TS転生系洗脳魔法少女 作:ゆめの
街の一角を覆い尽くす程の影から、同じ大きさの巨大な鯨が出現した。それは大口を開けて影より飛び出し、その中心に集まっていた無数の獣を一口で喰らって、再び影へと落ちていく。
蒼依は、建物も瓦礫も何一つない、目の前に広がる荒れた砂地を見詰めて、思わずため息を吐いた。
「どうしたんです? 蒼依さん」
「いや、魔法少女って、名前だけだよなぁと思って」
この惨状は、蒼依自身が作り出したものだ。
正確には、彼女が使役している魔物——
蒼依のすぐそばには、大人の男程度の体長の狼が一匹と、喋る蠅が一匹。
どちらも彼女の使い魔で、蠅の方は、機構から支給されている魔法少女の監視役兼、助手だった。
「確かに、一般的な魔法少女であれば、死んでもお目に掛かれない光景でしょうからね」
息絶えた魔物の腹部に牙を突き立て、ぐちゃぐちゃと音を立てながら臓腑を貪り食っている狼を眺めながら、蠅が言う。
狼は、蒼依が普段使いしているペットの狼だった。名前はない。食われている方は、名もなき性欲の奴隷、オークだ。
この狼は獰猛な餓狼種で、群れで人々を襲っていたところを、蒼依が対処した。
最後の一匹になっても、逃げだすことなく彼女に牙を剥き、最期まで蒼依の召喚した蠅の群れに抗おうとしていた。その雄姿から、彼に洗脳の魔法を掛け使役したのだ。
「にしても、なんでオークなんかがこんな都市部に?」
「この騒ぎに便乗して、女を攫うつもりだったんだろ」
蠅の疑問に、蒼依は適当に答える。
よく見かけるオークより、二回りほど小柄。それでいて、さらに額の角が恐ろしく小さい。
きっと、どこかの世界にあるオークの集落では落ちこぼれで、迫害されていたに違いない。
「こいつらは、オスしか生まれないんだ。繁殖するためには、異種族のメスをとっ捕まえてきて孕ませる以外に方法が無い」
「へぇ。物知りなんですね、蒼依さんは」
ファンタジー小説では常識のような設定だから、とはさすがに口が裂けても言えなかった。
この世界線の日本には、ファンタジーな魔物が当たり前のように存在している。
存在しているというより、異世界から定期的にやってくる、の方が正しいのかもしれない。逆異世界転移。原理は不明だが。
このオークや、先ほど壊滅させた上級ゴブリンの群れ。それから、蒼依が召喚した鯨の化物まで、実に多種多様な魔物が、人々を襲いにこの世界に出現する。
「魔物使いとして、その生態を把握しておくのは当然の事だからな」
「いい心がけですが、先ほどの群れを対処するのに、鯨を出すのは少々やりすぎでは?」
蠅がない唇を尖らせる。
「いくら使役しているとしても、不死身ってわけじゃない。定期的に何かを食べさせないと、空腹で異常行動を起こしてしまったり、そもそもいつの間にか死んでしまっていたりするんだ」
「……左様で」
特にあの鯨や蛇のような大型の魔物は、その大きさを維持するために大量のエネルギーを必要とする。
先ほどの群れが、鯨にとってどれだけの意味があるのかはわからない。
開けた場所で、かつ獲物が一か所に集まっている時しか使えないという縛りを考えれば、鯨に餌を与えるには絶好の機会だったのだ。
「魔法少女というよりは、魔物飼いですね……」
「だからぼやいたんだ、魔法少女なんて名前だけだよなって」
一般的な魔法少女は、遠距離から火や水、風などの魔法を使い、煌びやかに戦う。中には身体強化の魔法を使い、近接で戦う武闘派もいるが、こちらは稀有な例だ。
それに比べて自分は。
蒼依は自嘲気味に息を漏らし、静まり返った戦場の残骸を見つめる。
その、静まり返った廃墟の空気を切り裂くように。
硬質なハイヒールがコンクリートを叩く音が、静寂の奥から響いてきた。
蒼依は大きく息を吐き、こちらに向かってくる者を思い浮かべて、内心で舌打ちをする。
「——魔法で使役した手駒を使い、自分の手を汚すことなく魔物を駆逐する。当の君本人は、安全圏から傍観しているだけ」
それまで漂っていた魔物の死臭を覆い隠すように、濃厚な香水の香りが蒼依の鼻腔を擽る。
「久しぶりね。お迎えに上がったわ、王女様」
ゆっくりと首を巡らせ、振り返る。
そこに立っていたのは、声音と同じように、皮肉っぽく綺麗に口端を釣り上げた一人の女だった。彼女は冷ややかな、けれどどこか愉しげな視線で、地べたに佇む蒼依を尊大に見下ろしていた。
