翌朝、譲司は数学の問題集より先に相場ノートを開いた。前夜に書いた式は正しかった。ただし、一つ足りないものがあった。
500円×1,000株=500,000円
その下へ、手数料と書き足す。株を買えるかどうかは、表示された株価と売買単位だけでは決まらない。机に並べた38,620円との差は、昨夜より少し広がった。譲司は式の横へ、小さく書いた。
株価だけを見ない。朝食の時間になり、美佐子が階下から呼んだ。問題集を閉じ、相場ノートは引き出しへ入れる。食卓では誠一が天気予報を見ながら、道路が凍るかもしれないと話していた。遥はパンの袋に描かれた点数を集めれば皿がもらえるらしく、何枚必要かを数えている。
「お兄ちゃんの分も取っといて」
「何を」
「点数」
「皿が欲しいの?」
「まだ分かんない。集めてから考える」
「順番が逆だろ」
「お兄ちゃんも昨日から株を調べてるじゃん」
遥はパンをちぎり、美佐子は何も言わずにコーヒーを飲んだ。誠一だけが新聞を持ち上げた。学校へ着くと、教室では受験の話が続いていた。推薦で進学先が決まった生徒は少し声が大きく、一般入試を控えた生徒は単語帳か問題集を開いている。譲司も数学の問題集を机へ出した。その下に相場ノートを置き、休み時間になるたび引き出した。
株価500円。売買単位1,000株。必要資金500,000円。株価29円。売買単位1,000株。必要資金29,000円。数字だけなら、29円の株は買える。
「株をやるのか」
佐伯直人が机の横に立っていた。眼鏡の奥の視線は銘柄名ではなく、縦にそろえた数字へ向いている。譲司とは同じクラスになってから、数学の答えが合わない時にノートを見せ合う程度の関係だった。昼休みに一緒に騒ぐことはないが、途中式の書き方が雑だと指摘されることはある。
「まだ、できるか調べてる」
「29円なら買えるの?」
「1,000株で29,000円」
「29円だけ払うんじゃないんだ」
「俺も昨日知った」
佐伯はノートへ顔を近づけた。
「手数料は?」
「これから」
「じゃあ29,000円では買えないかもしれない」
「分かってる」
「書いてないから」
譲司は29,000円の横へ、手数料と書き足した。佐伯はそれで満足したらしく、自分の席へ戻った。机の上には、受験予定の高校ごとに締切日を並べた紙が置かれている。数字を見つければ整理するのは佐伯も同じだったが、譲司の表へ勝手に手を入れることはなかった。計算を手伝おうとはせず、譲司も頼まなかった。
チャイムが鳴り、国語の授業が始まった。教科書を読んでいる間も、頭の中では売買単位が残った。2時間目の英語では、知らない単語を前後の文から推測する問題が出た。3時間目の数学では、式の途中で符号を一つ間違えた。見直しで気づき、消しゴムを使う。
相場の数字なら、消す前の間違いも残した方がよいのかもしれない。そう考えた時、先生に名前を呼ばれた。
「城戸。次の式」
譲司は立ち、黒板の問題を解いた。答えは合っていた。席へ戻る途中、黒板を擦る音が耳へ残った。昨夜に聞いた乾いた音と似ていたが、今回はただのチョークだった。
放課後は寄り道をせず帰った。制服を脱ぎ、麦茶を持って自室へ戻る。父のお下がりのノートパソコンは、電源を入れてから画面が明るくなるまで時間がかかった。譲司は待っている間に英単語を20個確認した。最後の3個を覚え直したところで起動音が鳴る。
未成年口座を扱う証券会社を順番に開いた。未成年は申し込めない会社。親権者の同意があれば申し込める会社。親も同じ会社に口座を持つ必要がある会社。郵送で申し込めるが、必要書類が多い会社。売買手数料が安くても、口座維持や出金に別の条件がある会社。
「未成年でも可能」と書かれていても、その下には小さな条件が続いていた。
譲司は3社分の表を作った。未成年口座。
親権者同意。本人確認書類。親権者側の手続き。
現物取引のみ。
手数料。
