相場師は欲望から降りられない   作:山崎春のパン祭り

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第五話 三十万円

 取引暗証番号の紙は、高校の合格通知より薄かった。比べるものではない。譲司にも分かっている。それでも2枚を机へ並べると、先に確かめたのは数字だけが印刷された方だった。

 2006年3月13日、月曜日。卒業式を数日後に控えた朝、東都ネット証券の口座へ300,000円が反映された。高校の合格発表後、美佐子は約束どおり、入学祝いから61,380円を譲司へ渡した。譲司名義の貯金200,000円と、手元に残していた38,620円を合わせ、前の金曜日に証券口座へ振り込んでいる。制服、教材、通学用品の金は別に残されていた。同じ300,000円でも、通帳にあった時とは見え方が違った。

 

 現金残高 300,000円

 

 紙幣の厚さも、小銭の重さもない。画面の数字を注文へ変えれば、今日から増えることも減ることもある。美佐子は台所の椅子を譲司の横へ運び、表示された名義と残高を確認した。銘柄の候補を書いた相場ノートには触れない。遥が2人の間から画面をのぞいた。

 

「銀行のお金、なくなったの?」

「なくなってないよ。置く場所を変えただけ」

「パソコンの中に30万円あるの?」

「証券会社の口座」

「じゃあ、出して見せてよ」

「今は出さない」

「見せられないのに、あるって分かるの?」

「表示されてるだろ」

「ゲームのお金も表示されるよ」

 

 譲司は反論しかけた。ゲームの数字と証券口座の残高は違う。だが、今の遥に違いを説明しても、紙幣が出てくるわけではなかった。誠一が作業着の上着を着ながら、画面を一度見た。

 

「学校へ遅れるなよ」

「分かってる」

「注文するのか」

「そのために起きた」

「聞いてない。遅れるなと言った」

 

 誠一は玄関へ向かった。止めない代わりに、応援もしない。家族会議で決めた条件の内側だけを残し、判断は譲司へ返している。その方が、失敗した時に言い訳を置く場所がなかった。

 譲司は相場ノートを開いた。候補は3銘柄まで減らしてある。1つ目は、増益を発表した機械株だった。数字は良い。ただし発表翌日の株価は上がらず、出来高も減っている。良い材料が出た後も買いが続いた、という相場ノートに書いた仮説には合わない。

 2つ目は、株価の低い建設株だった。300,000円なら多く買える。だが、安値を更新した後も売買代金は細く、下げ止まったとは言えない。買えること以外に、今買う理由がなかった。

 3つ目が東央電子だった。東証2部の小型電子部品会社。携帯機器向け部品の受注増を発表し、その翌日から出来高が通常の約3倍へ増えた。高く始まった後も売り崩されず、終値はその日の高値に近い。

 良いニュースが出た。その後、実際に買われた。ノートへ日付と時刻を書く。

 

 東央電子。

 受注増。

 出来高は通常の約3倍。

 材料発表後も高値圏を維持。

 前日終値900円。

 

 買わない理由も書いた。

 

 小型株。

 値動きが大きい。

 受注増が一時的かもしれない。

 材料発表後にすでに上がっている。

 

 良い点だけを並べると、注文することが先に決まり、理由は後から付いてくる。反対側も書けば、少なくとも何を無視したかは残る。譲司は注文画面を開いた。銘柄名、売買区分、数量、価格。

 

 東央電子。

 現物買い。

 300株。

 1,000円。

 

 買付金額は300,000円になった。口座の全額と同じだった。確認画面へ進む。買付可能額を超えています。赤い文字が出た。

 

「……何で」

 

 声に出してから、手数料に気づいた。買付代金とは別に472円が必要になる。口座開設前に何度も計算し、相場ノートにも書いた。だが300株と1,000円を掛けた時、ちょうど全額になる数字だけが先に見えた。

 

 注文はまだ市場へ送られていない。金も減っていない。それでも、初めての取引を始める前に、画面から間違いを返された。譲司は価格欄を消した。

 

 前日終値は900円だった。1,000円まで買う注文なら、朝から上がった時にも成立しやすい。その代わり、発表後の高値を追うことになる。安く買いたい。

 

 だが、安くしすぎれば買えない。880円と入力した。300株で264,000円。手数料を加えても残高に収まる。前日終値より20円安い。朝に売られ、880円まで下がった時だけ買う。

 

 注文方法は指値。有効期限は当日。成行の選択欄がすぐ上にあった。値段を決めず、成立を優先する注文。買うことだけを優先するなら、そちらの方が早い。

 

