3月上旬。
冬の厳しさが和らぎ始め、春の足音が聞こえ始めた雄英高校の校長室。
重厚なドアが固く閉ざされたその空間には、ヒーロー界の運命を握るごく一握りの上層部――根津校長、塚内正勝警部、そして公安の極秘捜査官たちが集められていた。
大型モニターに映し出されているのは、膨大なデータと暗号化された極秘ファイル。
手元の資料を一枚一枚めくる塚内警部の指先が、わずかに震えていた。そこに記された内容は、あまりにも緻密で、あまりにも核心を突いていたからだ。
「……公安からの極秘潜入捜査による証言、ヴィラン連合の内部記録、さらには異能解放軍の潜伏拠点や組織図に及ぶ詳細情報……。これらが事実だとすれば、奴らの目論見も、進行中の『超常解放戦線』の全貌も一網打尽にできる……! だが、根津校長。これほどの国家機密級の情報を、一体どうやって入手されたんです?」
塚内が眼鏡の奥の目を鋭くし、真剣な面持ちで尋ねる。
「ふふふ、知りたいかい? 驚いたよね塚内くん……これはね、とびきり甘くて温かい『クリスマスプレゼント』さっ!!」
根津校長はティーカップを優雅に傾け、いたずらっぽく目を輝かせた。
時をさかのぼること、去年の12月24日――クリスマスイブの夜。
『メリークリスマスです、校長先生!!』
『メリクリですー!!』
校長室のドアを開けて入ってきたのは、トナカイの着ぐるみを着た白煙くんと、サンタクロースの赤い衣装に身を包んだ透ちゃんだった。楽しそうに鈴を鳴らす笑顔の二人の姿に、根津校長は目を細めていた。
『やあ、二人とも! クリスマスパーティーは楽しんでいるかい?』
『もちろんです!! あ、校長先生! 日頃の感謝を込めて、僕たちからクリスマスプレゼントです!!』
白煙くんが嬉しそうに、可愛らしくラッピングされた大きなプレゼントボックスを両手で差し出した。
『おや、僕にまで? 嬉しいねぇ、どれどれ……』
校長が受け取ろうと手を伸ばすと、白煙くんは少し困ったように照れくさそうに首をかいた。
『あ、あの……!! 出来れば、後で周りに誰もいない一人だけのところで開けてもらえると助かります。……ちょっと恥ずかしいので』
『そうなんです! エンちゃん手作りのお菓子も入ってて、とっても美味しいんですよー!!』
『ほほう、そういうことなら了解さっ!! 後でじっくり味わわせてもらうよ』
そしてその日の夜、就寝前に校長室の奥で一人になった根津校長は、約束通りプレゼントボックスの包装を静かに解いた。
中には透ちゃんの言う通り、可愛らしくデコレーションされた美味しそうなお菓子がぎっしりと詰まっていた。しかし、そのお菓子の底に敷き詰められていたのは――一冊の重厚なノートだった。
『何だ、これは――』
ページを開いた根津校長は、息をのんだ。
そこに書き連ねられていたのは、黒煙くんの誕生や、精神世界で融合した『黒煙』の記憶から必死に手繰り寄せ、詳細に書き残したヴィラン連合と異能解放軍の闇の記録。アジトの場所、幹部の個性、戦力規模、果ては死柄木弔の覚醒計画に至るまで、文字通り敵の全てがびっしりと記録されていたのだ。
白煙くんにとって、雄英高校で最も聡明で、最も深く信用できる存在こそが根津校長だった。
もし校長先生がヴィラン側と繋がっていたら一発でアウトになるという、あまりにも危険すぎる命がけの賭け。だが、白煙くんはその純粋な信頼で見事に賭けに勝ったのだ。
「……というわけさ! まさかサンタクロースの袋の中に、国家を揺るがす超ド級の機密情報が入っているとは、この僕も心底びっくりさせられたよ!!」
根津校長は現在へと意識を戻し、愉快そうに胸を張った。
超頭脳の個性『ハイスペック』を持つ根津校長は、ノートに記された膨大なデータを即座に精査。その記述に一切の矛盾がないこと、そしてこれが紛れもない本物の情報であることを見抜き、すぐさま塚内警部をはじめとする真に信頼できる極秘関係者のみに情報を伝達・共有したのだった。
「なるほど……白煙くんが命がけで繋いだ情報だったのですね」
塚内警部は感極まったように深く息を吐き、手元のノートを愛おしそうになでた。
「ああ。彼の勇気と信頼に、大人は全力で応えなければならないのさ!」
