TS転生系洗脳魔法少女 作:ゆめの
けたたましく、誰かの悲鳴のような甲高いアラートが工業地帯に鳴り響く。赤黒い警告灯が、迫り来る危機の予兆を告げるように点滅していた。
場所は東京湾の埋立地。どこまでも無機質な灰色のコンクリートが広がる、広大な工業地帯の一角だ。重油と潮の匂いが混ざり合う澱んだ空気の中、空間がガラスの割れるような音を立てて歪み始める。
その「亀裂」から這い出てきたのは、禍々しい灰褐色の甲殻を持った、巨大な多脚の魔物――
そして、その群れの中心に文字通り君臨するのは、乗用車ほどの巨体を誇る、泥岩蟹の上位種
「雛那、できる?」
蒼依が問いかけると、雛那は小さく、だが覚悟の決まった表情で深く肯いた。
蒼依はその返事を見届けると、すぐに安全なコンクリートブロックの影まで下がり、戦況を一望できる位置に身を潜めた。
意地悪で言っているわけではない。蒼依のような「魔物使い」が下手に前線に出れば、彼女の戦線を阻害する足手まといになるか、あるいは蒼依の操る魔物と、押し寄せる蟹の群れ、そして雛那自身が入り乱れる最悪の三つ巴の構図が出来上がってしまうからだ。
それに、蒼依の知る唯一の魔法少女は、一人でもこの地獄を切り抜けられるだけの実力を持っているはずだった。
「——行きます……!」
雛那は緊張に血の気を引かせながらも、力強く地を蹴った。
その華奢な手に握られているのは、陽光を反射して白銀に輝く細身の長剣。彼女の魔法は、その刃に高密度の魔力を収束させて放つ、身体強化の一種だった。遠距離への攻撃手段を持たない、純粋な近接・中距離戦闘魔法。だからこそ、その破壊力は凄まじい。
「――っ!」
烈風を巻き起こし、雛那は先行する泥岩蟹の群れへと単身突っ込んでいく。
その動きは、目にも留まらぬほど鋭かった。
一閃。
白銀の軌跡が宙を舞い、泥岩蟹の堅牢な甲殻をバターのように両断する。肉と殻が裂ける嫌な音が響き、緑色の返り血がコンクリートに飛び散った。彼女は怯むことなく、舞うようにステップを踏みながら、次々と魔物を切り伏せていった。
かつて故郷を滅ぼされたという激しい怒りと、過酷な運命の中で手に入れた力への自負。それが、彼女の身体を衝動的に突き動かしているようだった。
だが、本物の戦場はそこまで甘くはない。
じりじりと包囲網を狭め、距離を詰めていた大泥岩蟹が、地響きと共にその巨体を激しく震わせる。人間の胴体など容易に両断し、圧潰できるであろう巨大な鋏が、凄まじい風切り音を立てて雛那の頭上へと振り下ろされた。
「くっ……!」
雛那は咄嗟に剣を構え、刃の面でその質量を受け止めようとした。
しかし、あまりにも質量と運動エネルギーが違いすぎた。
激しい火花が散り、金属が限界を迎えて軋む、悲鳴のような金属音が響き渡る。大泥岩蟹の圧倒的な一撃は、雛那の華奢な身体を紙切れのように容易く弾き飛ばした。
彼女の身体はコンクリートの地面を何度もバウンドし、凄まじい衝撃と共に、背後にあった瓦礫の山へと激突した。ガラガラと音を立てて崩れるコンクリートの破片が、彼女の身体を埋めていく。
これが、身体強化という魔法の最大の欠点だ。
いくら出力が高く、身体が強化されているとはいえ、その膨大な力を完璧に扱う技術まで同時に手に入るわけではない。強すぎる力を制御し、熟練するには、まず身体の正しい使い方を骨の髄まで覚えなければならない。その上で、強化された身体と長剣を最大まで活かす独自の剣術を、死線の中で自力で編み出さなければならないのだ。
「……ひゅ、う、あ――」
胸部への強烈な打撃により、肺の中の空気を強制的に吐き出され、雛那はまともに呼吸すらできずにその場に蹲った。
泥まみれになりながら立ち上がろうとするが、全身を襲う激痛と衝撃の余波で、神経が身体の自由を許さないのだろう。
