第一話 始まりはテレビの男から
焼き魚の皮が、端だけ黒く焦げていた。父の誠一は気にせず食べた。母の美佐子は、醤油差しへ伸びた誠一の手より先に小皿を置いた。小学5年生の妹、遥は魚の骨を皿の端へ並べ、長さの違う2本を入れ替えている。
「それ、逆」
「何が?」
「短い方が前にある」
「背の順じゃないよ。強そうな順」
「骨の強さなんて分からないだろ」
「太い方が強い」
「じゃあ長さは関係ない」
「お兄ちゃん、細かい!」
譲司が太さの順へ並べ直すと、遥は声を立てて笑った。城戸家の夕食は、だいたい同じ時刻に始まる。誠一は仕事の話を家へ持ち込まず、美佐子は食卓で家計簿を開かない。遥だけが毎日違うことを始め、譲司はそれを訂正する。変化の少ない時間だった。譲司は嫌いではなかった。テレビの中で、見慣れない桁の数字が表示されるまでは。
「これ、年末のやつか」
誠一が缶ビールを開けた。画面では、前年末に起きた株式注文の事故を特集していた。証券会社の担当者が、値段と株数を逆に入力した。すぐに取り消そうとしたが間に合わず、会社には数百億円規模の損失が出たという。アナウンサーは落ち着いた声で説明している。数字だけが内容に合っていなかった。
「数百億円って、家を何軒買える?」
遥が聞いた。
「この家の値段を知らない」
「えー、だいたいでいいよ」
「だいたいで何百軒もずれる」
「何百軒も買えるなら、もういっぱいじゃん」
遥の中では計算が終わったらしい。譲司には終わらなかった。父が工場へ通って得る給料。母が買い物を変えて残す数百円。自分が正月から使わずに置いてある紙幣。家の中の金は、時間か我慢と結びついている。テレビの金は、一度の入力でそのつながりを飛び越えた。
「打ち間違えただけで、そんなに払うの?」
「間違いで済まない金額ってことだろ」
「間違えた人が払うの?」
「払えるわけない」
誠一の返事は短かった。最後だけ、少し強かった。番組は、間違った注文を買った側へ話を移した。国内の証券会社、海外の投資会社、複数の大口投資家。会社名の字幕が続いた後、肩書のない若い男が映った。自宅らしい部屋だった。机の上と周囲に6台のモニターが置かれ、どの画面にも数字や折れ線が並んでいる。背広も、社章も、社員証もない。若い男は記者の質問へ答えながら、何度も画面へ視線を戻した。
「この人はどこの会社?」
「個人投資家だ」
「会社じゃないの?」
「自分の金でやってるんだろ」
「1人なのに、個人って書くの?」
「会社と区別するためだ」
「会社が間違えて、1人の人が儲かったの?」
遥は誠一へ聞いたが、誠一はテレビから目を離さなかった。
「人の失敗を拾っただけだ」
「拾ったら返さなくていいの?」
「落とし物じゃない」
譲司は味噌汁の椀を置いた。画面に、若い男がその日売買した株数と利益が出た。譲司は右端から桁を数えた。途中で分からなくなり、最初から数え直した。数字は変わらない。誠一が何十年働いても届くか分からない金額だった。男は笑っていなかった。驚いた様子もない。記者が利益の感想を尋ねても、答えは短く、目はすぐにモニターへ戻る。
「……何で喜ばないの?」
遥が言った。誰も答えなかった。番組は別の日の映像を流した。今度は男の保有株が下がり、何千万円という数字が減っていく。男は机を叩かず、画面を確認して注文を出した。右手が動く。数字が変わる。また右手が動く。譲司には、6台の画面が別々のものに見えなかった。一つが動くと、別の場所が変わる。どの数字を先に見るのか、なぜ今注文したのかは分からない。それでも、男だけは順番を知っているように見えた。
その右手を見た瞬間、音が重なった。かたかたと、細い紙が機械から送られる。男たちが数字を叫んでいる。靴音が硬い床へぶつかる。黒板を擦る乾いた音がした。譲司の箸が膝へ落ちた。
「お兄ちゃん、魚逃げたの?」
「逃げてない」
「箸は逃げたよ」
「洗ってきなさい」
美佐子に言われ、譲司は箸を拾った。台所で水を流す。テレビには6台のモニターと若い男しか映っていない。紙を送る機械も、黒板も、数字を叫ぶ人間もいない。水を止めると、聞こえていた音も消えた。
