでも増えている。税引当を含めれば、また別になる。
どれも計算できた。
利益取引が14回あることも、損失取引が9回しかないことも事実だった。勝った回数の方が多い。それでも後半の1回に置いた金額は、前半の何回分もの利益を消した。佐伯は勝率のセルを作らなかった。
「14勝9敗って書かないのか?」
「必要なら自分で数えられる」
「勝った方が多い」
「残高も見ればいい」
佐伯は行を並べ替えなかった。利益額順にも、損失額順にもせず、注文した日付の順に残した。
計算ミスはなかった。誤発注もない。信用取引、空売り、借金、追加資金もなかった。23回とも自分で書いた条件と、自分で送った注文だった。
佐伯は表の右端へ2列を追加した。
注文なしの日数。
現金比率。
「最後に増やすのか?」
「取引した日だけだと、待った日が消える」
「今まで入れてなかった」
「だから最後に入れる」
譲司は数式を確認した。注文なしの日が多い時期ほど、利益が出たとは限らない。現金比率が高ければ安全だったとも限らない。それでも、注文を出していない状態は記録できる。
美佐子は税引当の封筒と、年間取引報告書を机へ置いた。
「申告するのは譲司本人だからね」
「分かってる」
「私は書類が揃ってるか確認する。税額は申告の時にもう一度確認する」
「途中で戻した分も記録にある」
「ある。だから消さない」
佐伯は自分の口座へログインした。保有株なし、未約定注文なし、現金のみ。残高を紙へ写し、口座閉鎖の手続画面を開いた。
「本当に閉じるのか?」
「うん」
「また必要になったら?」
「必要になった時に考える。今は閉じる」
「見たくならない?」
「なると思う。だから、見ることと注文できることを分ける」
確認項目を読み、送信した。
画面が切り替わるまで、佐伯はマウスから手を離さなかった。譲司は、取り消しのボタンがあるかを探した。処理が終わる前なら戻せる可能性を考えたが、口には出さなかった。自分の口座ではなかった。
処理受付の番号が表示された。佐伯は番号を自分の紙へ書き、譲司の相場表へは入れなかった。
「僕の取引じゃないから」
最初に表を作った時と同じ言葉だった。
年末、美琴から連絡が来た。大学の休みに、以前取材した工場のその後を聞きに行くという。
「1月4日、午後3時。駅前」
「空いてるか聞かないのか?」
「前みたいに、返事がないまま空けておかない」
「市場は休みだ」
「聞いてない。来る?」
「行く」
「無理になったら、前日までに言って。私はその後の予定を入れる」
「分かった」
美琴は延期された3日をなかったことにはしなかった。だから次の日付は、譲司の相場が落ち着く時ではなく、自分で選んだ。
「何するの?」
「取材の整理。譲司は?」
譲司は机の脇に置いた、買ったばかりの安い釣り竿を見た。佐伯の家族から借りた物とは違い、自分の金で買った。運用口座からではなく、家族から受け取っていた小遣いの残りを使った。
「釣り」
「誰と?」
「佐伯」
「また行くの?」
「行くと思う」
「そう」
美琴は相場の話をしなかった。譲司も工場名を銘柄へ変えなかった。過去を消す言葉はなく、次の予定だけを決めた。
12月31日。市場は休みに入っていた。
譲司は値上がり率ランキングを開いた。低位株が1銘柄、前営業日から大きく上がっている。材料を読み、相場表へ銘柄名を入れた。
市場全体。
業種。
資金流入。
三つの欄を埋められなかった。
数量欄へは進まない。
注文状態へ「なし」と入力した。
商品価格の観察表も開いた。原油、銅、ゴム、穀物。限月と受渡しの欄は空白だった。表を削除せず、年末の行へ「取引なし」と書く。
机の脇には新しい釣り竿が立て掛けてある。
佐伯は口座を閉じた。譲司は、ノートを閉じなかった。
【今回の運用資産推移】
開始時:885,179円
終了時:885,179円
増減額:0円
増減率:0.00%
取引回数:23回