初めは転生要素が薄いです。
四百八十億円――三十四歳
「純資産が480億円を超えました」
片桐修平の声は、電話の向こうでも平らだった。城戸譲司がまだ小さな口座で売買していた頃から、片桐は利益を祝う前に余力を確認した。大口顧客になった後も態度は変わらず、呼び方も「城戸さん」のままだった。
証券会社では、個人顧客の担当だけで完結する口座ではなくなっていた。注文量と建玉の偏りは、法人の運用口座と同じ管理部門まで共有される。それでも、最終判断を下すのは城戸譲司一人だった。
譲司は通話を切らず、4台のモニターの中央を見た。
純資産 48,037,820,000円
数字が一度だけ明滅した。保有している建玉を現在の価格で評価し、現金と合わせた金額だった。全て確定した利益ではない。それでも、画面に表示された以上、譲司には自分の金に見えた。
部屋には拍手も歓声もなかった。机の端には、朝に開けた水と、口をつけた形跡のないコーヒーが置かれている。冷房の音と、注文が成立するたびに鳴る短い通知音だけが続いていた。
モニターを4台より増やさないことを、譲司は自制だと考えていた。中央に建玉と資産。左に指数、先物、為替。右に業種別の強弱と売買代金。端にニュースと海外市場。必要な情報は全て収まっている。画面を増やしても、判断まで正しくなるわけではない。
15歳の頃は、テレビに映った6台のモニターを成功そのものだと思っていた。今は4台で十分だった。十分という言葉を、譲司は画面の枚数にしか使っていなかった。
2024年8月。午前10時を少し過ぎていた。市場は朝から下がっていた。ただし、指数だけを見れば急落には見えない。少数の大型株が平均値を支える一方で、画面に並ぶ会社の多くは先に売られていた。
グロース市場は数週間前から弱い。そこから抜けた金は大型株へ移り、次に銀行や高配当株へ向かった。だが、どの業種でも買いは長く続かなかった。資金の逃げ先が一つずつ消え、最後に指数が下落へ追いついた。
譲司が重く見たのは、悪いニュースではない。好決算を発表した半導体株が、寄り付きの高値を保てなかった。増配を出した商社株も、朝の買いが途切れると前日終値を割った。銀行株は指数より先に安値を更新した。
良い材料が出ても上がらない。買う理由が残っているのに、買う人間が減っていた。譲司は数週間前から、値下がりすると利益が出る売り建玉を作っていた。最初は指数先物を小さく売った。半導体の主力株が好材料でも戻れないことを確認して数量を増やし、商社と銀行へ弱さが広がった後は個別株にも売りを入れた。
利益になっている建玉だけを残し、想定と違ったものは閉じた。数量、業種の重なり、売買代金、買い戻す時の流動性も計算してある。朝までの建玉に、無理はなかった。480億円は偶然ではない。そう示せる記録も残っていた。
そこまでは、規則どおりだった。
「指数先物を30%、今のうちに買い戻してください」
「まだ早い」
「早いかどうかを相談しているのではありません。残す量の話です」
「売りは終わっていない」
「その判断は否定しません。全部残す理由にもなりません」
譲司は中央の数字から目を離さなかった。
純資産 48,118,640,000円
指数の1分足が安値を割った。売り建玉の利益が増え、純資産が更新された。30%を閉じても、下落の利益は十分に残る。反発した時に失う金額だけを減らせる。片桐の提案は、相場の底を当てる話ではなかった。
正しい話だった。正しいからこそ、今は聞きたくなかった。
「今日の安値が底になる理由はない」
「底である必要はありません。反発すれば、今朝までの利益が同じ方向から削られます」
「買い戻したい連中が多いだけだ」
「その買い戻しが、城戸さんの売り建玉にも来ます」
片桐は怒鳴らない。必要な数字を一度伝え、拒まれた時だけ説明を増やす。譲司は、その変化が警告の強さを示すことを知っていた。
別回線の着信が点滅した。海外の証券会社だった。譲司は取らなかった。ニュースも、他人の相場観も、今は必要ない。
そう整理した後で、別の理由が残った。反対意見を増やしたくなかった。
「城戸さん」
「何だ」
「今日は正しかった。……それを明日まで証明する必要はありません」