*
「質の悪い冗談はやめてくれ、
「へぇ? なら君こそ、質の悪い魔法を使うのはやめてくれるかしら」
間延びした優美な物言いとは裏腹に、こちらに対する敵意や悪意の類が、一切隠されていない。
別に隠す気も無いのだろう。
貼り付けられたような笑みが、いっそ不気味に見えてくる。
「これしか使えないんだよ。それで、何の用だ? 仲裁官」
「いつもと一緒よ。君に上からの指令を伝えに来たの。どうせメールなんて見てないでしょうから」
「メール?」
言われて、蒼依は慌てて情報端末を取り出した。
「一向に既読が付かないって、あの子毎日怒ってたのよ? 八つ当たりされる私の気持ちにもなってくれないかしら」
「なら今度から直接電話するように言ってくれ」
言いながらメールフォルダを確認する。
確かに、三日ほど前にメールが届いていたらしい。ただし迷惑メールとして、ゴミ箱に入っていたが。
「先に言っておくが、呼び出しなら私は行かない。分かるだろ、会いたくないんだ」
「わかってるわ。君が群れようとしないのは、近くに他の魔法少女が居ると戦いにくいからでしょう? 巻き込んでしまうものね」
「別にそれだけってわけじゃないけど」
元々アラサーの男だったせいで、小さい女の子との絡み方がよくわからない、とは口が裂けても言えなかった。
「けど、流石に勝手な行動が多すぎるわ。特に今回。君は、君と共闘するようにと派遣された魔法少女二人が死んでから、やっと戦闘に参加した。それまでは遠巻きに、彼女らが死ぬのを見ていただけだったわね」
「それはさっきお前が言った通りだろ。助けられるなら助けたかった。でも巻き込んでしまうから、一緒には戦えないんだよ」
「違うね、それは君の能力不足だ」
狼の頭を撫でながら、朽葉が強く蒼依を制した。狼は満更でもなさそうに彼女に低頭し、くるくると喉を鳴らしている。
「いい、王女様。
あの鯨は大阪に出現した。それからわずか二日で、大阪と呼ばれる地域は消滅。
その数日後には埼玉に出現し、壊滅的な被害をもたらした。
死傷者も行方不明者の数も、他の魔物によるそれとは桁が違う。
魔法少女の殉職者だって、20を超えている。
蒼依にとっても、決して思い出したい記憶ではなかった。
「まあ元々、君を鯨に殺させるために対処に当たらせたんだけどね。こちらの予想と反して、君はあれをペットにしちゃった」
だから余計と手出しができなくなったんだ、と付け足しながら、朽葉は懐から煙草の箱を取り出す。
「ねぇ君、ライターとか持ってない?」
「ねぇよ。あるわけないだろ未成年だぞ今は」
「使えないな。火起こししてくれそうな魔物だしてよ」
「いねぇよ。居ても出さないけど」
蒼依がそう言うと、朽葉は渋々煙草を仕舞い、ガムを一つ口に含んだ。
「まあいいや。けど機構は、やっと君を無力化する方法を開発したんだ」
「というと?」
「魔法を使えなくさせる薬だよ。想像してみて。このままじゃ君は、身近な誰かに毒を盛られて、無力な少女となったところを捕らえられ、一生を地下の檻の中で過ごすことになる」
彼女の表情は、この話がでっち上げたものではないということを語っていた。
それは真剣そのもので、どこか憂いのような物が混じっている。
「話を聞く気になってくれた? ここからが本題なのだけれど」
「いいよ、話してくれ」
「ありがとう、従順ね。なら、単刀直入に言う。君には明日から、とある新人の
「は?」
耳を疑う言葉に、蒼依は思わず眉を顰めた。
同業者と絡まなかったのは、単に子供が嫌いなだけでもあるが、群れて戦わなかったのは、他の魔法少女を巻き込まないためだ。
ただそれだけの理由で、これまで徹底して単独行動を貫いてきた。
それなのに、あえて最悪の相性である「新人」を押し付けるなど、正気の沙汰とは思えない。
「拒否権はないわよ」
朽葉は口の中でガムを転がしながら、蒼依の次の言葉を予想したのか、冷淡に言い放つ。
「これは機構からの『最終通告』を兼ねた温情よ。大人しく指導者を引き受けて、その新人と共に戦果を上げなさい。そうすれば、例の薬の投与は見送ってあげる。それが機構の意思ね。……まあ、表向きの理由は『特級戦力の有効活用と、後進の育成』ってところだけど」