そこへ追い打ちをかけるように、大泥岩蟹が無数の脚をガチガチと蠢かせ、瓦礫の中の彼女を見下ろすようにじわじわと迫ってきた。
「あ、あ、大、きい……」
雛那の瞳に、明確な「恐怖」が滲んだのが見えた。
見上げるほどの異形の巨体。容赦なく降り注ぐ剥き出しの殺意。
その光景が、雛那の脳裏の奥底に焼き付いていた、かつて故郷を無慈悲に滅ぼした魔物の記憶を呼び覚ましたのだろう。
恐怖。それは圧倒的な、生存本能による拒絶反応。
雛那の身体はガタガタと小刻みに震え、命綱であるはずの剣を握る手から、じわじわと力が抜けていく。戦うことも、逃げることも忘れた少女は、ただ迫り来る死のハサミを前にして、怯え、硬直するしかなかった。
「いいんですか、助けてあげなくて」
蒼依の肩のあたりで、使い魔である蠅が羽音を響かせながら、どこか楽しげにそう呟いた。
「……もっとぎりぎりでいい。できればこの恐怖に心を折られて、自主的に魔法少女を辞退してくれた方が、私としても都合がいいしね」
「……人の心とかないんですか?」
「あるから言ってるんだろ。近接系の魔法少女の生存率は、戦線投入から半年で20パーセントを切るんだよ」
属性魔法や遠距離魔術で安全圏から戦う魔法少女に比べて、前線で刃を振るう近接系は圧倒的に死にやすい。
理由は極めて単純だ。その役割が、敵の攻撃を引き受けるヘイトタンクか、肉薄して命を削るメインアタッカーになるからだ。敵の最大攻撃の間合いに常に身を晒し続けるのだから、生存率が絶望的になるのは火を見るより明らかだった。
「——や、やめ、」
大泥岩蟹の鋏が、彼女の頭上、あと数メートルというところまで迫る。
その刹那、大泥岩蟹が鼓膜を震わせる名状し難い咆哮を上げ、一気にその刃を振り下ろした。
ガシャアアアン! と衝撃音が響く寸前、影色の触手が地面から無数に噴出し、その巨大な鋏をガッチリと受け止めた。
「え、……?」
雛那が信じられないものを見るような、呆然とした声を漏らす。
彼女の眼前に迫っていた大泥岩蟹の巨大な鋏は、肉眼では捉えきれない速度で地面の影から突き出た触手群に絡め取られ、寸前で完全に静止させられていた。
「蒼依さん、あれは……?」
「スライムの亜種みたいなもの。って言ってもわからないか。とにかく物理攻撃が一切通用しない、あいつら甲殻種にとっては天敵だよ。ただ知能が全くないから、全部私が操作しないといけないんだけどね」
「……普段からあれを使えば、いつでも魔法少女と共闘できたじゃないですか」
「それが、一ミリでも触るとその瞬間に肉が溶けるんだ」
スライムの身体とは、極論すれば歩く巨大な消化管そのものだ。有機物に触れた瞬間に強制的な消化が始まり、それを途中で止めたり、溶解度を抑えたりすることは、使用者である蒼依の制御下にない。
「周囲の味方に決して触れないように細心の注意を払いながら、敵の身動きだけをピンポイントで止める。そんな繊細な芸当ができる人間がこの世にもしいるなら、是非教えてほしいよ」
突き出た触手は、まるで生きた泥そのものだった。
光を吸い込むような不定形の黒い粘性液体が、大泥岩蟹の鋏にねっとりと絡みつき、その凄まじい質量と怪力を力任せに受け流している。大泥岩蟹は狂ったように何度もハサミを振り回し、あるいはその強固な脚で触手を踏み潰そうとするが、実体のない影を攻撃するようなもので、そのすべてが虚しく空を切った。
「足りないか」
小さく呟き、さらに影から這い出る触手の量を増やしていく。
ドロドロとした黒い質量が大泥岩蟹の足元から這い上がり、次第にその巨大な身体は動きを封じられていく。やがて、乗用車サイズの大泥岩蟹のすべてが、黒い粘性生物によって網目状に完全に覆い尽くされた。