マウスに置いた右手が止まった。
「一部を持ち帰ってください」
片桐は利益確定を、時々そう呼んだ。持ち帰る。譲司には小さすぎる言葉だった。480億円を持ち帰れる場所などない。
家族の生活資金、納税資金、長期保有する資産は、裁量取引の口座から分けてある。今日の建玉が失敗しても、父や母や妹が住む場所を失うことはない。その仕組みを作るまでに、譲司は何度も壊れた。
父は今でも、株を仕事と呼びたがらない。母は利益額より先に税金と睡眠を確認する。妹は資産を聞いても、最後に食事の話へ戻す。
以前は、その反応が自分の成功を軽く扱っているように見えた。今は、数字から離れた場所が家族を守っていると分かる。分かっていることと、自分もそこへ戻れることは同じではなかった。
1億円を超えた時は、注文後に手が震えた。10億円を超えた夜は眠れなかった。100億円を超えた時には、何も感じないことを確認するため、何度も残高を開き直した。
200億円を超えた頃から、金額そのものを見なくなった。前回の最高値との差だけを見るようになった。今は480億円が通過点に見えている。机の右端には、薄いラミネートで覆った紙が1枚置かれていた。持ち歩いた時期が長く、四隅が白くなっている。利益が急増した日は、新しい建玉を作らない。
大きく勝った日は、市場ではなく自分が万能に見える。その日は数量を増やさない。譲司自身が書いた規則だった。
過去に大きく勝った翌日、同じ速度で増やせると思い、数量を上げて失った。その取引を記録し、文章へ直し、後に会社の内部規則へ入れた。片桐も、管理部門の黒崎も内容を知っている。
ただし、最終承認権は譲司に残されていた。規則を作った本人なら、適用外の局面も判断できる。そう主張したのは譲司だった。自分を止めるための規則なのに、解除できる人間も自分だけだった。抜け道は、作った時から残っていた。
右の画面で、大型株が新安値をつけた。数週間前に強気の見通しを発表した会社だった。材料が変わっていないのに、買いは続かない。市場の弱さは終わっていない。譲司は注文画面を開いた。
買い戻しではなかった。新しい売り注文だった。
「城戸さん……何を開きました」
「新規だ」
「閉じてください」
「既存の建玉とは別の銘柄だ」
「銘柄名は別でも、反発した時の損失は同じ方向です」
譲司は数量欄へ数字を入力した。指数と同じ方向へ動きやすい大型株を、業種をまたいで売る。既存の指数先物、個別株、プットと利益の出る条件が重なっていた。下がれば全て利益になる。反発すれば全て同時に削られる。
「今日、新しい建玉を作らない。それが規則です」
「今日は、普通の日じゃない」
片桐が数秒黙った。
「規則を外す理由として、何度も聞いた言葉です」
「俺が作った規則だ」
「だから、私が代わりに守ることはできません」
譲司は返事をしなかった。机の端にある規則の紙を裏返す。白い面が上になり、文章が見えなくなった。
規則は消えていない。見えなくしただけだった。
確認ボタンを押した。短い通知音が鳴り、一部約定と表示された。売り注文の一部が市場で成立した。
純資産は483億円を超えた。500億円まで、17億円を切った。
前日までなら遠い数字だった。だが、今日の値動きの中では、もう一段下がれば届く場所に見えた。480億円と500億円で生活は変わらない。できることも、必要な物も増えない。
数字に意味はなかった。届く可能性だけがあった。そこで退くことは、自分の判断を途中で疑うことに思えた。利益を増やしたいのではない。最後まで正しかったことにしたかった。
「注文を確認しました」
片桐の声から、交渉の余地が消えた。
「危険性を説明した記録を残します。反発した場合は、こちらから連絡します」
「必要ない」
「必要かどうかは私が判断します」
通話が切れた。市場は引けまで下がり続けた。テレビは歴史的暴落と伝え、専門家は想定外という言葉を繰り返した。譲司は音を消したまま、約定履歴だけを見た。
規則を守って作った利益と、規則を破って増やした建玉が同じ一覧に並んでいた。画面上では区別されない。どちらも同じ損益として加算される。違うのは、注文した理由だけだった。
