# 第10話 タバコ一本で飯は出ないにゃ
夕方。
仕事から帰ってきた氷川角子が、部屋着へ着替えて一息ついていると、玄関の扉が叩かれた。
こん、こん。
「カラカラねこー」
聞き慣れた声だった。扉を開けると、ヤニねこが両手で一枚の皿を持って立っている。
空だった。
「今日の飯は?」
「今日は用意してませんよ」
「じゃあ作ってにゃ」
ヤニねこは空の皿を差し出した。まるで食堂で注文でもするような態度だった。
「材料費、もらってもいいですか?」
「なんでにゃ。前はタダだったにゃ」
「前は私が作りすぎただけです」
「今日も作りすぎればいいにゃ」
「先に作っていないので、作りすぎません」
ヤニねこは少し考えたが、あまり納得していない顔だった。
角子は一度部屋へ戻り、冷蔵庫を開ける。豚肉、もやし、キャベツ、卵、少し前に買った豆腐。料理を作れる程度の食材は残っている。
ただし今月は、業務用角瓶に炭酸水、配信用の小物まで買った。食費まで好き放題に使えるほど、財布には余裕がない。
「三百円くらいもらえれば、何か作りますよ」
「三百円? 高いにゃ」
「タバコ一箱くらい我慢すれば、大丈夫ですよ」
「タバコも食費にゃ。吸うと腹減ったの少し忘れるにゃ」
「食べてないですよね?」
「生きるのに必要にゃ」
角子は少し考えた。
「私も吸いますけど、食費には入れてませんよ」
「カラカラねこは酒代が食費にゃ」
「……それは否定しにくいですね」
ヤニねこが少しだけ勝ち誇った顔をする。
「でも三百円はお願いします」
「結局いるのかにゃ」
「そこは別です」
ヤニねこは皿を脇へ抱え、ポケットを探り始めた。右、左、ズボンの後ろ、シャツの胸元。
出てきたのは十円玉、ボタン、ぐしゃぐしゃになった古いレシート、潰れたタバコの空箱、少し湿ったシケモク。最後には正体の分からない小さな金属片まで出てきた。
「これでどうにゃ?」
「十円しかありませんね」
「ボタンもあるにゃ。これ高いやつかもしれないにゃ」
「服についていたものだと思います」
「じゃあレシートとシケモクもつけるにゃ」
「レシートは支払い済みですし、シケモクは自分で吸ってください」
ヤニねこの耳が少し伏せた。
「飯ないにゃ……」
「材料費をもらえれば作りますよ」
「金ないにゃ」
「そうですか」
角子が扉を閉めようとすると、ヤニねこが足を隙間へ入れた。
「待つにゃ。これならどうにゃ?」
今度は耳の後ろから、少し曲がったタバコを一本取り出した。まだ吸ってはいない。ヤニねこにとっては貴重な一本だった。
「これで作ってにゃ」
「一本もらっても、三百円にはなりませんよ」
「カラカラねこも吸うにゃ」
「吸いますけど……」
角子はタバコではなく、今それが出てきた場所を見た。
「というか、どこにタバコしまってるんですか?」
「ここにゃ」
ヤニねこが耳の後ろを指さす。
「ポケットあるでしょう」
「ここならすぐ吸えるにゃ」
「曲がってますよ」
「吸えばまっすぐになるにゃ」
「ならないと思います」
ヤニねこは一本を眺めた。食事も欲しい。タバコも欲しい。しかも、これを渡したところで飯は出ない。
少し考え、すぐ耳の後ろへ戻した。
「じゃあどうすればいいにゃ」
角子もちょうどこれから夕食を作り、配信するつもりだった。一人で準備するより、多少手伝いがあれば楽になる。
「作業をしてもらうなら、その分は出してもいいですよ。撮影の手伝いと、食器洗いと、食材運びくらいです」
「働くの? 飯食うのに?」
「普通だと思います」
「前は食うだけだったにゃ」
「今日から違います」
空腹。財布には十円。部屋へ戻っても、食べられそうな物はほとんどない。
「……少しだけ働くにゃ」
「ではお願いします」
交渉成立だった。
角子は配信用の三脚を畳へ立てた。
「まず、カメラをこの辺りに置いてください。料理が映るようにお願いします」
「任せるにゃ」
