相場師は欲望から降りられない   作:山崎春のパン祭り

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初めは転生要素が薄いです。


第一部「名前のない男」(15歳)
第一話 始まりはテレビの男から


 焼き魚の皮が、端だけ黒く焦げていた。父の誠一は気にせず食べた。母の美佐子は、醤油差しへ伸びた誠一の手より先に小皿を置いた。小学5年生の妹、遥は魚の骨を皿の端へ並べ、長さの違う2本を入れ替えている。

 

「それ、逆」

「何が?」

「短い方が前にある」

「背の順じゃないよ。強そうな順」

「骨の強さなんて分からないだろ」

「太い方が強い」

「じゃあ長さは関係ない」

「お兄ちゃん、細かい!」

 

 譲司が太さの順へ並べ直すと、遥は声を立てて笑った。城戸家の夕食は、だいたい同じ時刻に始まる。誠一は仕事の話を家へ持ち込まず、美佐子は食卓で家計簿を開かない。遥だけが毎日違うことを始め、譲司はそれを訂正する。変化の少ない時間だった。譲司は嫌いではなかった。テレビの中で、見慣れない桁の数字が表示されるまでは。

 

「これ、年末のやつか」

 

 誠一が缶ビールを開けた。画面では、前年末に起きた株式注文の事故を特集していた。証券会社の担当者が、値段と株数を逆に入力した。すぐに取り消そうとしたが間に合わず、会社には数百億円規模の損失が出たという。アナウンサーは落ち着いた声で説明している。数字だけが内容に合っていなかった。

 

「数百億円って、家を何軒買える?」

 

 遥が聞いた。

 

「この家の値段を知らない」

「えー、だいたいでいいよ」

「だいたいで何百軒もずれる」

「何百軒も買えるなら、もういっぱいじゃん」

 

 遥の中では計算が終わったらしい。譲司には終わらなかった。父が工場へ通って得る給料。母が買い物を変えて残す数百円。自分が正月から使わずに置いてある紙幣。家の中の金は、時間か我慢と結びついている。テレビの金は、一度の入力でそのつながりを飛び越えた。

 

「打ち間違えただけで、そんなに払うの?」

「間違いで済まない金額ってことだろ」

「間違えた人が払うの?」

「払えるわけない」

 

 誠一の返事は短かった。最後だけ、少し強かった。番組は、間違った注文を買った側へ話を移した。国内の証券会社、海外の投資会社、複数の大口投資家。会社名の字幕が続いた後、肩書のない若い男が映った。自宅らしい部屋だった。机の上と周囲に6台のモニターが置かれ、どの画面にも数字や折れ線が並んでいる。背広も、社章も、社員証もない。若い男は記者の質問へ答えながら、何度も画面へ視線を戻した。

 

「この人はどこの会社?」

「個人投資家だ」

「会社じゃないの?」

「自分の金でやってるんだろ」

「1人なのに、個人って書くの?」

「会社と区別するためだ」

「会社が間違えて、1人の人が儲かったの?」

 

 遥は誠一へ聞いたが、誠一はテレビから目を離さなかった。

 

「人の失敗を拾っただけだ」

「拾ったら返さなくていいの?」

「落とし物じゃない」

 

 譲司は味噌汁の椀を置いた。画面に、若い男がその日売買した株数と利益が出た。譲司は右端から桁を数えた。途中で分からなくなり、最初から数え直した。数字は変わらない。誠一が何十年働いても届くか分からない金額だった。男は笑っていなかった。驚いた様子もない。記者が利益の感想を尋ねても、答えは短く、目はすぐにモニターへ戻る。

 

「……何で喜ばないの?」

 

 遥が言った。誰も答えなかった。番組は別の日の映像を流した。今度は男の保有株が下がり、何千万円という数字が減っていく。男は机を叩かず、画面を確認して注文を出した。右手が動く。数字が変わる。また右手が動く。譲司には、6台の画面が別々のものに見えなかった。一つが動くと、別の場所が変わる。どの数字を先に見るのか、なぜ今注文したのかは分からない。それでも、男だけは順番を知っているように見えた。

 その右手を見た瞬間、音が重なった。かたかたと、細い紙が機械から送られる。男たちが数字を叫んでいる。靴音が硬い床へぶつかる。黒板を擦る乾いた音がした。譲司の箸が膝へ落ちた。

 

「お兄ちゃん、魚逃げたの?」

「逃げてない」

「箸は逃げたよ」

「洗ってきなさい」

 

 美佐子に言われ、譲司は箸を拾った。台所で水を流す。テレビには6台のモニターと若い男しか映っていない。紙を送る機械も、黒板も、数字を叫ぶ人間もいない。水を止めると、聞こえていた音も消えた。