 右手の人差し指が、成行へ寄った。数字を読み上げる声が耳の奥で重なった。細い紙を急いで受け取り、別の手へ送る。見えたのは一瞬で、誰の手なのかも分からない。

 

 譲司は指を戻した。注文前の理由は書いた。数量も2回確認した。

 

 東央電子。

 現物買い。

 300株。

 指値880円。

 

 取引暗証番号の入力欄で、紙を見ずに打とうとした。4桁目が曖昧になり、引き出しから薄い通知書を取り出す。最初の注文ぐらい覚えて入力したかった。覚えているつもりで間違えるよりはよかった。

 送信する。受付済み。表示が変わった。

 現金はまだ300,000円のままだった。株も持っていない。譲司が作った条件を満たす相手が現れた時だけ、注文が取引へ変わる。玄関で時計を見る。いつも家を出る時刻より2分遅かった。

 

「お兄ちゃん、30万円なくなったの?」

 

 遥が靴下を片方だけ履いたまま聞いた。

 

「まだ」

「増えた?」

「まだ」

「じゃあ何をしたの?」

「注文」

「注文って、お金?」

「違う」

「じゃあ、まだ何も買ってないんだ」

 

 譲司は返事をせず、靴を履いた。注文を出した本人だけが、何かを始めた気になっていた。1時間目の国語で、教科書の行間へ880円という数字が浮かんだ。市場は午前9時に始まる。時計の長針が12を越えた時、東央電子の最初の値段が付く。880円まで下がれば買える。下がらずに上がれば、注文は置き去りにされる。

 教室にいる譲司には、どちらも確認できない。時計を見ないようにした。黒板を見れば、教室の後ろにある時計まで視界へ入った。昼休み、佐伯直人が机の横へ来た。

 

「朝から時計、見すぎ」

「見てない」

「1時間目に5回、2時間目に4回」

「数えてたのか」

「途中から」

 

 佐伯は机の中から少し見えている相場ノートへ目を落とした。

 

「候補、三つあっただろ」

「見たのか」

「名前と、横に書いてあった理由だけ。どれにした?」

「東央電子」

「増益の機械株じゃなくて?」

「発表の後に買われてない」

「安い建設株は?」

「売買が減ってる」

「じゃあ、残ったのが東央電子?」

「残ったんじゃない。買いが続いてる」

 

 佐伯は机の中から見える相場ノートへ、もう一度目を落とした。

 

「同じ三社を見ても、僕にはそこまで分からない」

「出来高を見れば分かる」

「見た。でも、どの数字から見るのかが分からない」

 

「注文した?」

「出した」

「買えた?」

「分からない」

「本人が一番見られないんだ……」

「学校にいるから」

「家へ帰るまで?」

「そう」

「学校を休まない条件、ちゃんと効いてるな」

 

 譲司は相場ノートを机の奥へ押し込んだ。

 

「条件は守ってる」

「破ったとは言ってない」

 

 チャイムが鳴った。佐伯は自分の席へ戻る。譲司は午後の授業で一度も時計を見ないと決めた。三度目の授業で、決めたことを忘れた。

 6時間目は卒業式の練習だった。生徒は体育館へ移動し、名前を呼ばれた順に立ち、礼をして座る。同じ動作を何度もやり直した。担任が「本番は時計を見るな」と注意した。

 譲司だけへ言ったわけではない。それでも、腕時計を袖の奥へ押し込んだ。市場はすでに午後の取引へ入っている。体育館を抜けても家までは遠く、学校の公衆電話から証券口座を確認することもできない。

 

 相場のために学校を休まない。家族会議では簡単に守れると思った条件が、何もできない時間として一日分の重さを持ち始めていた。

 

 放課後、寄り道をせず帰宅した。制服のまま自室へ入り、古いノートパソコンの電源を押す。起動を待つ時間だけが、普段より長くなったように感じた。画面が出る前に鞄を置き、上着を脱ぎ、もう一度電源ランプを見る。ログインする。

 

 注文状況。

 未約定。東央電子は880円まで下がらなかった。

 

 始値930円。

 高値960円。

 安値900円。

 終値900円。

 

 朝の注文は、1株も成立せずに失効していた。株価は一度960円まで上がっている。選んだ銘柄は上がった。譲司の口座は増えていない。

 

 予想が合っていても、買えなければ利益にならない。成行なら買えていたかもしれない。指値を900円にしていれば成立した可能性がある。930円でも、960円まで上がる前なら間に合った。

 全て、市場が閉じた後なら言えることだった。譲司は相場ノートを開く。

 結果。

 未約定。その下に、買えなかった理由と書いた。

 

 指値が低かった。

 

