初めて買った株は、譲司が見ていない時間に上がった。
3月15日、水曜日。東央電子は前日より高く始まり、終値は1,040円だった。買値は980円。200株なので、値上がり分は12,000円になる。
現金残高 103,528円
株式評価額 208,000円
口座時価 311,528円
前日の301,528円から、10,000円増えていた。買った時の手数料はすでに引かれている。売れば、もう一度手数料がかかる。東央電子をまだ持っているため、12,000円全てが確定した利益でもない。
譲司は分かっていた。それでも、評価損益欄の赤い数字は、昨日まで調べていた言葉より理解しやすかった。自分が買った後に、株価が上がった。相場ノートへ終値と出来高を書く。出来高は前日より増え、終値はその日の高値に近い。材料発表後も高い位置を保つという買った理由は、まだ崩れていない。
売る理由はない。そう書いてから、鉛筆を止めた。持つ理由なのか、売りたくない理由なのか、自分でも区別できなかった。もっと上がると思う。
書けば理由になる気がした。だが、それは明日の値動きを説明していない。自分の希望を書いただけだった。譲司は空欄のままノートを閉じた。翌16日、卒業式の練習があった。
体育館には折り畳み椅子が等間隔に並び、教師が名前を呼ばれた後の動きを説明している。返事をする。立つ。前へ出る。礼をする。証書を受け取る。もう一度礼をして席へ戻る。
相場より決まりが多く、相場より簡単だった。決められた通りに動けば、途中で順番も値段も変わらない。譲司は前日の終値を頭の中で掛けていた。
1円上がれば200円。10円で2,000円。100円で20,000円。
300株全て買えていれば、100円で30,000円になる。口座にない100株まで、計算の中では保有したままだった。隣に座っていた佐伯が、譲司の腕を軽く押した。
「次、お前だぞ」
「分かってる」
「今、前の奴が呼ばれたぞ」
「聞いてた」
「立つのが遅い」
譲司は返事をして立った。壇上まで歩き、決められた場所で止まる。教師は何も言わなかったため、間違えてはいないらしい。席へ戻ると、佐伯が前を向いたまま言った。
「株の値段って、卒業式まで待ってくれないのか」
「市場は開いてる」
「お前がここにいても?」
「関係ない」
「それは落ち着かないな」
譲司は答えなかった。落ち着かないというより、自分の判断だけが学校の外で進んでいる感覚だった。教室や体育館にいる間にも、知らない人間が買い、売り、口座の数字を変えている。
放課後、東央電子の終値は1,100円になっていた。評価損益は24,000円。口座を開いてから数日しかたっていない。まだ一度も売っていない。それでも、最初に持っていた38,620円の半分以上に当たる金が、画面の中では増えていた。
美佐子へ話そうか考えた。だが、利益は確定していない。下がれば消える数字を報告して、翌日に減った説明をするのは嫌だった。最初の約定を話さなかった時と同じく、まだ利益ではないから言わない。
理由としては間違っていない。自分に都合がよいことも分かっていた。17日の金曜日、東央電子は午前中に1,200円を超えた。譲司が見たのは帰宅後だった。高値は1,210円。
終値は1,110円。
前日より10円高い。買値より130円高い。口座は増えている。それなのに、高値から100円下がった部分だけが目に残った。
一度も持っていなかった金を、一度は自分のものになった金として失っていた。譲司は売却画面を開いた。100株を売る。200株全て売る。何もしない。
買う前は、買うか買わないかだけだと思っていた。持った後は、株数と価格と時刻の組み合わせが増える。利益を守ろうとすれば、その後の上昇を捨てることになる。上昇を待てば、今ある利益を下落へ戻す可能性がある。
数量欄へ100と入れる。価格欄へ1,200と入れる。確認画面まで進み、戻った。
右手に、細長い紙へ数字を書いている感触が重なった。周囲の声は聞き取れない。上がっている値段を前に、注文票を渡さず手元へ残している。売るな、と聞こえたわけではない。
利益の出ているものを閉じることだけが、不自然に感じられた。前世から来た感覚なのか、今の自分が利益を手放したくないだけなのか、譲司には分けられない。その日は何も売らなかった。
週末、美佐子が口座履歴と相場ノートを確認した。買う前の理由。300株の注文。200株だけ約定した記録。その後の終値と出来高。数字は日付順に並んでいる。
売却履歴だけがなかった。
「いつ売るの?」
「上がらなくなったら」
「それは、いくらになった時?」
「値段だけでは決められない」
「じゃあ、何を見て決めるの?」
「出来高と、高値からどれくらい下がったか」
「昨日は下がったんでしょう」
