獣人アパートの前に、白い引っ越しトラックが停まっていた。荷台から降ろされた段ボールが建物の前へ次々と並び、側面には太い油性ペンで『調理器具』『炭酸水』『酒』『割れ物・酒』『酒・すぐ開ける』と書かれている。
その横で、氷川角子は大家へ丁寧に頭を下げた。
「本日からお世話になります。氷川角子です。よろしくお願いいたします」
「ああ、よろしく。何か困ったことがあったら、遠慮なく言ってくれ」
「ありがとうございます。仕事の都合で帰宅が遅くなる日もありますが、なるべくご迷惑をかけないようにします。ごみ出しや共用部分の使い方も、決まりがあれば守りますので」
淡い色のブラウスに黒いパンツ。長い髪は後ろできちんとまとめられ、尻尾も大人しく足元へ沿っている。受け答えもしっかりしていたため、大家は久しぶりに肩の力を抜いた。
「氷川さん、こちらの電子レンジはどこに置きます?」
引っ越し業者の一人が、両腕で古びた電子レンジを抱えていた。白かったはずの外装は黄ばみ、操作表示の半分ほどが擦れて消えている。扉の取っ手には黄色いガムテープが巻かれ、運ぶたびに中から何かが小さく転がる音までした。
「炊飯器の近くへお願いします」
「これ、まだ使えるんですか?」
「使えます。扉を少し強く押さえる必要がありますが、加熱には問題ありません」
「押さえるんですか」
「はい」
業者は電子レンジを抱えたまま大家を見た。大家も黙って電子レンジを見る。
「買い替えたほうがよくないか?」
「いえいえ、まだ温まりますので」
「そうか……」
まだ温まるらしい。
少なくとも、今すぐ火を噴きそうには見えなかった。
電子レンジの後には、小型の炊飯器が二台、卓上コンロ、鍋、フライパン、包丁、金属製のボウルが続く。家具らしくないスマートフォン用の三脚まで運び込まれたところで、業者の一人が荷台の奥を覗いた。
「残りは全部、飲み物ですね」
「はい。瓶は壁際へお願いします」
「空瓶もですか?」
「それも同じ場所で」
中身の入った角瓶や業務用の炭酸水、ハイボール用品が部屋の一角を埋めていく。最後に運ばれた箱からは、空になった角瓶が何本も顔を出していた。
大家は玄関から室内を覗き込む。
「ずいぶん酒が多いな」
「料理が趣味なんですよ」
角子は穏やかに答えた。
それだけは本当だった。
「酒を使う料理も多いので、少し多めに置いています」
「そうか。料理ができるなら、自炊には困らなそうだな」
「はい。毎日のように作っています」
大家が頷く。その向こうでは、引っ越し業者が畳の中央へ薄い耐熱板を置いていた。
「こちらでいいですか?」
「もう少し中央へお願いします。三脚から手元が映らなくなるので」
「分かりました」
耐熱板の上へ炊飯器と卓上コンロが並び、その隣にはまな板とボウル。スマートフォン用の三脚は、畳の中央を見下ろす位置へ立てられた。
一方、寝具の箱は部屋の隅へ積まれ、衣類の箱も玄関のそばに置かれたままだった。
「机が届いてから料理したほうが、やりやすくないですか?」
「畳のほうが落ち着くんです」
「そうですか」
「はい」
角子は真顔だった。
業者はそれ以上、何も言わなかった。
最後の荷物を運び終えると、角子は伝票へ丁寧に署名し、作業員一人ひとりへ頭を下げた。玄関先では、大家からごみ出しや騒音についての説明も受ける。
「夜はあまり大きな音を出さないようにな。それと、火の始末には気をつけてくれ」
「承知しました」
大家は室内の卓上コンロと、古びた電子レンジを見た。
「畳だからな」
「耐熱板を敷いています」
「そういうことじゃないんだが……まあ、頼むぞ」
「はい」
受け答えだけなら、何の問題もなかった。
大家と業者が帰り、玄関の扉が閉じられる。トラックのエンジン音も遠ざかり、部屋の中には角子一人が残った。
畳の上には、寝具、衣類、日用品、洗面用品と書かれた段ボールが積まれている。カーテンもまだ取りつけておらず、今夜どこで寝るかも決まっていない。
角子はしばらく荷物を眺めたあと、玄関脇に置かれた箱へ手を伸ばした。
『酒・すぐ開ける』
寝具ではなかった。
「片付けは明日でいいですね」
角瓶と炭酸水を取り出し、空の段ボールを横倒しにする。その上へステンレス製のジョッキとガラスの灰皿を置けば、机としては十分だった。
少なくとも、角子には。
髪を留めていたゴムを外し、ブラウスの袖を肘までまくる。裾もパンツから引き出すと、そのまま畳へあぐらをかいた。