「……裏の理由は?」
「監視よ、監視。君がまたあの鯨みたいなバケモノを勝手に手懐けないようにね。それに、君のその戦い方を間近で見て、新人がどう育つか──あるいは、どう絶望するか。機構の上層部はそれをおもしろがっている節もあるわ」
蒼依の脳裏に、金髪の少女がにひひと笑う姿が浮かぶ。最悪な趣味だ、と吐き捨てそうになったが、喉元で堪えた。
今の彼女は、外見こそ華奢な少女だが、中身はアラサーの男だ。感情に任せて喚いても事態が好転しないことくらいは理解している。
「分かった。引き受けるよ。その代わり、私の戦い方に口出しはさせない。途中でその新人が泣いて逃げ出しても、私のせいにするなよ」
「ええ、それで構わないわ。期待しているわよ、
朽葉は満足げにそう微笑むと、ヒールの音を響かせて踵を返す。
「ああそう、お出迎えに参じたつもりだったけど、ライターがないから先に帰らせてもらうわ」
ふと思い出したかのように振り返り、最後にそれだけ言い残して、瓦礫の街へと消えていった。
*
朽葉の紹介で引き合わされた新人は、絵に描いたような
当の朽葉は早々に、「用事があるから」といって帰り、喧騒が行き交う駅前の広場には、蒼依と見知らぬ少女の二人だけが、ぽつんと取り残される形となった。
気まずい沈黙が数秒落ちる。
それを打ち破ったのは、蒼依ではなく、彼女だった。
「初めまして、 今日から先輩の指導を受けることになりました、星宮
駅前の雑踏を切り裂くような、よく通る真っ直ぐな声。
長めの黒髪を一つ結びで束ね、白を基調としたセーラー服に身を包んだ少女。こちらを真っ直ぐに見つめてくるその真紅の瞳は、まだこの世界の泥に一切汚されていない、純粋な正義感と希望に満ち溢れていた。
正直、直視できない。蒼依は目が潰れそうだった。
「……声がでかい。そんなに張らなくても聞こえてる」
「あっ、すみません……! その、すごく緊張していて。朽葉さんから、先輩はとても優秀で、凄い方だと伺っていたので……!」
「は? 適当なことばかり吹き込みやがって……」
ため息を噛み殺し、蒼依は視線を逸らした。
中身が枯れた男である彼女にとって、目の前で直立不動になっているこの眩しい生き物は、精神的な毒物に近い。
物理的に行動を阻害する毒が、昨日の話にあったあれだとすれば、彼女のような存在は、蒼依の矮小な精神をじわじわと追い詰めるための遅効性の毒だ。
そもそも蒼依は、眩しい青春を描いた学園物のアニメも、甘酸っぱい恋愛系のラノベも読めない。読むと鬱になるのだ。
この世界が物語だったとして、仮に一人だけ主人公が存在するのだとしたら、それは間違いなく彼女のような人間のことを指すのだろう。
蒼依は内心でそう確信し、すでに帰りたくなっていた。
「えっと、よろしく。けど、多分教えられることはないと思う」
「えっ……? それは、どうしてですか……? わたし、物覚えは悪い方かもしれませんけど、体力には自信が——」
「そういう問題じゃない。私が、君が想像しているような普通の魔法少女じゃないからだ」
「普通の、魔法少女じゃない?」
拒絶されたと受け取ったのか、雛那の顔に明らかな不安が影を落とす。
捨てられた子犬のようなその表情に、何故かこちらが少しバツが悪くなってしまった。
自分は何も悪くないというのに、ひどく理不尽だ。
「前途多難ですねぇ。先輩風を吹かせるどころか、初手で心を折りにいくスタイルですか?」
首元から顔の周りにかけてを目障りに飛び回る蠅が、空気を読まずに面白半分の羽音を鳴らす。
蒼依は「黙れ」と心の中で毒づきながら、その声と雛那の視線には気付かないふりをして、「とにかく、これからよろしくね雛那」と早口でまくしたて、逃げるように歩き出した。
「あ、待ってください先輩!」
背後から小走りの小気味よい足音が近づき、蒼依の斜め後ろ、ちょうど二歩ほど下がった位置でぴたりと歩調が合わさる。
揺れるセーラー服の影が、自分の影のすぐ隣に重なっている。振り向かずとも、彼女が自分を逃がさじとぴったりついて歩いているのが、蒼依には分かった。
何も言ずに歩く蒼依に痺れを切らしたのか、雛那が少し声を弾ませて横から顔を覗かせてきた。
「あの、先輩! 普通の魔法少女じゃないって、どういう意味なんですか? もしかして、すごく特殊な属性の魔法を使うとか……?」