開設までの日数。東都ネット証券は、未成年でも親権者の同意があれば申し込める。扱えるのは現物株だけだった。借りた金で株を買う信用取引はできない。郵送で書類を送り、確認が終わるまで数週間かかる。
申し込めば、すぐに売買できるわけではなかった。次に手数料を調べた。買う時と売る時の両方に金がかかる。30,000円分の株を買い、同じ30,000円で売っても、手数料の分だけ減る。少し上がった程度では、利益にならない場合もある。
譲司は紙へ例を書いた。1,000株を買う。株価が1円上がる。値上がり分は1,000円。
1円しか動いていないのに、自分の小遣いでは大きい。だが、往復の手数料が高ければ、その中から引かれる。株価だけ見ていても、残る金は分からない。表の一番上へ、売買後に残る金と書いた。
ページの表示を待ちながら、成行注文と指値注文も調べた。成行は値段を指定せず、売買の成立を優先する。指値は買う値段や売る値段を指定できるが、その値段で取引する相手がいなければ成立しない。
買えない注文。思っていたより高く買う注文。売れない注文。思っていたより安く売る注文。
どれも同じではなかった。証券会社の体験画面を開く。実際の金は動かない練習用の画面だった。銘柄名、売買の種類、数量、価格を入力する欄がある。譲司は株価500円の銘柄を選び、数量欄へ1,000と入れようとした。
右手が動いた。画面には10,000と表示された。500円×10,000株。5,000,000円。
金は動かない。注文も市場へ送られない。それでも、背中が急に冷えた。取り消そうとする声が、耳ではなく胸の奥へ響いた。人が多い。誰かが数字を叫んでいる。細長い紙を受け取った手が止まり、別の手が電話へ伸びる。間に合わないという感覚だけが先に来た。
譲司は入力欄を消した。右手の親指と人差し指を擦る。紙の乾いた感触が一瞬だけ残り、すぐになくなった。体験画面へ1,000と打ち直す。今度は確定せず、桁を右から数えた。
何が起きたのかは分からない。だが、数字を一つ多く入れれば必要資金が10倍になることは分かる。譲司は画面を閉じた。数日かけて、38,620円で買える株を探した。
株価29円、1,000株単位。必要資金29,000円と手数料。株価35円、1,000株単位。必要資金35,000円と手数料。
買える株は存在した。ただし、長く赤字が続いている会社、借金が多い会社、何を売っているのか説明を読んでも分かりにくい会社が多かった。ある会社のページには、継続企業の前提に関する疑義と書かれていた。言葉の意味を調べると、このまま事業を続けられるか分からない可能性があるという内容だった。
29円なら安い。最初はそう考えた。1年前には180円だった。29円から180円へ戻れば6倍を超える。譲司は計算した後、会社の発表資料を読み直した。赤字が続き、資金も減っている。180円へ戻る理由はどこにも書かれていない。
値段が下がった事実と、元の値段へ戻る理由は別だった。別の解説には、1株の値段だけで会社全体の安さは比べられないとあった。発行されている株数を掛ければ、会社全体につけられている値段が分かる。29円の会社でも株数が多ければ、500円の会社より全体の値段が高い場合がある。
譲司は候補表の題名を消した。安い株。その横へ書き直す。値段の低い株。
違いは分かった。何を買えばよいかは、まだ分からなかった。選択肢を増やすには、資金が必要だった。300,000円あれば、1,000株単位でも290円台まで調べられる。100株単位なら、さらに多くの銘柄を候補にできる。候補が増えれば正しい会社を見つけやすい。譲司はそう考えた。
本当に見つけやすくなるかは確かめていない。金が足りないことだけは確かだった。
その週の土曜日、夕食を終えると、誠一は居間のテーブルで競馬新聞を広げた。赤い丸をつけた馬の横へ、金額を書いた小さな紙がある。合計は3,000円だった。美佐子は向かい側で、財布から出したレシートを家計簿へ写している。値引きされた肉、洗剤、遥のノート。数百円単位の支出が、一行ずつ家の生活へ戻されていた。譲司は相場ノートを持って座った。