 

「手、どうかした?」

 

 美佐子が新しい箸を持ってきた。

 

「何も」

「顔が白いよ」

「水が冷たかった」

「手しか洗ってないのに?」

 

 遥が台所までついてきていた。

 

「冷たいものは冷たい」

「答えになってない」

 

 譲司は返事をせず、席へ戻った。美佐子は右手を見たが、問い直さなかった。テレビでは、記者が男へ「もう働かなくても暮らせるのではないか」と聞いている。男は否定した。理由はほとんど話さず、画面へ戻った。

 

「欲張りだな」

 

 誠一が言った。譲司は男の顔を見た。金を使いたい人間の顔には見えない。数字の中にある何かを見つけるまで、席を離れられない顔だった。去年、居間の扇風機が動かなくなった時、誠一は似た顔をしていた。羽を外し、焦げた匂いを確かめ、手で回転軸を動かした。美佐子が買い替えようと言っても、原因が分かるまで返事をしなかった。

 

「父さん」

「何だ」

「扇風機を直した時、何から見た?」

「音だ。次に熱を持ってる場所」

「説明書は?」

「後だ。原因が分からなきゃ、読んでも仕方ない」

 

 誠一は答えた後、譲司が見ている先へ気づいた。

 

「一緒じゃないぞ」

「まだ何も言ってない」

「言おうとしただろ」

 

 若い男は、数字の中で故障箇所を探しているように見えた。番組が終わり、誠一はチャンネルを変えた。野球のキャンプ情報に切り替わる。さっきまで数百億円が表示されていた画面で、選手がタイヤを引いて走っている。

 

「腰が浮いてる。あれじゃ意味ないぞ」

「父さん、監督なの?」

「見れば分かる」

「へえ、何でも見れば分かるんだね」

 

 遥が笑った。誠一は缶ビールを飲み、聞こえなかったことにした。テレビは次の話題へ進んだ。譲司の中では、6台のモニターが消えなかった。

 

「株って、中学生でもできる?」

 

 誠一の缶が口元で止まった。

 

「できない」

「何歳から?」

「知らん」

「知らないなら、できないかも分からないだろ」

「学生がやるものじゃないという話だ」

「口座を作れるか聞いてる」

「作ってどうする」

「調べる」

「入試を先に調べろ」

 

 誠一はテレビへ顔を戻した。話を終わらせる時の動きだった。譲司は缶の横にある競馬新聞を見た。馬の名前へ赤い丸が三つ付いている。

 

「父さんは競馬を調べてる」

「俺は働いてる」

「働けば博打をしていいのか」

「競馬は小遣いの範囲だ」

「先週は範囲を超えたんでしょう」

 

 美佐子が皿を重ねながら言った。誠一は競馬新聞を半分に折った。

 

「譲司。楽して金を稼ぐことばかり考えるな」

「まだ稼ぐ方法も知らない」

「なら知らなくていい」

「父さんも知らないだろ」

「俺には、失敗した時に助けられん」

 

 誠一の声が下がった。

 

「テレビみたいな金を使うつもりはない」

「金額の話じゃない。そんなものでお前が壊れても、俺には直せん」

 

 譲司は黙った。工場の機械なら、誠一は故障箇所を探せる。株については、最初から手を出すなとしか言えない。その違いが、誠一を苛立たせているように見えた。美佐子が空いた皿を持ち上げた。

 

「それで、本当にやりたいの?」

「分からない」

「何が?」

「仕組みも知らないのに、やりたいかは決められない」

「それなら、仕組みだけ調べなさい」

「美佐子」

「口座を作るとも、お金を出すとも言ってないでしょう」

 

 誠一は美佐子を見た。

 

「調べたら、余計にやりたくなる」

「知らないまま禁止したら、隠れて調べるよ」

「今も調べる気だろ」

「だから隠させないの」

 

 遥が骨を並べ終えた皿を持ち上げた。

 

「えー、無料ならいいじゃん」

「無料のものほど後で金がかかる」

「競馬新聞は最初からお金かかってるよ」

「遥!」

「はーい」

 

 遥は返事だけ伸ばし、台所へ逃げた。譲司は食卓でそれ以上質問しなかった。誠一も、もう「できない」とは言わなかった。2階の自室へ戻ると、高校入試の過去問題集が机に開いたまま残っていた。印を付けた問題が2問ある。隣の部屋では、遥がテレビゲームを始め、失敗するたびに同じ短い音が鳴った。譲司が1問目を解き終えたところで、扉が開いた。