ヤニねこへ三脚を任せ、角子は冷蔵庫へ食材を取りに行った。
戻ってくると、三脚は立っていた。
スマートフォンは真上を向き、画面には天井しか映っていない。
「ヤニねこさん。料理が映っていません」
「カメラは立てたにゃ」
「向きも必要です」
「そこまで言われてないにゃ」
「料理が映るように、と言いました」
「天井も部屋の一部にゃ」
「料理ではありません」
角子は自分で角度を直し、部屋の隅から炊飯器を持ってくる。そのまま畳の上へ直置きした。
《出た》
《畳炊飯器》
《今日は普通じゃなかった》
《安心した》
「何が安心なんですか」
気にせず配信を開始する。
『どうも、nyanyanyaです。今日は豚肉とキャベツを炊飯器で作ります』
《炊飯器で?》
《米は?》
《また雑に始まった》
《ヤニねこいる?》
「ニャーもいるにゃ」
《いた》
《飯目的?》
《働いてる?》
「今日は仕事してるにゃ」
角子は冷蔵庫から食材をまとめて出した。
「では、これを炊飯器のところまで運んでもらえますか?」
「任せるにゃ」
キャベツ、豚肉、もやし、卵。ヤニねこは両腕へ抱え、数歩先の炊飯器まで運ぶ。
途中で豚肉のパックを見て、足が止まった。
「一枚くらい食っても分からないにゃ」
「生ですよ」
「炊飯器に入れれば食えるにゃ」
「まず運んでください」
「じゃあキャベツ」
外側の葉を少しちぎり、そのまま口へ入れる。
しゃく。
「味しないにゃ」
「まだ味付けしてませんよ。あと、運ぶ途中で食べないでください」
「味見にゃ」
《もう食ってる》
《労働中》
《現物支給を先払い》
《炊飯器まで三歩くらい》
「つまみ食いした分は、報酬から引きますね」
「今の一枚で? キャベツの葉っぱ一枚にゃ」
「私が買ったキャベツです」
「ケチにゃ」
「食べる前に聞いてください」
不満そうだったが、それ以上は食べなかった。
角子は畳の上へまな板を置き、豚肉とキャベツを適当な大きさに切っていく。切り終えた物から、豚肉、キャベツ、もやしの順で炊飯器へ放り込んだ。
「それ、全部一緒に入れるにゃ? 大丈夫なの?」
「たぶん大丈夫かもー」
「たぶんで肉を炊くなにゃ」
珍しくヤニねこの方がまともだった。
《正論》
《ヤニねこに止められてる》
《炊飯器を信じろ》
角子は醤油、酒、みりんを目分量で回しかけ、最後にうま味調味料の大袋を持ち上げた。
《出た》
《祖父》
《袋を置け》
「いっぱい入れるにゃ?」
「少しです」
「カラカラねこの少しは信用できないにゃ」
そこも正しかった。
さっ。さっ。さらにもう一度。
「三回入ったにゃ」
「全体へ行き渡らせています」
「それ少しじゃないにゃ」
ヤニねこにまで止められた。
角子は最後に卵を一つ割り入れ、炊飯器の蓋を閉める。
「では、炊きます」
「飯入ってないにゃ」
「おかずなので」
「炊飯器なのに?」
「料理できますよ」
ぽちっ。
炊飯ランプが点灯した。
角子は炊飯器の横に置いてあったステンレスジョッキを持ち上げる。中身は氷と、少し濃いめに作ったハイボール。
「仕事から帰ってすぐ飲んでるにゃ」
「夕食なので」
「酒も食費にゃ?」
「これは酒代です」
「ニャーのタバコと同じにゃ」
「それと一緒にされると、少し困りますね」
そう言いながら、角子はもう一口飲んだ。
炊飯器に夕食を任せ、その横でヤニねこには使用済みの皿を洗ってもらう。
「これ、お願いします。洗剤を使って洗ってください」
「分かったにゃ」
ヤニねこは三枚の皿をシンクへ入れ、水を溜めた。全部沈んだところで蛇口を止める。
「終わったにゃ」
「もうですか?」
「水につけたにゃ」
「洗剤は?」
「時間経てば汚れ取れるにゃ」
「それは、つけ置きですね」
「洗ったにゃ」
「洗ってはいないです」
「水には入れたにゃ」
「そこは認めるんですね」
《仕事が雑》
《時給下がってる》
《皿を水没させただけ》