蒼依はゆっくりとコンクリートブロックの影から立ち上がり、足のすくんだ雛那の元へ歩み寄った。
「立てる?」
すっかり腰の抜けてしまったらしい雛那は、涙目で小さく肯くばかりで、とても自力で立ち上がれるような状態ではなかった。
「前に言った通り、私に教えられることは何もないし、何の参考にもならない」
言いながら、蒼依は大泥岩蟹を拘束する粘性生物の密度をさらに高めていく。
「これ、先輩が……?」
「うん」
「そんな、わたし、」
雛那は、震える手で地面をのたうち回る影色の泥を凝視していた。
彼女が全身全霊をかけ、命を削るようにして戦った大泥岩蟹。それが今、蒼依の手によって、まるで玩具のように容易く無力化され、身動き一つ取れずにいる。
その圧倒的な差に、彼女の自負心は音を立てて崩れていくようだった。
「……属性魔法を使える魔法少女なら、ここから派手な一撃で消し去るんだろうけどね。生憎、私のはそういう煌びやかな代物じゃない」
蒼依は片手を軽く突き出し、大泥岩蟹を覆う粘性生物へ意識のすべてを集中させる。
だが、身体全体を固く覆っている蟹の強固な外殻を、外側から強引に消化することはスライムの酸でも不可能だ。かといって、外殻の僅かな綻びを狙い撃ちして泥を滑り込ませることも、彼女にできる範囲を超えている。
内心で舌打ちをし、蟹の体に触れている部分のスライムの制御だけを、意識的に外す。例えるならば、両手で複雑なピアノの旋律を弾きながら、同時に足で格闘ゲームのコンボを決めるような、そういう感覚だ。
黒い触手は、甲殻の継ぎ目、関節のわずかな隙間、そして剥き出しになっている不気味な複眼などから、容赦なくその体内へと侵入を開始し——。
「ギ、ギギギ……ッ!?」
大泥岩蟹が狂ったように悲鳴を上げる。
その隙を逃さず、開いた口から一気に大量の黒い泥が体内へと滑り込んでいく。
内側から臓腑をドロドロに侵食される圧倒的な激痛に、大泥岩蟹は狂ったように巨体をのたうち回らせ、身悶えした。だが、どれほど巨大な鋏を振り回そうとも、掴むことすらできない「泥」を体内から追い出す術など存在するはずがない。
やがて、乗用車ほどもあった巨体は、抵抗する力さえ失い、ずるずると粘性生物の底へと沈んでいった。
周囲に取り残されていた数匹の泥岩蟹の群れは、主の死を悟り、蜘蛛の子を散らすように素早く逃走を開始。空間の歪みの向こう側へと、そのすべてが這いずるようにして消え去っていった。
アラートだけが遠くで響く静寂。
戦場に残されたのは、雛那が最初に殺した数匹の泥岩蟹の死骸と、高度粘菌によって中身を綺麗に捕食され、空っぽになった大泥岩蟹の巨大な甲羅。
そして、ただただ力なくコンクリートの地面にへたり込み、絶望と恐怖に小さく震える少女だけだった。
「……わたし、また、何も……」
雛那は白銀の長剣を握りしめたまま、拳を固く震わせ、自身の膝を見つめていた。その真紅の瞳は寂しそうに伏せられ、悔しさと、己の無力さに対する自責の念が、張り詰めた空気となって彼女の全身から刺すように伝わってくる。
その瞳は、今にも押し潰されそうだった。
蒼依は、自分の影へと粘性生物を完全に還すと、彼女の前にしゃがみ込み、視線の高さを合わせた。
「何もできなかったわけじゃないよ」
「……え?」
不意に投げられた言葉に、雛那は弾かれたように、俯いていた顔を上げた。
「君はその力で、一人で、何匹もの蟹を殺した」
蒼依は、雛那がその手で切り伏せた、数匹の泥岩蟹の死体に視線を移す。
そのほとんどは、両断されていた。堅牢な甲羅ごと真っ二つに体を裂かれ、恐らくはその一撃で絶命している。
「でも、わたし、最後は恐怖で動けなくなって。あいつを目の前にして、足が竦んで、死ぬかもって、」
「まあ、私が止めなかったら、君は間違いなく死んでたよ」