「だが根津校長、この情報を鵜呑みにするのはあまりにも危険すぎませんか!」
公安の幹部の一人が、机を激しく叩いて立ち上がった。厳格な表情を浮かべる彼の瞳には、強い疑念が宿っている。
「一人のヒーロー科の生徒……それも未熟な高校生がもたらした出所不明の情報です。精神世界で『黒煙』の記憶を見たなど、客観的な証拠としてはあまりに曖昧だ! ヴィラン側の巧妙な情報戦……我々を罠に誘い出すための偽情報である可能性を、どうして排除できるのですか!」
反対派の公安関係者たちが、一斉に頷き合う。国家の安全を担う彼らにとって、出所が『生徒の個人的な記憶』である情報はリスクが高すぎた。
「偽情報、か。確かに普通の生徒ならその懸念もわかる」
そう言って静かに口を開いたのは、塚内警部だった。彼は反対派の幹部たちをまっすぐに見据え、言葉を重ねる。
「だが、白煙薫という少年を私は知っている。彼はアメリカでのインターンにおいても、自己を投げ打って市民と仲間を守り抜いた。何より、今は亡きバックドラフトの愛弟子。彼の誠実さと人望は雄英の教員・生徒全員が認めるところだ。彼が自己の利益や虚栄心のために、このような膨大な偽情報を捏造する動機が一切存在しない!」
「塚内警部の言う通りです」
賛成派の警察幹部も言葉を潜ませながら身を乗り出す。
「根津校長の『ハイスペック』による検証に加え、我々が独自に裏付けを取った異能解放軍の潜伏拠点や資金の流れも、このノートの記述と完璧に一致しています! 仮免試験では『HUC』会長に認められ、我々は新生レスキュー事務所を認めた! そして結果を既に出している! 白煙くんのをもたらした情報は、間違いなく本物だ!」
議論が紛糾する中、今度は別の公安高官が重々しい口調で静寂を破った。
「仮に……仮にこのノートの情報がすべて真実だとしてもだ」
慎重派の幹部が、深い溜息と共に腕を組む。
「ここに記されている敵の戦力規模は常軌を逸している。『超常解放戦線』と名を変えた潜伏勢力は十数万人規模。これだけの規模の敵集団に攻め込めば、もはや局地的なガサ入れや逮捕劇などでは済まない。間違いなく、日本全土を巻き込む『ヒーローとヴィランの全面戦争』になる!!」
「全面戦争……」
会議室に緊張が走る。慎重派の言葉は、その場にいる全員の心に重くのしかかった。
「未開戦の段階でこれほどの決戦に踏み切るリスクを、我々は背負いきれるのか? 失敗すればヒーロー社会そのものが崩壊するぞ!」
「だが! 奴らが死柄木弔の肉体改造を終え、完璧な状態で動き出すのを指を咥えて待つというのか!?」
「だからこそ慎重な期日と作戦が必要だと言っているんだ!」
賛成派、反対派、そして慎重派。それぞれの立場と責任から発せられる激しい議論が、校長室の中で火花を散らす。
その喧噪を遮るように、根津校長がコップのティーカップをソーサーに静かに置いた。カチン、と小さく響いた音に、全員の視線が集中する。
「皆さん、議論は尽きないね。だが、一つだけ忘れてはならないことがある」
根津校長は可愛らしい顔立ちに、どこまでも冷徹で鋭い知性の光を宿して全員を見渡した。
「このノートは、白煙くんと黒煙くんが命を削り、僕たち大人を……ヒーローを信頼して託してくれた『未来へのチケット』だ。彼らが命がけで勝ち取ってくれたこのアドバンテージを活かさずに、何がヒーローか!! 私は一度、今は亡きバックドラフトの信頼を無くしてしまった!! 今でも後悔している!! 慎重になるのは構造の設計だけで十分さ。僕たちは、彼らの勇気に応えて打って出る……それ以外の選択肢はない!!」
根津校長の決断と圧倒的な覇気に、反対派も慎重派も息を呑み、静かに口を閉ざした。
白煙くんがクリスマスに託した一冊のノート。その真偽を巡る大人たちの激論を経て、ついにヒーロー社会全体が「全面戦争」という未曽有の決戦へと動き出そうとしていた。
ヒーローや警察、公安の上層部が緊迫した議論を交わしていたのと全く同じ刻。
群馬県深奥の山中に聳え立つ、超常解放戦線の本拠地である豪華な館。その重厚な廊下の窓辺で、黒煙は漆黒の外套の裾を静かに揺らしながら、手元の手帳に目を通していた。