「手、どうかした?」
美佐子が新しい箸を持ってきた。
「何も」
「顔が白いよ」
「水が冷たかった」
「手しか洗ってないのに?」
遥が台所までついてきていた。
「冷たいものは冷たい」
「答えになってない」
譲司は返事をせず、席へ戻った。美佐子は右手を見たが、問い直さなかった。テレビでは、記者が男へ「もう働かなくても暮らせるのではないか」と聞いている。男は否定した。理由はほとんど話さず、画面へ戻った。
「欲張りだな」
誠一が言った。譲司は男の顔を見た。金を使いたい人間の顔には見えない。数字の中にある何かを見つけるまで、席を離れられない顔だった。去年、居間の扇風機が動かなくなった時、誠一は似た顔をしていた。羽を外し、焦げた匂いを確かめ、手で回転軸を動かした。美佐子が買い替えようと言っても、原因が分かるまで返事をしなかった。
「父さん」
「何だ」
「扇風機を直した時、何から見た?」
「音だ。次に熱を持ってる場所」
「説明書は?」
「後だ。原因が分からなきゃ、読んでも仕方ない」
誠一は答えた後、譲司が見ている先へ気づいた。
「一緒じゃないぞ」
「まだ何も言ってない」
「言おうとしただろ」
若い男は、数字の中で故障箇所を探しているように見えた。番組が終わり、誠一はチャンネルを変えた。野球のキャンプ情報に切り替わる。さっきまで数百億円が表示されていた画面で、選手がタイヤを引いて走っている。
「腰が浮いてる。あれじゃ意味ないぞ」
「父さん、監督なの?」
「見れば分かる」
「へえ、何でも見れば分かるんだね」
遥が笑った。誠一は缶ビールを飲み、聞こえなかったことにした。テレビは次の話題へ進んだ。譲司の中では、6台のモニターが消えなかった。
「株って、中学生でもできる?」
誠一の缶が口元で止まった。
「できない」
「何歳から?」
「知らん」
「知らないなら、できないかも分からないだろ」
「学生がやるものじゃないという話だ」
「口座を作れるか聞いてる」
「作ってどうする」
「調べる」
「入試を先に調べろ」
誠一はテレビへ顔を戻した。話を終わらせる時の動きだった。譲司は缶の横にある競馬新聞を見た。馬の名前へ赤い丸が三つ付いている。
「父さんは競馬を調べてる」
「俺は働いてる」
「働けば博打をしていいのか」
「競馬は小遣いの範囲だ」
「先週は範囲を超えたんでしょう」
美佐子が皿を重ねながら言った。誠一は競馬新聞を半分に折った。
「譲司。楽して金を稼ぐことばかり考えるな」
「まだ稼ぐ方法も知らない」
「なら知らなくていい」
「父さんも知らないだろ」
「俺には、失敗した時に助けられん」
誠一の声が下がった。
「テレビみたいな金を使うつもりはない」
「金額の話じゃない。そんなものでお前が壊れても、俺には直せん」
譲司は黙った。工場の機械なら、誠一は故障箇所を探せる。株については、最初から手を出すなとしか言えない。その違いが、誠一を苛立たせているように見えた。美佐子が空いた皿を持ち上げた。
「それで、本当にやりたいの?」
「分からない」
「何が?」
「仕組みも知らないのに、やりたいかは決められない」
「それなら、仕組みだけ調べなさい」
「美佐子」
「口座を作るとも、お金を出すとも言ってないでしょう」
誠一は美佐子を見た。
「調べたら、余計にやりたくなる」
「知らないまま禁止したら、隠れて調べるよ」
「今も調べる気だろ」
「だから隠させないの」
遥が骨を並べ終えた皿を持ち上げた。
「えー、無料ならいいじゃん」
「無料のものほど後で金がかかる」
「競馬新聞は最初からお金かかってるよ」
「遥!」
「はーい」
遥は返事だけ伸ばし、台所へ逃げた。譲司は食卓でそれ以上質問しなかった。誠一も、もう「できない」とは言わなかった。2階の自室へ戻ると、高校入試の過去問題集が机に開いたまま残っていた。印を付けた問題が2問ある。隣の部屋では、遥がテレビゲームを始め、失敗するたびに同じ短い音が鳴った。譲司が1問目を解き終えたところで、扉が開いた。
「お兄ちゃん、ここだけお願い!」
「受験中」
「株は調べるのに?」
「食卓の話を全部聞いてたのか」
「同じテーブルにいたよ」
