翌日の日曜午後、城戸家の食卓には昼食の皿ではなく、6枚の紙が並んでいた。父のお下がりのプリンターで出したため、文字は少しかすれ、2枚目だけ右へ傾いている。譲司は印刷し直すか迷った。読めないほどではない。インクも減る。そのままにした。
1枚目は未成年口座の条件。2枚目は証券会社の比較。3枚目は手数料。4枚目は資金の組み立て。5枚目は学校生活との両立。最後の紙には、最大損失30万円と書いてある。
美佐子はほうじ茶を4つの湯飲みへ注ぎ、譲司の向かいへ座った。誠一は腕を組み、1枚目を持ち上げる。遥は食卓の端で色鉛筆を並べていた。家族会議と聞いて席を離れなかったが、参加したいのか、面白そうだから残ったのかは分からない。
「これ、全部お前が作ったのか」
「そうだよ」
「受験勉強は?」
「やってる」
「昨日は何時間」
「3時間」
「株は?」
「4時間ぐらい」
「逆だろ」
譲司は、合計では7時間机に向かっていたと言いかけた。誠一が聞いているのは足し算ではない。それくらいは分かったので、言わなかった。美佐子は1枚目から順番に読んだ。知らない言葉が出ても、すぐには質問しない。3枚目の手数料表では金額を指で追い、5枚目では一度だけ譲司を見た。最後まで読むと、6枚目を一番上へ置いた。
「最大損失って、全部なくなるってこと?」
「最大なら」
「なくなった後は?」
「高校に入ったら働く」
美佐子は返事をせず、6枚目を裏返して譲司の前へ置いた。ペンも一緒に差し出す。
「何を書くの?」
「仕事と、毎月いくら貯めるか」
「今?」
「返すつもりなら、考えてあるでしょう」
考えていなかった。高校生のアルバイトで、月にいくら残せるのか。学校へ通えば昼食代や交通費もかかる。月に30,000円残せても10か月だった。毎月同じ額を貯められる根拠はない。そもそも、どこで働くのかも決めていない。譲司はペンを持ったまま、白い裏面を見た。
「高校に入ってから探す」
「それなら、今は返せるか分からないってことね」
「返すよ」
「誰に?」
譲司は顔を上げた。
「家に」
「家から借りるの?」
「借りるというか、使わせてほしい」
「それなら、返す話をする前に、誰のお金を使うのか決めないと」
誠一が6枚目を取り、30万円の文字を指で叩いた。
「全部なくなると思ってるのか」
「最大なら」
「それでもやるのか」
「なくすつもりでやるわけじゃない」
「なくす奴は、みんなそうだろ」
正しい言い方だった。正しいから腹が立った。
「現物だけなら、買った金額以上はなくならない。未成年口座では信用取引もできない」
「30万円なら、なくしていいって話か」
「いいとは言ってない」
「じゃあ、何でやる」
「増やせると思うから」
「思うだけで30万円出せるなら、工場は苦労しない」
誠一は証券会社の比較表へ目を落とした。横文字の多い紙を戻すと思ったが、読み始めた。
「父さんは、何を見れば納得するの」
「納得はしない」
「じゃあ……話しても同じだろ」
「止めても隠れてやるんだろ、お前は」
譲司は答えなかった。誠一も、それ以上は言わなかった。美佐子は手提げ袋から通帳を出した。表紙には譲司の名前がある。開かれたページには、正月にもらった金や祖父母からの祝い金を入れた記録が並び、最後の残高は200,000円だった。
「これは譲司のお金」
「えー、20万もあるの?」
遥が色鉛筆を置いた。
「お兄ちゃん、お金持ちじゃん!」
「使ってないだけ」
「使ってないなら、まだ持ってるってことでしょ」
「そうだけど」
「じゃあ、お金持ち」
遥の中では結論が出たらしい。黄色い色鉛筆を持ち直し、家の絵へ太陽を描き始めた。誠一は通帳をのぞき込み、少しだけ目を見開いた。
「こんなに貯めてたのか」
「譲司が全部使わなかったからよ」
「俺が子どもの頃は残らなかったぞ」
「今も残ってないでしょう」
誠一は何か言い返そうとしたが、通帳へ視線を戻した。美佐子は通帳の横へ、譲司が自分で保管していた金の内訳を置いた。38,620円。通帳の200,000円と合わせて238,620円になる。
「あと61,380円」
「計算は合ってる」
別の封筒には、高校へ合格した後に渡す予定の入学祝いが入っていた。制服、教材、通学用品に使う分は別に残してある。その中から61,380円を回せば、合計は300,000円になる。遥が封筒と通帳を見比べた。
「合格しなかったら?」
「遥!」
「聞いただけ」