「ギガントマキア様は眠りにつき停止中。死柄木様はドクターの元でオール・フォー・ワンの個性移植に耐え、荼毘様もまたその近辺で調整中。トガヒミコ様は街へ出て自由行動。ミスター・コンプレス様は次のエンターテインメントのネタ探し。スピナー様は部屋で携帯ゲーム遊び。マグネ様は旧友との再会……。皆様、それぞれの時間を好きに過ごされているようで何よりです」
黒煙の口元には、薄く不気味な笑みが浮かんでいた。
表向きは解放戦線の主要幹部として振る舞いつつも、その冷徹な瞳は組織の歪みと蠢く思惑をすべて俯瞰していた。
「おい、黒煙ッ!!」
廊下の奥からドタバタと騒々しい足音が響き、頭を抱えながら走ってきたのはトゥワイス――分倍河原仁だった。黒と灰色のスーツに身を包んだ彼は、焦燥感を隠しきれない様子で黒煙の前に滑り込む。
「トゥワイス様。どうかされましたか?」
「ホークスが……! ホークスが今、他の幹部どもから怪しまれてて孤立してんだよ! 誰もアイツを信用してねぇ! 最高に怪しい! いや怪しくねぇ!! 俺はアイツを何とか助けたいんだよ!!」
トゥワイスは両手で顔を覆い、支離滅裂な言葉を吐き出しながら必死に訴えかけた。
「ふむ……。ホークス様は現ナンバーツーヒーローですからね。異能解放軍と連合が合流したこの巨大組織において、彼がヒーロー側のスパイだと疑われるのは至極当然の帰結ですよ」
「そうだけどよ……! アイツは俺たちに歩み寄ってくれたんだ! 仲間になろうとしてくれてんだよ! 誰かが信じて抱きしめてあげなきゃ、アイツがかわいそうだろッ!! 俺はもう仲間を見捨てたくねぇんだよ!!」
狂気と優しさが同居するトゥワイスの叫び。黒煙はマスク越しにその顔をじっと見つめた。
「……素晴らしいお考えです。貴方は本当に根が優しく、お人好しなお方ですね、トゥワイス様」
「そうか!? へへっ、照れるぜクソが!!」
黒煙は心の中で静かに息を吐く。
『2倍』という、たった一人で国を滅ぼし、ヒーロー社会を崩壊させ得るほどの規格外の『個性の脅威』を持ちながら、この男は自分のためにその力を一切使わない。底辺まで落ちて、裏切られ、自分を見失いかけた暗闇の果てで、ようやく自分を「仲間」として受け入れてくれたこの場所と仲間を守るためだけに、その能力を振るっているのだ。
「黒煙! お前だってそうだ! もしお前が何かに困ったら、この俺がいつでも力になってやるからな! 任せとけ! 頼るな頼れ!!」
胸をドンと叩いて笑うトゥワイス。その純粋すぎる好意に、黒煙の胸の奥で小さな冷ややかな思考が回転する。
「ええ、お心遣いに感謝します。……もっとも、私はこの社会の『現在』を破壊するという連合の究極目標には反対派ですがね。ですが……泥臭く生きる皆様のことは、決して嫌いではありませんよ」
「ははッ! お前は相変わらず素直で正直だな! そこがいいところだぜ!!」
トゥワイスは悪びれもせず笑い飛ばすと、「ホークスの様子を見てくる!」と言い残して元気よく廊下の向こうへ走り去っていった。
その背中を見送りながら、黒煙の表情から温かみが消え去っていく。
(……トゥワイス様は、あまりにも良い人すぎる。だからこそ、人はそこに付け込む。ナンバーツーのホークス様は……間違いなく、その純粋な善良さを利用してあなたを追い詰めるでしょうね)
黒煙にとって、この世界で守るべき価値があるのは『葉隠透』という少女ただ一人。他のヒーローも、ヴィランも、世界そのものがどうなろうと知ったことではない。
(ですが……泥泥に塗れながらも泥臭く意地を通そうとするヴィランには、ヴィランなりの生き様と美学がある。トゥワイス様のような男が、ヒーローの策略に嵌められて無残に使い潰されるだけの結末というのは……少々、興ざめというものです)
黒煙は手帳をパタンと閉じ、暗い廊下の天井を見上げた。
(大人たちの盤上遊戯は進んでいる。ホワイトが私の記憶を頼りにしてヒーロー側が動くなら……こちらも少しだけ、計画を修正するとしましょうか)
光と闇、ヒーローとヴィラン。互いの情念と策略が複雑に交錯する中、超常解放戦線の館の影で、黒煙は静かに次の一手へと思考を巡らせるのだった。