「父さん」
「入試の話なら聞く」
「株の口座は作れる」
「聞かない」
「もう返事してる」
「口座を作って、それで終わるのか」
「終わったら作る意味がない」
「なら駄目だ」
誠一は新聞から目を上げなかった。
「競馬はいいのに?」
「またそれか……」
「金を出して、増えるか減るかを見るのは同じだろ」
「同じじゃない」
「どこが」
「俺は負ける金を先に決めてる」
誠一は小さな紙を指で押さえた。3,000円。どの馬を買っても、外れて失う金はそこまでだった。
「株だって、下がったら売ればいい」
「売りたい時に売れるのか」
「成行なら売れやすい」
「売れる値段は決められるのか」
「決められない」
「買う奴がいなければ?」
譲司はノートを開いた。成行、指値、出来高。調べた言葉はいくつもある。買い手が少なければ、思った値段では売れない。そこだけは、注文の種類を変えても消えなかった。
誠一は競馬新聞へ戻った。
「いくら使う」
「今あるのは38,620円」
「それでやれ」
「買える株が少なすぎる」
「ならやるな」
「300,000円あれば選べる」
新聞が下がった。
「30万円!?」
「全部を一度に使うとは言ってない」
「誰の30万円だ」
譲司は答えられなかった。必要な金額は計算した。どこから出すかは決めていない。美佐子はレシートを1枚ずつそろえ、家計簿の間へ挟んだ。
「300,000円が必要な理由は?」
「買える株を増やしたい」
「増やして、どうするの?」
「上がる株を選ぶ」
「選べるの?」
「調べる」
「なくなった時は?」
譲司は口を閉じた。30万円を増やす計算は何度もした。2倍になれば600,000円。3倍なら900,000円。利益から次の株を買えば、使える金はさらに増える。30万円がなくなる計算は、一度もしていなかった。
「なくなる前に売る」
「どの値段で?」
「それは、買う株で変わる」
「まだ決まってないのね」
美佐子は責める言い方をしなかった。そのまま鉛筆を持ち、家計簿の次の行へ数字を書いた。
「口で頼む前に、紙へまとめなさい」
「……何を?」
「口座の条件。必要な書類。いくら使うのか。そのお金を何に使うのか。なくしたらどうするのか」
「銘柄も?」
「今は、買う株の話じゃないよ」
「じゃあ、何を見るの」
「譲司が何を頼んでいるか」
誠一が競馬新聞を畳んだ。
「増える話だけ書くな」
譲司はノートを閉じた。何時間も調べた。手数料も注文方法も、会社の資料も読んだ。それを楽だと思われたくなかった。
だが、誠一が聞いているのは作業時間ではない。失う金額だった。自室へ戻り、白い紙を6枚出した。1枚目に未成年口座の条件。2枚目に証券会社の比較。3枚目に手数料。4枚目に必要資金。5枚目に学校へ通いながら取引する方法。6枚目の上には、損失と書いた。
最初の5枚は進んだ。調べたことを写せばよい。親権者の同意。本人確認書類。現物取引のみ。東都ネット証券。申込から開設までの日数。300,000円で調べられる価格帯。6枚目で鉛筆が止まった。
損をしたら売る。
危なくなったらやめる。
戻るまで待たない。
どれも方法だった。美佐子が聞いたのは、最大でいくら失う可能性があるかだった。300,000円を使えるようにしてほしいと頼むなら、失う可能性のある金額も300,000円になる。途中で売るつもりでも、売れる保証はない。会社がなくなる可能性も、値段が急に飛ぶ可能性も、今日調べたばかりだった。譲司は6枚目の中央へ書いた。
最大損失 30万円
鉛筆を置いても、数字は変わらなかった。利益の元として見ていた30万円が、家族へ説明する紙の上では、失って戻らないかもしれない金になっていた。
翌日になれば、別の書き方を思いつくかもしれない。譲司は紙を裏返さなかった。
【今回の運用資産推移】
開始時:38,620円
終了時:38,620円