続いてスマートフォンを三脚へ固定し、画角を確認する。畳、炊飯器、卓上コンロ、まな板、角瓶。少し離れた場所には、まだ開けていない寝具の箱まで映り込んでいた。
「まあ、いいでしょう」
配信開始のボタンを押す。
てっててれー。
妙に耳へ残る安っぽい電子音が流れ、画面下へ白い字幕が表示された。
『nyanyanya 生放送を開始しました』
「どうも、nyanyanyaです。今日は引っ越し記念で……と」
角子は画面を覗き込みながら、配信タイトルを入力する。
『新居で引っ越し祝いの料理を作ります』
すぐに画面の端へコメントが流れ始めた。
《引っ越しおめ》
《新居きれいじゃん》
《畳だ》
《また畳でやるの?》
「ありがとうございます。まだ片付けは終わっていませんが、お腹が空いたので料理を始めます」
『まだ片付けは終わっていませんが、お腹が空いたので料理を始めます』
《先に片付けろ》
《寝る場所ある?》
《酒の箱しか見えない》
「今日は簡単に、炊飯器で肉と野菜の煮込みを作ります。材料を入れてボタンを押すだけなので、引っ越し直後でも作れます」
角子はスーパーの袋から、肉のパックを三つ取り出した。
《簡単の量じゃない》
《何人分?》
「一人分です」
《嘘だろ》
パックを開け、肉をまな板へ置く。筋を避け、厚さを揃え、食べやすい大きさへ切り分けていく手つきには迷いがない。切り終えた肉は、そのまま炊飯器の内釜へ落とされた。
「肉は食べたい分だけ入れます」
《全部入れた》
《三パックあったぞ》
《食べたい分の上限がおかしい》
続いて、玉ねぎ、長ねぎ、白菜、ニラを手早く切り分け、内釜へ押し込んでいく。量は多いが、包丁の扱いや食材の切り方だけはまともだった。
「次に、味をつけます」
角子は醤油のボトルを持ち上げた。
どぼどぼどぼ。
《止めろ》
《計量しないの?》
「目分量です」
『目分量です』
白い字幕だけが冷静だった。
味噌、みりん、料理酒、顆粒だしも計量器を通らず、そのまま内釜へ入っていく。角子は途中で何度か中身を覗いたが、減らすことはしなかった。
《使い切る勢い》
《詰め替え用を直接いくな》
《新品だったよな?》
「調味料は多いほうが、味がしっかりします」
一味唐辛子の詰め替え袋を開ける。
ぱらぱら、ではなかった。
ざあっ、と赤い粉が落ち、肉と野菜の表面を一気に染める。
《多い多い多い》
《袋の半分いった》
《地獄の色》
「辛いものは身体が温まりますから」
さらに一振り。
《まだいくの?》
「引っ越し作業で疲れていますので」
《何の説明にもなってない》
最後に、角子は白い粉の入った詰め替え袋を取り出した。
《白い粉きた》
《その言い方やめろ》
《旨み系だよな?》
「旨み調味料です」
白い字幕が一瞬遅れて表示される。
『馬見調味料です』
《何の肉だよ》
《字幕が不穏》
角子は誤変換にも気づかず、袋の口を内釜へ向けた。
ざあっ。
《多くない?》
《祖父の仇でも入ってる?》
「祖父が言っていました。こういうものは、少し多いくらいのほうが身体にいいそうです。昔の人は丈夫でしたから、たぶん間違いありません」
《理屈が全部おかしい》
《少しの量じゃない》
《祖父を責任者にするな》
「長生きしていましたよ」
《何歳?》
「六十三歳です」
《微妙》
《長生き判定が甘い》
角子は水を加え、内釜を炊飯器へ戻した。蓋を閉めて炊飯ボタンを押すと、両手を軽く払う。
「これで、あとは待つだけです」
《赤飯》
《違う》
《辛飯》
「完成まで少し時間があるので、休憩します」
段ボールの上からガラスの灰皿を取り、タバコを一本くわえる。火をつけて深く吸い込み、煙を長く吐き出した。
「ぷはー」
先ほどまでの落ち着いた配信口調が、少しだけ崩れる。
《吸うんかい》
《新居初ヤニ》
《カーテンないけど外から見えてるぞ》
「換気扇は回しています」
《そういう問題?》
角子はステンレス製のジョッキへロックアイスを入れ、角瓶を持ち上げた。
「引っ越し作業のあとは、これですね」
《もう飲むの?》
《料理完成前》
「作業は終わっていますので」
《片付けは?》
「明日やります」
角瓶の中身を少し注ぎ、炭酸水を足す。完成待ちの一杯なので、本人なりに控えた量だった。
一般的には濃い。