遥がゲーム機を差し出した。譲司は画面を見た。遥は敵を全部倒してから穴を飛び越えようとして、毎回時間が足りなくなっている。
「先に飛ぶ」
「敵が残るよ」
「飛びながら倒す」
「危なくない!?」
「同じ順番で3回失敗しただろ」
譲司が一度だけ操作すると、画面の先へ進んだ。
「お兄ちゃん、こういうのは早いね」
「こういうのって何だよ」
「何回も同じのを見るやつ」
遥は満足して部屋を出た。譲司は少し笑い、過去問題集へ戻った。2問目の途中で符号を間違えた。答え合わせをして赤線を引き、そこで問題集を閉じた。父のお下がりのノートパソコンを机の中央へ置く。角が欠けた灰色の本体は、電源を入れてから画面が出るまで2分近くかかった。起動を待つ間、机の隅に積んだ図書館の本をそろえる。科学読み物、事件記録、野球選手の記録集。数字の多い本ほど返却期限ぎりぎりまで手元に残った。相場の本は1冊もない。図書館のどの棚に置かれているかも知らなかった。今夜まで、借りる理由がなかった。知らない分野は、入口の場所から探さなければならない。
検索することまでは、父にも止められていない。画面が明るくなると、検索欄へ入力する。未成年 株 口座
証券会社の案内が並んだ。未成年でも口座は作れる。ただし、親権者の同意が必要だった。会社によっては、親も同じ証券会社の口座を持たなければならない。取引できる商品にも制限がある。父の「できない」は、制度ではなく意見だった。譲司は大学ノートを1冊出した。学校でもらったまま、一度も使っていないものだった。最初のページへ書く。
未成年口座。
親権者の同意。
現物取引。
手数料。
売買単位。
売買単位で鉛筆が止まった。1株500円と表示されていても、1株だけ買えるとは限らない。1,000株単位なら、必要なのは500,000円になる。譲司はノートへ式を書いた。
500円×1,000株=500,000円
計算は正しい。自分の金では足りない。引き出しを開けた。財布、正月にもらった金を入れている菓子の缶、小銭をためた透明な箱を机へ出す。紙幣をそろえ、小銭を種類ごとに分けた。最初の合計を書き、もう一度数える。
38,620円。遥の欲しがっているゲームなら何本か買える。家族4人で外食しても、1回ではなくならない。中学生が自由に使える金としては少なくない。500,000円と比べれば、最初の注文にも届かない。同じ金額が、比べる対象だけで急に小さくなった。譲司は38,620円を丸で囲んだ。
右手の親指と人差し指が、鉛筆から離れた。かたかたと紙が送られる。男たちの声。靴音。黒板を擦る音。細長い紙をつまみ、誰かへ渡す右手が見えた。節が太く、爪の脇が薄く汚れている。譲司の手ではない。それなのに、紙の乾いた感触だけが自分の指へ残った。視界が机へ戻る。右手には鉛筆があり、親指の横に黒い芯の粉が付いていた。譲司は親指と人差し指を擦った。何もない。
「何だ、これ」
隣の部屋から、遥がゲームを突破して喜ぶ声がした。階下では誠一が野球選手のフォームへ文句を言い、美佐子が食器を重ねている。家の中は変わっていない。譲司はノートへ視線を戻した。書き写した言葉の上に、題名を付けようとした。
株の勉強。
投資の記録。
金を増やす方法。
どれも、テレビで見たものを説明できなかった。番組で繰り返されていた言葉を書く。相場
人が買い、人が売る。その結果として数字が動く。会社の出来事だけでなく、それを見た人間の動きまで画面へ表れるらしい。今の譲司に分かるのは、その程度だった。初めて書いた2文字なのに、鉛筆は迷わなかった。その下へ、38,620円と書く。続けて、今夜分かったことを並べた。
未成年でも口座は作れる。
親権者の同意が必要。
自分の金だけでは足りない。
1人で始められると思った世界は、入口から家族につながっていた。譲司は最後に、明日調べることを書いた。必要な金額。口座の条件。買える株。画面を閉じた時、日付は変わっていた。
株は1株も持っていない。注文の出し方も知らない。ただ、次に何を調べるかだけは決まっていた。
【今回の運用資産推移】
開始時:38,620円
終了時:38,620円