譲司は6枚の資料を見た。未成年口座の条件も、証券会社の比較も、手数料も調べた。合格しなかった場合のことは、どの紙にも書いていない。
「合格する」
「すると思うよ」
美佐子はそう言ってから、封筒を自分の側へ戻した。
「でも、これは合格した後に渡すお金。今はまだ譲司のものじゃない」
「合格したら使っていい?」
「30万円までならね」
譲司は通帳へ手を置いた。
「じゃあ、決まりだろ」
「上限が決まっただけ」
「他に何があるの」
「家計からは足さない」
「足してって言わない」
「今はね」
遥が先に口を挟んだ。
「なくしたら、来年のお年玉は?」
「来年のは来年のだろ」
「じゃあ、また増えるじゃん」
「増えるけど、相場には入れない」
「何で?」
譲司は答えを探した。来年の金を使わない理由は、まだ持っていない。今ここで追加しないと約束する以外になかった。
「最初の30万円だけでやる」
美佐子は6枚目の余白へ書いた。家計から損失を補填しない。その下へ、少し間を空けてもう一行書く。損失を家族のせいにしない。
「2つあるの?」
「違うことだから」
「同じじゃない?」
「お金を足さないのと、誰かのせいにしないのは別でしょう」
「会社が悪い時もある」
「あると思う」
美佐子は否定しなかった。誠一が横から口を挟む。
「会社が悪けりゃ、買わなきゃいい」
「買う前に分かるなら誰も損しない」
「分からん物に金を出すな」
「父さんだって馬が走る前には分からないだろ」
「競馬と一緒にするな!」
「父さんが株を博打って言ったんだろ」
誠一は黙った。遥が小さな声で「一緒じゃん」と言ったが、誰も拾わなかった。美佐子はペン先で紙を軽く叩いた。
「会社が悪いことも、相場全体が下がることもある。分からなかったことを書くのはいいよ」
「全部は分からない」
「後から、最初から分かっていたみたいに言わなければね」
最後に注文を出すのは自分だった。買わないという選択もある。その言葉を美佐子は使わなかったが、譲司の中では同じところへ着いた。
「分かった。家族のせいにはしない」
美佐子は返事をせず、5枚目を取り上げた。学校生活との両立と書いてある。下には、帰宅後に株価を確認する、朝に注文を出す、定期試験前は取引を減らす、と譲司が書いていた。
「昨日は、株を4時間見たのね」
「調べてただけ」
「学校が始まっても?」
「市場は学校にいる時間に開いてる」
「それで、学校を休むのか」
誠一の声が低くなった。
「休まない」
「下がってても?」
「休まない」
「昼に見たくなったら?」
「学校のパソコンで株価を見る」
「授業中は?」
「見ない」
「ほんとに?」
遥が聞いた。譲司は妹を見た。
「見ない」
「お兄ちゃん、ゲームの攻略を見つけた時、ご飯でもやめないじゃん」
「ゲームと同じじゃない」
「さっきから、そればっかり」
譲司は言い返せなかった。相場はゲームではない。だから途中で止められる、という証明にはならない。美佐子は5枚目へ短い線を引いた。
「病気なら休む。学校の用事なら休む。相場のためには休まない。これでいい?」
「いい」
「見ていない間に下がっても?」
「帰ってから決める」
「それで学校へ行くのね」
「行く」
美佐子は相場ノートの見本として譲司が印刷した紙を手に取った。銘柄名、買う理由、目標価格、損切り価格。その下に結果を書く欄がある。
「一つ、ここで書いてみて」
「まだ口座がない」
「練習でいいよ」
譲司はペンを取り、体験画面で何度か見ていた会社名を書いた。買う理由には、業績が伸びている、株価が上がり始めている、出来高が増えている、と並べる。美佐子は紙を受け取り、しばらく読んだ。銘柄名にも数字にも触れず、空いたままの日付欄を指した。
「これ、明日見ても今日書いたって分かる?」
「日付を書けば分かる」
「朝に考えたのか、上がった後に書いたのかは?」
譲司は日付の横へ時刻を書き足した。
「これでいい?」
「始める前に書いたものならね」
「約定したら結果も書く」
「週末に、口座の履歴と一緒に見せて」
「毎回、母さんが決めるの?」
「決めないよ。約束した通りに残したかを見るだけ」
美佐子は紙を返した。銘柄名や価格については、何も聞かなかった。理由が間違っていた時は、間違っていたと書けばいい。譲司には簡単に思えた。自分がまだ正しいと思っている間に何を残すのか、その違いはまだ分からなかった。誠一が未成年口座の説明をもう一度開いた。
「俺からも1つだ」
「まだあるの!?」