利益が増えている間、その違いを問題にする人間は少ない。追加した建玉まで利益になれば、規則を外した判断も正しかったことになる。譲司にとって都合のよい結果だった。だから、起こる前から信じられた。
夜、取引会社のリスク管理システムから警告が届いた。個別株、指数先物、プットを別々に見るのではなく、一つの大きな下落方向の建玉として計算すると、急反発時の損失が数十億円に達する。画面には、過去の急落後に起きた最大級の反発を当てはめた試算が表示された。譲司は条件を確認し、警告を閉じた。
過去と現在は同じではない。今は売りの流れが続いている。好材料にも反応せず、逃げ先も残っていない。判断には根拠があった。
ただし、その根拠は下落が続く可能性だけを説明していた。急落の後に買い戻しが集中する可能性までは消していない。譲司は後半を、古いデータの欠点として処理した。
午前2時を過ぎた頃、海外の指数先物が反発し始めた。最初の上昇は小さかった。急落後の買い戻しなら珍しくない。譲司は椅子に座ったまま、前日安値との距離を測った。
午前3時、上昇幅が広がった。売られていた銀行と半導体へ買いが戻った。午前4時、為替が円安方向へ動いた。午前5時、先物は東京市場の終値を大きく上回った。
譲司は窓を開けた。夏の湿った空気が入り、遠くで車の走る音がした。市場が反発しても、街は決められた時間に朝へ向かう。取引室の外では、何も失われていなかった。その事実だけが、画面の中にいる自分をはっきりさせた。
純資産は450億円を割っていた。電話が鳴った。片桐だった。
一度目は取らなかった。二度目も着信表示を見送った。三度目で通話ボタンを押した。
「寄り付き前に買い戻してください」
「一時的な反発だ」
「その可能性はあります」
「なら残す」
「一時的でも、今の数量なら口座を壊せます」
「昨日の売りが1日で終わるはずがない」
「相場は、昨日の説明に責任を持ちません」
純資産は430億円台へ落ちていた。東京市場はまだ始まっていない。
譲司は買い戻し画面を開いた。全て閉じても、巨額の利益が残る。480億円には戻らないが、規則どおり作った利益の大半は守れる。昨日の新規建玉だけを閉じる方法もあった。
片桐が求めているのは、相場観の敗北を認めることではない。規則を破って増やした危険だけを消すことだった。数量を入力し、確認ボタンへカーソルを合わせた。押せば終わる。
だが、画面は一度48,000,000,000円を超えた。譲司自身も見た。見た後で、それより小さい数字を成功と呼ぶことができなかった。買い戻せば、利益は残る。同時に、480億円へ届いた後の自分が間違っていたと確定する。
譲司は注文画面を閉じた。寄り付き前の気配が切り上がった。前日まで売り気配だった銘柄が、次々に買い気配へ変わる。売り方の買い戻しと、安値を待っていた買い注文が薄い板へ集中していた。午前8時59分。
「城戸さん。今、閉じてください」
譲司は答えなかった。午前9時。東京市場が始まった。指数が跳ねた。
420億円。
410億円。
403億円。
397億円。
純資産が400億円を割るまで、1分もかからなかった。マウスの上で右手が動かない。人差し指と親指だけが、無意識に擦れた。細長い紙をつまみ、誰かへ送るような動きだった。
注文の通知音が一度鳴った。電子音の奥で、木の台へ紙を打ちつける乾いた音が重なった。次の瞬間には消えていた。
画面の数字は、まだ開始時より大きい。金額だけを見れば、譲司は勝っている。それでも、480億円から減った分は全て損失に見えた。最高値から失った金額と、自分の正しさが同じ速度で削られていく。
金を失うのが怖いのではなかった。480億円に届いた自分が、間違っていたことになるのが怖かった。電話の向こうで片桐が何かを言っている。言葉は意味になる前に消えた。4台のモニターへ、別の光景が重なった。
古い2階建ての家。少し焦げた焼き魚。缶ビールを開ける父親。理屈の通らないことを平然と言う妹。テレビの中で6台のモニターに囲まれた、名前も知らない若い男。
城戸譲司が相場を知った夜、彼は15歳だった。口座はない。規則もない。前世の断片が何を意味するのかも知らない。自分で自由に使える金は38,620円。
机の上には、まだ何も書かれていないノートが1冊あった。