「うるさいにゃ。お前らより働いてるにゃ」
《配信見てるだけです》
《こっちは給料もらってない》
《働け》
「ニャーもまだ飯もらってないにゃ! 働いてるにゃ!」
コメントへ言い返そうとスマートフォンへ近づいた拍子に、くわえていたタバコから灰が落ちた。
ぱらっ。
三脚の脚へ乗る。
「灰、落ちましたよ。今片づけてください」
「あとでやるにゃ」
「今お願いします」
「料理中に?」
「あなたが料理しているわけではないです」
ヤニねこは指で灰を払った。
今度は畳へ落ちた。
「移動しただけですね」
「三脚はきれいになったにゃ」
「畳が汚れました」
「一個ずつにゃ」
何が一個ずつなのかは分からなかった。
しばらくして、玄関が叩かれた。
こん、こん。
「角子さん」
「開いていますよ」
ヤクねこが部屋へ入ってくる。
畳の上で料理中の炊飯器。その横でハイボールを飲んでいる角子。配信画面へ勝手にコメントを書いているヤニねこ。そして、流しへ沈められた大量の食器。
「……何してるんですか、先輩」
「働いてるにゃ」
「どこがです?」
「全部にゃ」
ヤクねこは流しから一枚持ち上げた。表面にはまだ油が残っている。
「先輩、これ洗いました?」
「水に入れたにゃ。カラカラねこにもなんか言われたにゃ」
「なら洗ってくださいよ。それは浸けただけです」
「二人とも細かいにゃ。水につけたら柔らかくなるにゃ」
「その後に洗うんです」
「二段階もあるの?」
「普通です」
ヤクねこは洗剤を手渡した。
「ほら、ちゃんと洗ってください」
「ヤクねこがやってにゃ。後輩は先輩を助けるものにゃ」
「その先輩、今まで私にタバコせびってましたよね?」
「それも後輩の仕事にゃ」
「違います」
洗剤を押しつけられ、仕方なくヤニねこが皿をこする。
「これでいいにゃ?」
「裏もお願いします」
「裏は料理乗らないにゃ」
「手で触るでしょう」
「面倒にゃー……」
速度も遅いし洗い方も雑だが、最初よりは多少きれいになった。
その間も、畳の上では炊飯器が黙々と働いている。しばらくすると蓋の隙間から醤油と肉の匂いが漏れ始め、ヤニねこの鼻が動いた。
「できた? いい匂いするにゃ」
「まだ炊飯中です」
「開けてみるにゃ」
「まだ開けないでください」
ヤニねこが蓋へ手を伸ばし、ヤクねこに手首をつかまれる。
「先輩」
「見るだけにゃ。一瞬ならバレないにゃ」
「誰にですか?」
渋々手を引っ込めた。
「味見するにゃ」
「さっきキャベツを食べたので、味見分はありません」
「あれ味なかったにゃ」
「まだ味付け前でしたからね」
「損したにゃ」
「勝手に食べたんでしょう」
角子は横でハイボールを飲みながら、炊飯器を眺めている。
「いい匂いですね」
「作った本人が確認してるんですか?」
「炊飯器なので、開けるまで分からないかもー」
「やっぱり不安なんじゃないですか」
ヤクねこに言われても、角子は気にせずジョッキを傾けた。
やがて電子音が鳴る。
ぴーっ。
ヤニねこの耳が立った。
「飯にゃ!」
「おかずです」
角子が蓋を開けると、湯気と一緒に醤油と豚肉の匂いが部屋へ広がった。
キャベツともやしはかなりしんなりし、豚肉にも火が通っている。卵は途中で崩れたらしく、全体へ中途半端に絡んでいた。
見た目はあまり良くない。
だが、匂いだけはやたらとうまそうだった。
《うまそう》
《見た目はいつもの》
《炊飯器つよい》
《酒ほしい》
角子はしゃもじで全体を混ぜる。
「完成です」
「じゃあ食うにゃ」
「その前に、働いた分を確認します」
ヤニねこの顔から笑顔が消えた。
角子は大きな皿へ自分の分を盛り、次に小さな皿へ少しだけ取り分ける。
「はい」
ヤニねこは小皿を見て、角子の大皿を見て、もう一度自分の分へ視線を戻した。
「……これだけ?」
「今日の働きだと、このくらいですね」
「少ないにゃ。ニャー、ちゃんと働いたにゃ」