「借金をして増やさない」
「未成年口座では信用取引はできない」
「今できるかは聞いてない」
「借金してまで買わないよ」
「なら書け」
誠一は紙を譲司の前へ押した。理解できないから反対するのではなく、理解できない先まで約束させようとしているように見えた。
「父さんは住宅ローンがあるだろ」
「家を買った金と一緒にするな」
「借金は借金だ」
「家族が住む物が残る」
「株も残る」
「下がったら数字しか残らん」
誠一はそこで話を切った。譲司も続きを言わなかった。美佐子は新しい紙へ、先に資金の扱いを書いた。最初に口座へ入れてよい元金は300,000円。入金は高校の合格発表後。家計から損失を補填しない。
その下へ、4つの条件を書き直す。1. 損失を家族のせいにしない。2. 相場のために学校を休まない。3. 注文前に理由を書き、実際にした全取引と結果を残す。4. 借金をして増やさない。
条件を破った場合は、取引を続けるか家族でもう一度話す。遥が紙をのぞき込んだ。
「えー、4つもあるの?」
「お前は宿題をやれ」
「今はお兄ちゃんの話でしょ」
「そうだったな」
誠一が真面目に答えたため、遥の方が少し困った顔をした。美佐子は譲司へペンを渡した。
「読んでから書いて」
「全部聞いたよ」
「聞くのと、読むのは別」
譲司は4つの条件を上から読んだ。どれも今なら守れると思った。守れなくなる自分を、まだ想像できなかった。名前を書く。
自由をもらったように見えた。実際には、自由を使った後の責任まで一緒に渡されていた。誠一も条件の紙を読み、下の空白へ名前を書いた。投資を認めるとは言わない。ただ、署名した紙を譲司へ返した。
「好きにしろ、とは言わない」
「じゃあ何だよ」
「決めたことは守れ」
「父さんも競馬の3,000円、守ってる?」
「今はお前の話だ」
「守ってないんだ」
「遥みたいなこと言うな」
遥が顔を上げた。
「え、私、何か言った?」
「言ってない」
「じゃあ、私のせいにしないで」
美佐子が小さく息を吐いた。笑ったのか、呆れたのかは分からない。食卓の緊張が少しだけ薄れた。その後、美佐子は東都ネット証券の申込書を確認した。親権者同意欄、本人確認書類、未成年口座で扱える取引。住所の1文字、書類の有効期限、印鑑を押す場所まで、説明書と一つずつ照らし合わせる。
「そこまで見る必要ある?」
「間違って戻ってきたら、口座ができるのは遅くなるよ」
「今日送れない」
「間違えたまま送っても、早くはならない」
譲司は住所と書類番号をもう一度見た。どちらも合っている。確認に付き合っている間、口座が遠ざかる気がした。実際には、書類が戻される方が遅い。何も言わず、次の欄を見た。
美佐子は必要な同意欄へ署名し、印鑑を押した。誠一は投資を認めるとは言わなかったが、添付する書類がそろっているかを一度だけ見た。口座への入金は高校の合格発表後。受験が終わるまでは、相場を理由に勉強を止めない。確認した内容を、美佐子は封筒を閉じる前にもう一度だけ読み上げた。
日が傾いてから、美佐子と譲司は必要な書類を封筒へ入れ、近くの郵便ポストまで歩いた。冷たい風が吹いていた。譲司は封筒を持ち、何度か端を確かめた。薄い紙の束なのに、38,620円を数えた時より重く感じる。
「落とさないでよ」
「落とさない」
「さっきから端ばかり触ってるから」
「確認してるだけ」
「破れたら送れないよ」
譲司は封筒から指を離した。郵便ポストの前で、美佐子は横へ立ったまま、封筒へ手を伸ばさなかった。譲司は投入口へ差し込んだ。封筒が中へ落ち、金属の底へ当たる音がした。
その瞬間、木の台へ注文票を置く音が重なった。大勢の声。紙を受け取る手。数字を読み上げる知らない自分。指が何もない空中で、細長い紙を送った。
音はすぐに消えた。
「……どうしたの?」
「何でもない」
「ほら、戻るよ。寒いから」
美佐子は先に歩き出した。譲司は郵便ポストを一度だけ振り返り、その後を追った。口座はまだない。300,000円も入っていない。高校にも合格していない。
決まったのは、条件を守れば始めてもよいということだけだった。譲司は相場へ一歩進んだつもりでいた。実際には、待つ理由が増えただけだった。始めるために待つ。
その理屈が、15歳の譲司には一番納得しにくかった。
【今回の運用資産推移】
開始時:38,620円
終了時:238,620円
※本人名義の貯金200,000円を資産集計へ加えたものであり、運用益ではありません。