角子はタバコと酒を交互に口へ運びながら、配信画面へ流れるコメントを眺めていた。返事をするものもあれば、見なかったことにするものもある。
しばらくすると、炊飯器が大きな音を立てた。
ぴーっ。
「できました」
タバコを灰皿へ押しつけ、炊飯器の蓋を開ける。
ぼこっ。
赤い汁が内側から大きく泡を吐いた。唐辛子、ニンニク、肉、酒の匂いが湯気と一緒に立ち上がり、スマートフォンの画面が一瞬で白く曇る。
《赤い》
《地獄鍋》
《炊飯器から出ていい色じゃない》
《辛そう》
角子の尻尾が、畳の上を一度叩いた。
「でぎだ!」
《酔ってる?》
《ろれつ》
「酔ってません」
炊飯器から内釜を取り出し、鍋敷きの上へ置く。器へ盛るという工程はなかった。そのまま箸を入れ、真っ赤な肉を一つ持ち上げる。
「いただきます」
口へ運ぶ。
「あつっ」
肉を内釜へ戻した。
《そりゃ熱い》
《学習して》
角子は少し待ち、同じ肉をもう一度口へ入れる。今度は噛んで飲み込んだ。
「おいしいかもー」
《かも?》
《自信ないの?》
《舌が死んでる》
「辛さもちょうどいいですね」
額には汗が浮かび、鼻の頭も赤い。
《ちょうどよくはない》
《汗すごい》
「身体が温まっているだけです」
角子は内釜から直接、肉と野菜を食べ続けた。味は濃く、辛さも強かったが、食材の火の通り方は悪くない。
途中までは、ちゃんと料理だった。
数口食べたところで、角子は先ほどより一回り大きなステンレス製ジョッキを取り出した。キャンプ用品らしく、無骨で厚みのあるものだった。
ロックアイスを大量に入れる。
カラカラカラ。
次に持ち上げたのは、業務用の大きな角瓶だった。
《本番きた》
《でかい》
《それ家庭用じゃない》
「今日は引っ越し記念なので、少し薄めにします」
角子は角瓶を傾けた。
ジョッキの八割ほどまで、琥珀色の液体が満たされていく。
《うっす》
《薄くない?》
《炭酸どこ》
《酒を割ってない》
「残りに炭酸を入れます」
空いた部分へ、炭酸水が申し訳程度に注がれた。小さな泡がいくつか浮かび、すぐに消える。
「これで完成です」
《濃い》
《炭酸水を酒で割ってる》
《少し薄めとは》
角子はジョッキを持ち上げ、スマートフォンへ向けた。
「それでは、改めて。新居に乾杯」
ジョッキを傾け、そのまま喉を鳴らして飲み続ける。
ごく、ごく、ごく。
中身が減るたび、氷が角子の鼻先へ近づいていく。
《一気すんな》
《強い》
《死ぬぞ》
ようやくジョッキを離すと、角子は袖で口元を拭った。
「ぷはーっ。うまい」
残りも続けて飲み干す。
ジョッキの中には、氷だけが残った。
角子は満足そうに手首を振る。
カラ、カラ、カラ。
乾いた音が、新しい部屋へ響いた。
《いつもの》
《カラカラ助かる》
《引っ越しても変わらんな》
角子はジョッキの底を覗き込む。
「もうなくなりましたね」
《さっき八割入れた》
《なくなるの早い》
「今日はここまでにします。片付けもありますので」
《今からやるの?》
「明日やります」
《知ってた》
「それでは、お疲れさまでした」
配信終了のボタンを押す。
コメントが消え、部屋は急に静かになった。
畳の上には、真っ赤な煮込みの入った内釜、開いたままの調味料、吸い殻の入った灰皿、氷だけが残ったジョッキが並んでいる。油も一滴、畳へ落ちていた。
角子はその上へ、空になった一味唐辛子の袋を置く。
見えなくなった。
換気扇は一晩中回り続けたが、料理の匂いは部屋に収まらなかった。唐辛子とニンニク、肉、酒、タバコが混ざり、翌日になっても廊下へ流れ出している。
そこを歩いていたヤニねこの鼻が、ふと動いた。
「…………」
足を止める。
新しい住人の部屋から、食べ物らしい匂いがしていた。
ヤニねこは扉の前まで戻り、しばらく無言で立っていた。鼻をひくつかせ、もう一度だけ匂いを確かめる。
「……なんか食える匂いするにゃ」
## あとがき
ここまで読んでいただき、ありがとうございました!
登場したオリジナルキャラクター「氷川角子(カラカラねこ)」は、仕事中はしっかりした社会人ですが、家へ帰ると酒・料理・動画配信だけで生活している、少し変わった年上の猫獣人です。
面倒見はいいものの、酒と料理が絡むと常識が少しズレており、善意で周囲を騒動へ巻き込むこともしばしば。
これからヤニねこたちとの日常で、どんな騒ぎを起こすのか楽しみにしていただければ嬉しいです。
次回もよろしくお願いします!