 鉛筆が止まる。低くした理由は、高値で買うのが怖かったからだった。前日より安く買えば、間違えた時の損失を小さくできると思った。一方で、上がると考えた株が下がるまで待っている。自分の予想と注文が、同じ方向を向いていなかった。

 階下で食器の触れる音がした。美佐子が夕食の準備を始めている。譲司は台所へ行き、冷蔵庫から麦茶を出した。

 

「朝の注文、どうだった?」

 

 美佐子は鍋の火を弱めながら聞いた。

 

「買えなかった」

「注文は残ってるの?」

「今日だけだから、もう消えた」

「お金は?」

「300,000円のまま」

「……そっか」

 

 美佐子はそれ以上、銘柄や値段を聞かなかった。代わりに、冷蔵庫へ戻そうとしていた麦茶を指した。

 

「飲まないの?」

「飲む」

 

 コップへ注ぐ。口をつけるまで、手に持ったままだった。夕食で、誠一が一度だけ確認した。

 

「買ったのか」

「買えなかった」

「なら減ってないな」

「株は上がった」

「持ってない株が上がっても、お前の金は増えん」

 

 誠一はそこで味噌汁へ戻った。画面の残高は300,000円のままだった。数字だけなら父の言うとおりだった。だが譲司には、利益を失ったように見えていた。

 

 自室へ戻り、東央電子の数字をもう一度並べた。

 

 始値930円。

 高値960円。

 安値900円。

 終値900円。

 出来高は前日より増加。

 

 高値から押し戻された。ただし前日終値は割っていない。材料が出た後の買いも消えていない。

 

 翌日も欲しいなら、今日買えなかった悔しさではなく、今の数字から理由を書き直す必要がある。前日高値960円を越えた場合、買いが続いている可能性が高い。980円までなら、300株と手数料を合わせても300,000円以内に収まる。弱く始まった場合も、980円以下の売り注文が出れば買ってしまう。

 

 上へ追うための指値でありながら、下がった時にも成立する。その欠点も書いた。

 

 3月14日、午前7時18分。

 

 東央電子。

 現物買い。

 300株。

 指値980円。

 有効期限、当日。

 

 銘柄名、売買区分、数量、価格を2回確認する。今度は警告が出なかった。学校へ着くと、1時間目は数学だった。教師が黒板へ三角形を描き、辺の長さを求める式を書いた。答えは途中式から確かめられる。

 

 9時21分、東央電子の売り注文と譲司の買い注文が市場で重なった。その時、譲司は図形の問題を解いていた。2時間目の後、佐伯が小声で聞いた。

 

「今日は?」

「出した」

「買えた?」

「帰るまで分からない」

「昨日と同じだな」

「値段は変えた」

「そこじゃないって」

 

 佐伯が何を指しているのか聞く前に、教師が教室へ入ってきた。

 

 午後、譲司は問題集の最後まで解いた。時計を見ても注文の結果は変わらない。そう考えた回数は覚えていたが、時計を見た回数は数えなかった。

 

 帰宅後、パソコンを起動する。注文履歴を開く。

 

 東央電子。

 注文数量300株。約定数量200株。

 未約定数量100株。

 約定価格980円。

 

 一部約定。譲司は画面へ顔を近づけた。300株の注文は、一つの塊ではなかった。980円以下で売ろうとした株が200株分だけあり、残り100株分は条件に合う相手がいなかった。

 

 買付代金196,000円。

 手数料472円。

 現金残高103,528円。

 

 未約定の100株は、その日の取引終了とともに失効している。200株だけなら、考えていたより損失は小さくなる。利益も小さくなる。安心するべきだった。

 譲司は先に、買えなかった100株が上がった場合の利益を計算した。持っていない株の利益まで、自分のものとして数え始めていた。

 終値は990円だった。買値より10円高い。200株で2,000円の値上がりになる。ただし、売っていない。買い手数料も払っている。口座時価は、現金103,528円と株式評価額198,000円を合わせて301,528円。

 300,000円が301,528円になった。確定した利益ではない。それでも、初めて自分の判断で口座の数字が動いた。譲司は相場ノートへ結果を書く。

 

 300株注文。

 200株約定。

 100株未約定。

 買値980円。

 終値990円。

 口座時価301,528円。

 

 書き終えてから、次の欄を作った。売る理由。

 持つ理由。

 買う理由は書けた。持っている理由は、まだ書けなかった。




【今回の運用資産推移】
開始時:300,000円
終了時:301,528円
増減額:+1,528円
増減率:+0.51%
取引回数:1回
※本人名義の貯金と入学祝いを合わせ、証券口座へ300,000円を入金した時点を開始時としています。
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