「前日よりは上がってる」
「なら、売らない?」
「まだ持つ」
美佐子はノートの最後の行を指した。
「持つ理由は?」
「買った理由と同じ」
「買った時と、今は同じなの?」
「出来高は増えてる」
「じゃあ、それを書けばいいでしょう」
譲司は鉛筆を持った。売る理由。
持つ理由。二つを書き、その下にもう一行を加える。
売らない本音。
売る理由は、高値から押し戻されたこと。
持つ理由は、出来高が減らず、買値より高いこと。
売らない本音は、もっと上がると思っていること。
最後の一行だけ、相場の状態ではなく、自分の願いだった。美佐子は内容の正しさを判定しなかった。日付と時刻を見て、ノートを閉じる。
「売る時も、出す前に書くのね」
「分かってる」
「今なら、まだ書けるでしょう」
「書くよ」
監視されているようには感じなかった。自分だけなら書かずに済ませた部分が、母へ見せる前提によって残った。それが役に立つのかは、まだ分からない。
3月19日の日曜日、譲司は翌日の注文を決めた。全部を持つか、全部を売るかではなく、100株だけ売る。残り100株は持つ。利益を確定しながら、その後の上昇にも残れる。
どちらも選び切らない方法だった。逃げ道にも見えた。それでも、何も決めずに月曜日を迎えるよりはよかった。売る理由を書く。
高値から押し戻された。上昇幅が急に大きくなった。100株分の利益を確定する。残り100株は、出来高が続く限り持つ。1,220円で100株を売る指値注文を出した。
翌20日の月曜日。卒業式を終え、春休みに入っていた。午前9時から自宅で画面を見られる。学校にいる間に約定し、放課後まで結果を待つ必要はない。東央電子は1,100円台から上がり始めた。
1,190円。
1,205円。
1,215円。
1,220円。
午前10時を過ぎた頃、短い通知音が鳴った。
売却 100株
約定価格 1,220円
売却手数料 472円
売却代金122,000円から手数料を引くと121,528円。買った時の手数料472円を200株へ半分ずつ割り振り、100株分の取得費を計算する。
98,000円。
買付手数料の割当236円。取得費98,236円。121,528円から引く。
実現利益 23,292円
譲司は電卓でもう一度計算した。同じ答えが出た。会社から給料を受け取ったわけではない。親から渡された金でもない。自分で会社を選び、注文価格を決め、その差額が現金として残った。
23,292円は、利益であると同時に採点結果に見えた。自分の考えは間違っていなかった。そう証明されたように感じた。通知が出た後も、東央電子は上がった。
1,230円。
1,240円。
1,260円。
売った100株は、約定価格から40円上がっていた。4,000円になる。23,292円を得た直後に、4,000円を失った気がした。保有している残り100株も上がっている。口座全体では増えている。それでも、譲司が見たのは売った方だった。
売る前は、今ある利益が減ることを恐れた。売った後は、その先の利益を受け取れないことを惜しんだ。
同じ100株を持つことと、売ることは同時にできない。当然のことだった。相場では、その当然が毎回、損失のような形で残った。譲司はノートへ書いた。100株を1,220円で売却。実現利益23,292円。
残り100株は保有。売却後、1,260円まで上昇。その下へ書く。全部持っていれば、さらに4,000円増えた。鉛筆で線を引きかけ、止めた。
消せば、利益を確定した判断だけが残る。売った後に何を惜しんだかは消える。母との約束は取引履歴を残すことだったが、履歴だけなら証券会社の画面にもある。ノートに必要なのは、自分が後から変えたくなる部分なのかもしれなかった。
夕食で、初めて実現利益を家族へ話した。焼いた鶏肉を遥が先に取ろうとし、美佐子が皿を中央へ戻したところだった。
「株、売った」
「全部?」
美佐子が聞いた。
「半分。100株」
「いくら増えたの?」
「手数料を引いて、23,292円」
「えーっ、2万3,000円!?」
遥の箸が皿の上で止まった。
「ゲーム買えるじゃん!」
「買わない」
「何に使うの?」
「口座に残す」
「また見せられないお金だ」
「残高なら見せられる」
「数字でしょ」
誠一は鶏肉を一つ取り、譲司を見た。
「何時間かかった」
「数えてない」
「毎日見てただろ」
「見ないと判断できない」
「働いた時間で割れば、時給はいくらだ」
「そういう金じゃない」
「増えた金なら計算はできる」
譲司は箸を置いた。
「時間を売ったんじゃない。どれを買うか決めて、当たったから増えた」
「当たったなら、次も増えるのか」
「同じように動けば」
「同じように動くか?」
「それを見るために記録してる」