「カメラは天井を向いていましたし、食材を運ぶ途中でキャベツを食べて、食器も最初は水につけただけでした」
「最後は洗ったにゃ」
「三枚のうち一枚だけですね」
「三脚の灰も拭いたにゃ」
「畳へ落としました」
「……働くの難しいにゃ」
ヤクねこも頷いた。
「むしろ、かなり簡単な仕事だと思います」
「ヤクねこは敵にゃ」
「さっきから皿洗いを教えてるだけです」
それでも飯は飯だった。
ヤニねこは豚肉を一つつまんで口へ入れる。
「うまいにゃ~」
機嫌が少し戻った。
角子も自分の分を食べ、横のステンレスジョッキへ手を伸ばす。濃いめの味付けをハイボールで流した。
「やっぱり、こういう味は酒に合うかもー」
「ニャーにも酒ある?」
「ありません」
「飯少ない、酒もない。労働環境悪いにゃ」
「先輩、食事をもらっている側ですよ」
ヤクねこが呆れたように返す。
数口食べると、ヤニねこはまた角子の皿を見た。
「そっち、多くない? ニャーも働いたにゃ」
「なので、そちらの分があります」
「三百円より働いたと思うにゃ」
ヤクねこが流しを見る。まだ二枚の皿が残っていた。
「先輩、あれをちゃんと洗えば、もう少しもらえるんじゃないですか?」
「……一枚で肉一個増える?」
「ちゃんと洗えたら考えます」
ヤニねこは少し悩み、立ち上がった。
「洗うにゃ」
初めて、自分から流しへ向かった。
食欲は、人を働かせる。
タバコほどではないが、かなり強かった。
やがてヤニねこの小皿も空になり、角子も最後の一口を食べてハイボールを飲み干した。
ステンレスジョッキには、少し溶けた氷だけが残っている。
カラカラ。
何となくジョッキを揺らすと、ヤニねこがそちらを見た。
「もう酒ないにゃ?」
「なくなりました。もう一杯くらい作るかもー」
「ニャーの飯も追加するにゃ」
「それは別です」
「なんで酒は追加されるのに、飯は追加されないにゃ」
「私のお酒なので」
「不公平にゃ」
「材料を買った人の特権です」
ヤニねこは不満そうに、空になった自分の皿を見た。
食事が終わると、角子は配信を終了して調理器具を片づけ、ヤクねこも自分の部屋へ戻った。ヤニねこは追加の肉を二切れもらい、少し満足した顔で帰っていった。
廊下には静けさが戻る。
十分ほどして、一階から大家が上がってきた。
共用廊下の端には、びしょ濡れの食器が三枚。その下には細長い水たまりまでできている。
「……何だ、これ?」
ちょうど角子がゴミ袋を持って部屋から出てきた。
「どうしました?」
「これ、誰が洗ったんだ?」
「ヤニねこです」
隣の部屋から声がした。
「洗ってないにゃ。水につけただけにゃ」
大家はヤニねこの扉を見る。
「自分から認めるな」
扉が少しだけ開き、ヤニねこが顔を出した。
「でも途中から一枚は洗ったにゃ」
「じゃあ、なんで廊下に三枚あるんだ?」
「乾かしてるにゃ。風あるにゃ」
「水切りかごを使え」
「持ってないにゃ」
「氷川さんの食器だろ?」
角子が頷く。
「そうですね」
「じゃあなんで、この人が廊下で乾かしてるんだ?」
角子は少し考えた。
「仕事の続きだと思います」
「仕事の範囲を廊下まで広げるな」
大家は濡れた床を指した。
「ヤニねこ。これ拭いて」
「もう働いたにゃ」
「これは報酬の出ないやつだ」
「損にゃ!」
「自分で濡らしたんだろ」
ヤニねこの耳が伏せた。
「飯食うだけで、いっぱい働かされるにゃ……」
「普通は飯を食うために働くんだよ」
大家の言葉に、ヤニねこは少し考える。
「じゃあ明日はタバコ一本でいいにゃ?」
「何の話だ?」
「飯代」
角子が答えた。
「タバコ一本では出ませんよ」
「まだ駄目なのかにゃ……」
ヤニねこは心底残念そうだった。
その日の夕食で、ヤニねこが学んだことは二つ。
飯には金がかかる。
金がないなら、少し働けば食べられる。
そして翌日には、そのうち一つくらい忘れている可能性が高かった。