「……違う」
「じゃあ、一撃で街を吹き飛ばしちゃうような、禁忌の古代魔法とか!?」
「アニメの見すぎだよ。そんなものはない」
歩く速度を落とさずに冷たくあしらうが、雛那はめげる様子もなく、「じゃあどうして」と小首を傾げている。その無垢な好奇心の瞳が鬱陶しくて、蒼依は前を向いたまま声を低くした。
「現実的な話だよ。私の魔法は、君が憧れるような煌びやかな物じゃないし、アニメみたいな、阿呆臭い変身ごっこでもない。ましてや隣で共闘して背中を預け合えるような代物でも。ただそれだけだ」
「変身ごっこだなんて、そんなこと思ってません! わたしだって、覚悟を決めてここに来たんです!」
いうと、雛那の少しムッとしたような声が返ってくる。
その語気に含まれた熱量が、蒼依にはひどく眩しくて重かった。
時折、高いビル群に四方を囲まれた東京の街並みを珍しそうに見上げては、「ほう」と小さく嘆息している彼女の横顔を視界の端に捉える。
「すごい。ビルが、空まで届きそうですね。人も、お祭りの日みたいにたくさんいて」
「視界も日照りも悪いし、おまけに夏は、アスファルトの照り返しで死ぬほど熱くなる。こんな景色、三日もすれば見飽きるし、それどころか恨みすら湧いてくるよ」
どこかで聞いた、美人は三日で飽きる、という言葉を蒼依は思い出していた。ならブスに一日目などないだろと冷静に突っ込んだが、この東京は果たしてブスなのか美人なのか、どっちなのだろう。
素っ気なく返すが、雛那の真紅の瞳は、やはりキラキラと街の景色を反射していた。
白く透き通った柔い頬と、整った目鼻立ち。その瞳の奥には、上京したての浮かれた感情だけではない、希望とも決意ともつかない「何か」が宿っているような、確かな光がある。それを見るたびに、蒼依の枯れた胃はキリキリと嫌な音を立てて痛んだ。
「わたし、海沿いの小さな港町に住んでたんです」
彼女がぽつりとそう語り始めたのは、慣れない光属性の空気に当てられ、蒼依がすっかり歩き疲れ、見つけた公園の古びたベンチに腰を下ろした時の事だった。
*
「わたしの故郷は、魔物によって滅ぼされました。本当に小さな港町だったから、県も国も、早々に支援を打ち切って。結局、最初から何もなかったことにされたんです」
ベンチの端に腰掛けた雛那は、膝の上でスカートの生地をきつく握りしめながら、ぽつりとそう零した。
それが、彼女が魔法少女という茨の道を選んだ動機──いや、彼女を突き動かす呪詛そのものであるとでも言いたげな、痛々しいほど決意に満ちた表情だった。
蒼依は何も言えず、内心でひどく苦いものを噛み潰す。
大々的に報じられ、きらびやかな魔法少女たちによって救われたと称賛される大都市の影で、どれほどの命が名前すら残されずに
「誰も助けに来なかったのか」
蒼依が低く問いかけると、雛那は自嘲気味に視線を落とし、膝の上の拳を白くなるほど強く握りしめた。
「魔法少女が一人だけ。けど彼女は、魔物に体を引き裂かれて、私の前で、生きたまま食べられました」
雛那の呼吸が浅くなる。小さく上下する肩を必死に宥めながら、まるで昨日の事のように、その光景を語り出した。
「……物陰から魔物が押し寄せてきて、みんなパニックになって逃げて。わたし、怖くて足がすくんで、瓦礫の陰から動けなくなっちゃったんです。そこに大きな魔物の手が振り下ろされて──あの日、わたしは確実に死ぬはずでした。でも、その人が身を挺して、わたしを突き飛ばして、代わりに」
彼女の語る追憶は、しかし、よくある話だった。それでも、実際に経験した彼女にしてみれば、人生を変えてしまえるだけの意味を持つ、重く苦しい過去なのだろう。
「わたしを庇わなければ、あの人は死なずに済んだんです。寸前で避けて致命傷は避けたみたいだったけど、その代わり足を持っていかれてしまって。動けないせいで戦うこともできなくて、そのまま、私の前で頭を喰われて動かなくなりました。あの町だって結局救えなくて、最初から何もなかったことにされたんです」
冷徹な話をすれば、国家や防衛機構にとって、救うコストに見合わない小さな命は、ただの切り捨て可能なデータに過ぎない。国というマクロな尊厳を守るためには、どこかを切り捨てなければならない。それが世界の合理性だ。だが、自分を庇って死んでいった「誰かの命」の重みを背負わされた当事者にとって、捨てられたという事実を割り切ることなど、そう容易ではない。