蒼依は彼女の手元に視線を落とした。白銀の剣を握るその手は、まだ細かく震えている。
「わたしは、人を守れるだけの強さが欲しくて、魔法少女になりました。綺麗事かもしれないけれど、そうでもしないと、生き残ってしまった事を、許せなくて。だから、」
「現実はゲームみたいに、結果だけが出力されるわけじゃない。最初から完璧にできる奴なんて、薄っぺらい思想をした、素人の書くチート主人公くらいしかいないんだよ」
「主人公……?」
チートってなんですか? と、蠅が耳元で言うのを無視して続ける。
「この世界は物語なんかじゃない。君も私も、死ぬときは死ぬただの凡人だし、魔物からすれば、脆い肉塊でしかない」
そうじゃなくとも。仮にそれが人間相手であれば、自分より立場の下の者なんて、いいように使って然るべき駒だ。いっそ魔物よりも質の悪い、理性と策謀と欲求からなる凄惨な仕打ちを受けることになる。
「わたしは、強くなりたいです。人を守れるだけの強さが欲しい」
「そう願ってる内は強くなれないよ」
昔、絵を描こうとしたことがある。自分の脳内にある美少女たちを描き起こして、ちやほやされたかった。
けど現実はそう上手くはいかなかった。
数枚描いて、自分には才能が無いのだと諦めた。
それから先は何もかも、やる前からやれないと決めつけては、行動しない理由を探した。
「弱さは人を生かすけど、強さは人を殺す。君を逃がすために死んだ人達だって、自分が何もできない事をわかっていたからこそ、囮になって君が逃げる時間を稼いだ」
生きるとはそう言う事だ。
臆病で繊細で脆い。それを自覚し、逃げ回り、その果てで見せた敵の一瞬の隙を突いて、生き残る。
この世の長所と短所は、全て言葉遊びに過ぎない。どんな長所だろうと、裏を返せば短所になりうる危うさを持つ。
必要なのは、それを理解し行使する能力であり、考え方なのだ。
「人間如きにできる事なんて限られてるから。何度も背を向けてやり直しながら、時には何かを捨ててでも本懐を遂げるの。その捨てる物が自分の命か、あるいはそれ以外だったとしてもいい。多分、目的のために何かを捨てれることそれ自体が、強さなんじゃないかな」
雛那は、はっと息を呑んだ。そして、ぐっと拳に力を込め、その手の震えを自らの意志で捩じ伏せる。
「君の言う強さが何かは知らないし、これは私の考えだけど。驕って無謀になるのは、強さじゃなくて愚かさだよ。愚鈍は癒えぬ病だ」
「……そう、ですね。わたしは、弱いです。けど、弱いから何も守れないんじゃない」
守り方を知らないのだ。
己を弱さを、強さに転じる方法を知らない。
「ありがとうございます、先輩。助けてくれて」
「いいよ、言葉を交わしたことのある相手に目の前で死なれると、寝覚めが悪いだけだから」
「……そうですね」
そう言うと、雛那は笑った。
言い終えてから、少し後悔した。
魔物に戦わせているだけの逃げ腰の雑魚が、こんな尊大な事を言うのは身の程知らずだったかもしれない。
そもそも、恰好付けれるほど、蒼依は優秀ではない。
「意外といい先輩じゃないですか、王女様」と蠅が挑発するように言うのを、八つ当たりするように右手で叩き落とす。
痛っ、と短い羽音を残して、蠅がコンクリートの床へと落ちていく。
「行くよ、雛那」
蒼依は薄灰色のローブを翻し、それ以上何も言わずに歩き出した。
冷淡に、突き放すように聞こえたかもしれない。けれど、自分にできる事はせいぜいこの程度だ。
戦いの細かい所作について彼女に教える事なんて何もなく、魔法の扱い方なんて感覚的な物を、人に寄り添って言語化できるほど賢くもない。
背後から、衣擦れの音と、白銀の長剣を鞘に収める硬質な音が聞こえた。
「はい、先輩!」
一歩、二歩と、こちらに近づいてくる足音が響く。
