未成年口座の申込書を送ってから、譲司にできることは減った。申込書が証券会社へ届くまで待つ。審査が終わるまで待つ。高校へ合格するまで待つ。家族会議で決まった条件は、どれも相場へ近づくためのものだったはずなのに、今すぐ注文できない理由として机の前に並んでいた。
2月に入り、譲司の机は三つに分かれた。中央に高校入試の過去問題集。右に英単語帳。左に新聞から切り取った株価欄。配置だけなら、勉強と相場は同じ広さだった。
数学を1問解く。株価欄を見る。もう2問解く。前日より上がった銘柄へ丸を付ける。
両方を進めているつもりだった。過去問題集には途中式が残り、株価欄には赤い印が増えた。だが、数学の答え合わせをしている時には終値が気になり、株価を写している時には入試までの日数が頭に残った。夕方、遥が部屋の前へ積まれた新聞を抱えた。
「これ、学校に持ってっていい?」
「駄目」
「まだ何に使うか言ってないじゃん」
「古新聞を使うんだろ」
「図工で丸める」
「別のにして」
「全部先週のだよ」
「先週だからいるんだよ」
遥は腕の中の束を見下ろした。譲司が付けた丸や線が、端から何本か見えている。
「今の新聞を見ればいいじゃん」
「前の値段が消えるだろ」
「インターネットにあるでしょ」
証券会社のサイトを開けば、過去の株価は見られる。ただし、父のお下がりのノートパソコンでは一つの画面を出すだけで時間がかかる。新聞なら何百銘柄も同じ紙に並んでいる。銘柄名を知らなくても、上がったものと下がったものを一度に比べられた。
「画面だと、1社ずつ開かないといけない」
「新聞だと?」
「全部見える」
「全部見るの?」
「見る」
「試験より大事?」
譲司は新聞を受け取ろうと伸ばした手を止めた。試験に落ちれば、入学祝いの61,380円は口座へ入らない。300,000円で相場を始めるには、先に高校へ受からなければならない。過去問題集は合格するために必要だった。
ただ、今日の株価は今日しか動かない。問題集は明日開いても同じ答えが載っている。
「どっちもいる」
「それ、母さんに言う?」
「新聞を置いていけ」
遥は一番上の1部だけ抜いた。
「これは丸がないからいい?」
「日付は?」
「やっぱり聞いた」
前々週の新聞だった。譲司がうなずくと、遥はそれを抱えて出ていった。廊下から「図工の方が先に使うからね」と聞こえた。譲司は残った新聞を日付順に並べ直した。
相場ノートへ最初に写したのは、始値、高値、安値、終値だった。1日の最初の値段、一番高い値段、一番安い値段、最後の値段。その横へ出来高を書く。値上がり率と売買代金は、証券会社のランキング画面から補った。
同じ銘柄を数日並べると、1日の数字が線のようにつながった。値段が上がっているのに、売買された株数が少ない日がある。終値はほとんど変わらないのに、普段より多く売買される日もある。どちらが次の日に上がりやすいのかは分からない。
分からないので、両方残した。画面の表示を待つ間には、翌日の予想を書いた。上がる。下がる。変わらない。
最初は三つだけだった。翌日、外れたものへ線を引く。3日続けて外すと、予想ではなく選択肢を順番に書いただけのように見えた。消したくなったが、消さなかった。
母へ見せるためではない。外した後の自分は、前日より理由を作るのがうまくなっていた。上がると書いた銘柄が下がれば、「市場全体が弱かった」と説明できる。下がると書いた銘柄が上がれば、「良いニュースが出た」と言える。どちらも翌日になってから見つけた理由だった。
譲司はページの中央へ線を引いた。左側に、予想する前に見たもの。右側に、結果を見た後で考えたこと。同じ言葉が両方へ書かれることもあった。違いは内容ではなく、いつ書いたかだった。
表計算ソフトも使ってみた。数字を入力すれば、平均も値上がり率も自動で出る。手書きより速い。だが、画面を閉じると、どの銘柄の出来高が急に増えたのかを思い出せなかった。