「それだけが魔法少女になった理由ではないですけど、でも、もしあの時わたしがもっと強くて、何かを為せるだけの力があれば、町は無理だったとしても、少なくともあの人は死なかったって、今でもずっと思うんです」
雛那は固く握りしめた拳をさらに強く震わせ、爪が手のひらに食い込むほどに力を込めていた。その横顔を見つめながら、蒼依は彼女の瞳に宿る光の正体を理解する。それは綺麗な無垢の正義感などではない。
もっと暗く、深い。自分自身の身を内側から焼き尽くし、消し去ってしまいそうなほど苛烈な──「自分が代わりに死ぬべきだった」という、生存者の重すぎる後悔だ。
けれど、蒼依は知っている。後悔を起点とした決意は、さらなる後悔と、決して拭う事の出来ない、底なしの絶望を生むだけだ。
そうして重ねられた無数の変えられない過去という呪縛に、彼女はいつか押し潰される。
これはそう遠くない未来に起きることだ。彼女にはその確信があった。
「ごめんなさい、暗い話して。引いちゃいましたよね」
「……いやただ、どうしてそれを私に?」
「あ、えっと……朽葉さんに、先輩と組むなら、動機だけは最初にちゃんと話しておけって言われてたんです」
「朽葉に?」
思わず眉をひそめ、蒼依の声のトーンが落ちる。雛那は彼女の反応にビクッと肩を竦め、申し訳なさそうな表情で、行き場を失った指先をしきりに弄びながら小さく肯いた。
「あの王女様は、自分の手を汚さないくせに他人の覚悟には敏感だから。最初にその薄汚い内臓を曝け出して見せなさい。そうすれば、あの甘ちゃんな中身はあんたを捨てられなくなるわ、って、言われて」
「……」
蒼依は天を仰ぎ、盛大なため息を吐き出した。
笑えばいいのか、怒ればいいのか分からない。朽葉のことだから、どうせいつものように面白おかしく、冗談めかして吹き込んだのだろう。だが同時に、胸の奥が冷えるような感覚もあった。
彼女とは数年の付き合いがある。それでも未だに、あの女のまるで質量のない言葉や、飄々とした態度の真意に、一度だって触れたことが無い。
「本当に、悪趣味な女だよ」
「えっ? あの、すみません、わたし何か変なことを……」
「ああいや、君じゃなくて朽葉の事で」
「……ああ、なるほど」
「そんな周りくどい事をしなくても、私は君見捨てないよ。仕事であれば真面目にこなすのが道理なんだから。って朽葉に言っておいて」
雛那はその言葉を聞くと、それまでの強張った表情をふっと緩めた。
年相応のどこか儚げな、けれど今度は確かな温かみのある笑みが、その白い頬に浮かぶ。
綺麗事の同情や「可哀想だから助ける」といった生ぬるい言葉よりも、「仕事だから見捨てない」という絶対的な割り切りの方が、彼女にとってはよほど信頼に値する物に思えたのだろう。
「……伝えておきます」
雛那はそう小さく肯き、それ以上は口を開こうとしなかった。ただ、遠くを見つめる真紅の瞳からは、先ほどまでの刺すような鋭さは消え、静かな凪のような光だけが残されていた。
*
それからの二日間、蒼依は徹底して彼女と距離を置こうと試みた。
指導者らしいことなど何一つ教えず、ただ機構から送られてきた分厚いマニュアルを放り投げ、「読んどいて」の一言で済ませた。
だが、星宮雛那という少女は、蒼依が思っていた以上にタフで、そして致命的に真面目だった。
どれだけ適当にあしらおうとも、彼女は目を輝かせながら、蒼依のどうでもいい会話や自堕落な生活についてノートを取り、彼女の歩幅の二歩後ろを、ノート片手にぴったりと付いて回った。中身の枯れた蒼依にとって、その純粋な熱意はやはり胃が痛むものでしかなかったが、仕事である以上、追い払う大義名分もなかった。
そして、彼女と初めて会った日から数えて二日後の夜明け前。魔物の出現を告げるアラートが鳴る。
静寂を切り裂いたけたたましい警告音と、引き裂かれた時空の歪む甲高くも鈍い音。
機構からのバックアップはなく、現場へ急行せよという冷ややかな一文だけが、蒼依の情報端末に、気味の悪い程にポップな字体で表示されていた。
蒼依は、「行くよ、雛那」とだけ呼びかけて、壁に掛けられた薄灰色のローブを羽織った。