 

「お兄ちゃん、ここだけお願い!」

「受験中」

「株は調べるのに?」

「食卓の話を全部聞いてたのか」

「同じテーブルにいたよ」

 

 遥がゲーム機を差し出した。譲司は画面を見た。遥は敵を全部倒してから穴を飛び越えようとして、毎回時間が足りなくなっている。

 

「先に飛ぶ」

「敵が残るよ」

「飛びながら倒す」

「危なくない!?」

「同じ順番で3回失敗しただろ」

 

 譲司が一度だけ操作すると、画面の先へ進んだ。

 

「お兄ちゃん、こういうのは早いね」

「こういうのって何だよ」

「何回も同じのを見るやつ」

 

 遥は満足して部屋を出た。譲司は少し笑い、過去問題集へ戻った。2問目の途中で符号を間違えた。答え合わせをして赤線を引き、そこで問題集を閉じた。父のお下がりのノートパソコンを机の中央へ置く。角が欠けた灰色の本体は、電源を入れてから画面が出るまで2分近くかかった。起動を待つ間、机の隅に積んだ図書館の本をそろえる。科学読み物、事件記録、野球選手の記録集。数字の多い本ほど返却期限ぎりぎりまで手元に残った。相場の本は1冊もない。図書館のどの棚に置かれているかも知らなかった。今夜まで、借りる理由がなかった。知らない分野は、入口の場所から探さなければならない。

 検索することまでは、父にも止められていない。画面が明るくなると、検索欄へ入力する。未成年 株 口座

 証券会社の案内が並んだ。未成年でも口座は作れる。ただし、親権者の同意が必要だった。会社によっては、親も同じ証券会社の口座を持たなければならない。取引できる商品にも制限がある。父の「できない」は、制度ではなく意見だった。譲司は大学ノートを1冊出した。学校でもらったまま、一度も使っていないものだった。最初のページへ書く。

 未成年口座。

 親権者の同意。

 現物取引。

 手数料。

 売買単位。

 売買単位で鉛筆が止まった。1株500円と表示されていても、1株だけ買えるとは限らない。1,000株単位なら、必要なのは500,000円になる。譲司はノートへ式を書いた。

 

 500円×1,000株=500,000円

 

 計算は正しい。自分の金では足りない。引き出しを開けた。財布、正月にもらった金を入れている菓子の缶、小銭をためた透明な箱を机へ出す。紙幣をそろえ、小銭を種類ごとに分けた。最初の合計を書き、もう一度数える。

 38,620円。遥の欲しがっているゲームなら何本か買える。家族4人で外食しても、1回ではなくならない。中学生が自由に使える金としては少なくない。500,000円と比べれば、最初の注文にも届かない。同じ金額が、比べる対象だけで急に小さくなった。譲司は38,620円を丸で囲んだ。

 右手の親指と人差し指が、鉛筆から離れた。かたかたと紙が送られる。男たちの声。靴音。黒板を擦る音。細長い紙をつまみ、誰かへ渡す右手が見えた。節が太く、爪の脇が薄く汚れている。譲司の手ではない。それなのに、紙の乾いた感触だけが自分の指へ残った。視界が机へ戻る。右手には鉛筆があり、親指の横に黒い芯の粉が付いていた。譲司は親指と人差し指を擦った。何もない。

 

「何だ、これ」

 

 隣の部屋から、遥がゲームを突破して喜ぶ声がした。階下では誠一が野球選手のフォームへ文句を言い、美佐子が食器を重ねている。家の中は変わっていない。譲司はノートへ視線を戻した。書き写した言葉の上に、題名を付けようとした。

 

 株の勉強。

 投資の記録。

 金を増やす方法。

 

 どれも、テレビで見たものを説明できなかった。番組で繰り返されていた言葉を書く。相場

 人が買い、人が売る。その結果として数字が動く。会社の出来事だけでなく、それを見た人間の動きまで画面へ表れるらしい。今の譲司に分かるのは、その程度だった。初めて書いた2文字なのに、鉛筆は迷わなかった。その下へ、38,620円と書く。続けて、今夜分かったことを並べた。

 

 未成年でも口座は作れる。

 親権者の同意が必要。

 自分の金だけでは足りない。

 

 1人で始められると思った世界は、入口から家族につながっていた。譲司は最後に、明日調べることを書いた。必要な金額。口座の条件。買える株。画面を閉じた時、日付は変わっていた。

 

 株は1株も持っていない。注文の出し方も知らない。ただ、次に何を調べるかだけは決まっていた。




【今回の運用資産推移】
開始時:38,620円
終了時:38,620円
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