誠一はそれ以上言わなかった。褒められなかったことより、時給へ直されたことが引っかかった。23,292円は作業時間への対価ではない。自分の判断が正しかった証拠だった。美佐子は金額ではなく、ノートを見た。
「売る前に書いた?」
「昨日」
「残りを持つ理由も?」
「書いた」
「なら、週末に見せて」
遥はまだ金額を別の物へ直している。
「プリンなら何個?」
「知らない」
「1個100円なら232個」
「税を入れろ」
「お兄ちゃん、そういう時だけ細かい!」
数日後、譲司は小遣いからプリンを4つ買った。口座から500円出せば、次の取引へ使える金が500円減る。それが嫌だった。利益が出た祝いなのに、使ったのは利益ではない。
遥は一番高いものを選び、誠一は普通のでいいと言った。美佐子は自分の分はいらないと断ったため、譲司は4つを会計へ持っていった。
「母さん、いらないって言ったよ」
「4つ買う」
「誰が2個食べるの?」
「母さん」
「いらないって言ったのに!」
「食べなければ俺が食べる」
「それ、母さんの分じゃないじゃん」
家へ戻ると、美佐子は結局、自分の分を冷蔵庫へ入れた。画面の数字が、初めて家の中の物へ変わった。ただし、口座の数字は1円も減っていない。残した100株は、春分の日を挟んだ後も高値を切り上げた。
1,280円。
1,300円。
1,320円。
上がるたびに、もう少し持つ理由が作れた。出来高は続いている。高値も更新している。売る理由が消えたのではない。持つ理由の方を先に探していた。
3月23日の夜、譲司は翌日の売却注文を書いた。前日の上昇幅が大きい。高値から押し戻される時間が増えた。
出来高は多いが、終値の伸びが鈍い。
残り100株を売り、利益を確定する。
指値は1,330円。
翌24日の金曜日、東央電子は午前中に1,300円台へ入った。1,325円まで上がり、押し戻される。指値を10円下げれば売れるかもしれない。譲司は注文訂正画面を開き、閉じた。
前夜に1,330円と決めた理由は崩れていない。早く現金にしたいという気持ちだけで値段を変えれば、注文前に書いた意味がなくなる。昼食を食べた。何を食べたか、後から思い出せなかった。後場が始まって間もなく、通知音が鳴った。
売却 100株
約定価格 1,330円
売却手数料 472円
現金残高 357,584円
東央電子の保有数量は0株になった。300,000円が357,584円へ変わった。増えた金額は57,584円。
全て現金だった。翌日に東央電子が急落しても減らない。2,000円へ上がっても増えない。売るとは、利益を残す代わりに、その後の値動きから自分を切り離すことだった。
保有銘柄の欄が空になる。買う前と同じ画面へ戻ったはずなのに、数字だけが違った。含み益ではない。初めて、売買を終えた後に残った利益だった。
週末、美佐子へノートと履歴を見せた。最初の100株を売った理由。残りを持った理由。最後の100株を売った理由。注文時刻と約定結果が並んでいる。
美佐子は最後の売却理由を読み、日付の横を指した。
「これは注文を出す前?」
「前日の夜」
「途中で値段を変えなかった?」
「変えてない」
「そう」
それだけだった。利益が出たのだから、もう少し驚くと思っていた。少なくとも、今回は疑われずに済むと思っていた。美佐子は利益を否定していない。ただ、利益が出たことと、条件を守ったことを別々に見ていた。
譲司には、まだ同じものに見えた。正しく考えた。条件どおり注文した。利益が残った。
三つは一つの結果だった。喜びより先に、別の計算が始まった。200株で57,584円増えた。2,000株なら575,840円。同じ判断で同じ値幅を取れば、利益は10倍になる。利益が自分の正しさを示すものなら、10倍の利益は、10倍正しかった証拠になるように思えた。
実際に10倍になるのは、正しさではない。利益と損失の幅だった。
だが、損失の方はまだ経験していない。起きていない危険は数字にできても、画面へ出た利益ほど確かなものには見えなかった。東央電子で200株を扱えた。次は300株でも、500株でも、同じように判断できる気がした。株数が増えても、画面に表示される銘柄名は一つだった。読む値動きも、見る出来高も変わらない。
必要な判断は同じで、証明だけが大きくなるように見えた。譲司は東央電子のページを閉じ、値上がり率ランキングを開いた。出来高が増え始めた別の銘柄がある。相場ノートへ、東央電子と同じ点、違う点を二列に分けて書く。
違う点もあった。それでも、目は同じ点へ戻った。一度正しかったことを、次はもっと大きな数字で確かめたくなっていた。
【今回の運用資産推移】
開始時:301,528円
終了時:357,584円
増減額:+56,056円
増減率:+18.59%
取引回数:2回