ノートなら、数字を書いた場所が残った。ページの右上に大きな出来高を書いた銘柄、途中で鉛筆を折った銘柄、計算を間違えて二重線を引いた銘柄。正確さとは関係のない記憶まで付いてくる。効率は悪かった。
今の譲司には、その遅さが必要だった。次のページには、まだ存在しない300,000円の口座を作った。3銘柄へ100,000円ずつ分ける場合。1銘柄へほぼ全額を使う場合。買ったつもりの値段、数量、手数料、翌日の終値を書き、残高を計算する。
3つに分ければ、一つ外しても全ては減らない。ただし、一番上がった株の利益も3分の1に近くなる。1銘柄へ入れれば、増える時も減る時も速い。譲司は最初、一番上がりそうな株へ全部入れる方が正しいと思った。2番目に見える株を買う理由がないからだった。
問題は、一番を選ぶ方法だった。業績が良い。株価が安い。出来高が増えた。ニュースが出た。条件が別々の銘柄へ現れると、譲司は最後に上がった株へ一番都合のよい理由を付けられた。
それでは、選んだのではない。上がった株を、後から選び直しているだけだった。入試まで2週間を切った日、誠一が小さなラジオを持って部屋へ入ってきた。背面のねじを外しながら、机に広がった数字を見た。
「勉強してるか」
「してる」
「そのノートは英単語か」
「株価」
「……聞かなきゃよかった」
誠一はラジオを机の端へ置いた。電源を入れると、音楽が少し流れ、すぐに雑音へ変わった。
「壊れてるの?」
「温まると音が消える」
「何で分かる」
「毎日使ってたからだ」
裏蓋を外し、部品へ指を近づける。触らずに熱を確かめ、数秒待ってから電源を切った。
「工場の機械も、壊れる前に音が変わる。振動がずれる。いつも見てないと、変わったことにも気づかん」
「数字でも分かる?」
「何の話だ」
「機械」
「数字だけで直るなら、現場に人はいらん」
誠一はねじを1本外し、過去問題集を顎で示した。
「そっちの数字を落とすな」
「分かってる」
「今の間は、分かってない時の間だ」
誠一はラジオを持って出ていった。相場ノートを取り上げることも、数字を書き続ける理由を聞くこともしなかった。譲司はラジオがあった場所を見た。毎日見ていなければ、変化したことにも気づかない。
株価も同じだと思った。しかし、同じだと言い切れるほど、まだ何も見ていなかった。ノートへ書くのはやめた。代わりに、その日の数字をもう一度写した。
入試の前日、譲司は株価欄と相場ノートを机の引き出しへ入れた。相場を始めるために試験へ受かる。順番は家族会議で決まっている。過去問題集だけを開いたが、1時間ほどすると、引き出しの中が気になった。
見ても株価は変えられない。見なくても株価は動く。自分が参加していない間にも数字が変わることが、試験問題より不公平に思えた。当日の朝、相場ノートは家へ置いていった。試験会場で問題用紙が配られると、数字はただの数字へ戻った。二次方程式、図形、確率。問題には作った人間がいて、答えも用意されている。
相場より簡単だった。少なくとも、正解が後から別の意味へ変わることはない。試験が終わって数日後、東都ネット証券から受付完了の葉書が届いた。取引暗証番号は別便で送ると書かれている。葉書を裏返しても、売買できるようにはならない。
譲司は発送予定日を数え、郵便受けの音がするたび玄関へ向かった。広告や公共料金の通知だと分かると、何も待っていなかった顔で自室へ戻る。2回目で遥に見つかった。
「また株の手紙?」
「水を飲みに来た」
「台所、反対だよ」
「先に郵便を見ただけ」
「待ってるじゃん!」
「確認してる」
「待ってる人が使う言葉だよ、それ」
譲司は広告を郵便受けへ戻し、自室へ戻った。口座の手続きは進んでいる。相場はまだ始まっていない。待っている間、譲司はニュースと株価を並べた。
業績予想を上方修正した会社。大型契約を発表した会社。新製品が新聞に載った会社。良いニュースが出た企業を選び、発表前後の値動きを写す。同じ日の日経平均と、同業他社の株価も横へ書いた。