(……チート主人公、ねぇ)
歩きながら、蒼依は内心で自嘲気味につぶやく。
異世界から魔物がやってくるこの世界で、自分は特級魔物――あの影色の鯨を使役した。機構の上層部から見れば、蒼依こそがそのチート主人公のように見えているのかもしれない。
だが、現実はそんな都合のいいものじゃない。
あの
少し離れた位置から魔物を操っているとはいえ、その距離は一般的な魔法少女の間合いとそう変わらないし、それ以上離れれば、制御ができなくなる。
魔物が自分の存在に気付き、全てを振り払ってこちらに向かって来れば、まず間違いなく自分は死ぬだろう。その綱渡りの中で、生きなければならない。
「あの、先輩」
半歩後ろを付いてくる雛那が、少しだけ声を弾ませて呼びかけてくる。
「どうかした?」
「わたし、これからもっと先輩を観察します。さっきの触手も、普段出してる魔物たちも、きっと繊細な魔力制御の上に成り立ってるものなんだって思って」
「……好きにすればいいよ。魔法の事は何も教えられないけど」
「いいんです、それで。見て学びますから。自分で考えてものにしないと意味がない、でしょう?」
前を歩く蒼依には見えないが、きっと晴れやかな表情なのだろう。
叩き落としたはずの蠅がいつの間にか
「いいんですか? やめさせるつもりだったのに、あんなに希望を持たせて」
「そのうち私を護衛させるよ。それに彼女がいなくなっても、後釜が来るか地下に幽閉されるかのどっちかだし」
「とかいって、ちょっと楽しんでるじゃないです――」
言い終える前に、蠅を黙らせる。
「何か言いましたか?」
その蒼依に、雛那が不思議そうに問いかけた。
「何も言ってないよ。蠅が周りを飛んでて目障りだっただけ」
「……? そうですか」
今になって思い出したが、機構から支給される使い魔は、自分以外には見えないし、その声も聞こえないらしい。
長い事朽葉以外の誰とも話していなかったから、完全に忘れていた。
*
東京に越してきてから、雛那の下宿先は未だに決まっていなかった。
というのも、魔法少女になったばかりで経験が浅く、その上未成年である彼女を、受け入れてくれる大家がいなかったのだ。
初日から蟹と戦うまでの二日を除けば、この数日はネットカフェで暮らしていたようだったが、どうやらそれでは、入金額より出金額の方が多いらしい。
このままでは一カ月持たずに金が底を付き、晴れて路上生活者の仲間入りになってしまう、とインターホン越しに、深刻な表情で迫られた。
「朽葉に頼んで泊めてもらえば?」
というと、「煙草臭いから嫌です」と即答された。
蠅が生温い目で蒼依を見詰めている。
かといって、自分の部屋に居候させるのは、どう考えても精神が持たない。
自分が金を出してネカフェ生活を支援してあげてもいいが、自分は自分で、別に腐るほど金があるわけではないのだ。
そもそも、蠅と同居するだけでもストレスが溜まるのに、視界に大きな影を落とす人間の、しかも女の子と二人暮らしなんて、耐えられるわけがない。
どうしようかとあれこれ思索していると、雛那が口を開いた。
「……しばらく、泊めていただけませんか? 家事ならしますし、一応学生だから、家には夕方しかいないし、」
「いや、」
「本当に、なんでもするので、」
「……」
頼まれると、なかなか断れない。昔から、それこそ前世から続く、蒼依の悪癖だ。
善意は時に悪意よりも鈍い痛みをもたらすし、優しさは時に冷酷さよりも残忍な最期を迎える。
けれども、それを跳ね除けた時に相手が見せる落胆した顔に耐えられるだけの強さが、自分にはないのだ。
「お願いします、どうか……!」
「……わかった、ほんとに数日だけね」
「ほんとですか! ありがとうございます……!!」
こうして断り切れずに、雛那との同居が始まった。