市場全体が大きく下がった日に、その会社も下がったからといって、会社だけが嫌われたとは限らない。反対に、市場全体が上がっているのに動かない株は、良い材料があっても買われていないのかもしれない。一つの数字だけを見れば、どんな説明でも正しそうに見えた。当然、良いニュースなら株価は上がると思っていた。実際には違った。
機械メーカーの北洋機工は、増益予想を発表した翌日に下がった。前日より高く始まったが、その後は売られ、終値は発表前より安い。出来高は普段の3倍近くに増えている。別の通信会社は赤字拡大を発表した。安く始まったのに、午後には前日終値を上回った。
譲司は記事を読み直した。増益も赤字も、数字を見間違えてはいない。夕食の時、美佐子へ話した。美佐子は味噌汁をよそいながら、北洋機工の名前を一度聞き直した。
「良い会社なら、上がるんじゃないの?」
「会社が良いかは、まだ分からない。増益予想は出した」
「増える予定なのに下がったの?」
「そう」
「ニュースが間違っていた?」
「数字は合ってる」
「じゃあ、何が下がったの?」
「株価」
「それは聞いたら分かるよ」
遥が焼き魚の骨を皿の端へ寄せた。
「良いニュースを見た人が、売ったんじゃない?」
「何で良いのに売るんだよ」
「上がったから」
「上がってない」
「朝は高かったんでしょ」
譲司は箸を止めた。北洋機工は高く始まった。その値段で買った人間がいる。同時に、その値段で売った人間もいた。増益を見て買う人間より、朝の高値で売りたい人間の方が多ければ、良いニュースでも終値は下がる。
「発表前から上がると思われてたのかもしれない」
「思われてたら、発表した後は上がらないの?」
「上がることもある」
「じゃあ、分からないじゃん!」
「だから比べてる」
美佐子は味噌汁を譲司の前へ置いた。
「分からないまま買わないために?」
「分からないものを減らすために」
美佐子は「なくせるの」とは聞かなかった。誠一は黙って食べていたが、北洋機工という名前を小さく繰り返し、覚える気がない顔で忘れようとしていた。
その夜、譲司は増益予想の記事ではなく、発表翌日の値動きを見直した。高く始まった。高値を保てなかった。
終値は前日より安い。
出来高だけが増えた。良いニュースで買った人間がいた。それでも、最後まで買いは続かなかった。通信会社は逆だった。悪いニュースで安く始まったが、その後は下がらなかった。売りたい人間が残っていなかったのか、もっと悪い数字を予想されていたのかは分からない。
理由はいくつも考えられる。画面に残っているのは、結果だけだった。譲司はノートの項目を変えた。
材料。
発表前の値動き。発表後の始値。
終値。
出来高。
材料が良いか悪いかの横へ、それを見た後に株価が上がったか下がったかを書く。数字を縦に並べた時、白いページの上へ黒い板が重なった。
誰かの手がチョークで価格を書き、すぐに消して別の数字へ直す。周囲では大勢が何かを叫んでいる。言葉は聞き取れない。数字だけが次々に変わり、黒板の前の手はニュースの記事ではなく、動いた値段を追っていた。
鉛筆が止まった。黒い板は一瞬で消えた。ノートには、自分が書いた数字しかない。テレビで見た映像を頭が作ったのかもしれない。以前にも聞いた音と同じ場所なのかもしれない。どちらでも、今の譲司には確かめられなかった。
確かめられるものだけを残す。譲司はページの一番下へ、日付と時刻を書いた。その下へ、最初の仮説を書く。ニュースではなく、ニュースの後に上がったかを見る。
会社の中身を見ないという意味ではない。良いニュースだから買うのではなく、そのニュースを受けて実際に買われたかを見る。まだ一週間分の数字しかなく、正しいかどうかも分からない。それでも、昨日までよりは、選ぶ前に使える言葉だった。
過去一週間の候補を、同じ基準でもう一度見直した。良いニュースだけで残した銘柄の半分が消えた。材料は地味でも、出来高が増え、高値に近いまま終えた銘柄が残った。
翌朝も市場は開く。譲司の口座だけが、まだ空だった。
【今回の運用資産推移】
開始時:238,620円
終了時:238,620円
※証券口座への入金予定額は300,000円。