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数日後の夜。
氷川角子の部屋には、いつもの配信準備が整っていた。三脚に固定されたスマートフォン、その脇の小さな照明。机の上にはステンレスジョッキと、見慣れた業務用の調味料が並んでいる。
そこまでは、いつもと大して変わらない。ただ、その隣だけが妙に浮いていた。
木箱に入ったうに。北海道産と書かれたいくら。黒い小瓶のキャビアに、少し高そうな刺身。そして最後には、化粧箱へ収まった一本のスコッチウイスキー。
普段の角子の机にしては、ずいぶん金の匂いがする。
「なんか今日、金持ちの飯にゃ」
真っ先に食いついたのは、やはりヤニねこだった。机の前へしゃがみ込み、黒いキャビアの瓶をじっと覗き込んでいる。食材そのものに感動しているというより、高そうな物を見つけた時の顔だった。
「触らないでくださいね」
「見てるだけにゃ」
「さっき蓋に手をかけてましたよ」
「開くか確認しただけにゃ」
「開けなくて大丈夫です」
ヤニねこは少し残念そうに手を引っ込めた。その横では、ハメねこが配信画面を調整している。何度か角子の配信へ巻き込まれているうちに、本人より先に機材の安全を気にするようになっていた。
「今日はカメラちゃんと高くなってるね」
「前に直してもらったので」
「酒瓶も機材から離れてる?」
「離しました」
「電子レンジは?」
「今日は使いません」
「よし」
ハメねこが少し満足そうに頷いた。
そこへ、妹ねこが姉を迎えに来る。
「お姉ちゃん、そろそろ――」
部屋へ入ったところで、言葉が止まった。
「……あれ?」
「妹ちゃんにゃ」
「今日は何してるの?」
「飯待ってるにゃ」
「それはいつもでしょ」
妹ねこは机へ近づき、並んだ食材を順番に眺める。うに、いくら、キャビア、それに刺身。少なくとも前回見たアル中パウダーよりは、見た目だけで安心できる物ばかりだった。
今日は大丈夫かもしれない。少なくとも、その時の妹ねこはそう思った。
角子の部屋でそんな判断をした時点で、少し油断していたのかもしれない。
「今日は普通そうですね」
「高級なハイボールを作ります」
「ハイボールが高級なんですか?」
ハメねこも同じ疑問を持ったらしい。
「つまみが高級なの? 酒が高級なの?」
「全部です」
「全部なんだ」
ちょうどその時、ヤクねこも部屋へやってきた。
「お邪魔します」
机の上を見て、少し目を丸くする。
「今日はずいぶん豪華ですね」
「高級回です」
「食材だけ見れば、かなり普通ですね」
生肉を畳へ直置きしているわけでもない。古い電子レンジも動いていないし、アル中パウダーも今のところ机の端で大人しくしている。
妹ねことヤクねこは、珍しく同じ結論へ達した。
今日は大丈夫かもしれない。
その期待がどこまで持つかは、まだ分からなかった。
角子が配信開始を押す。
『どうも、nyanyanyaです』
《わこつ》
《わこつ》
《今日は何》
《妹いる》
《ハメねこまたいる》
《姐さん》
最後のコメントを見たヤクねこが、何も言わず画面から目を逸らした。
『今日は、高級なハイボールを作ります』
《高級?》
《角瓶じゃない》
《机が金持ち》
《どうした》
「視聴者に心配されてるじゃん」
「普段との差ですかね」
「たぶんね」
角子は最初に、木箱へ入ったうにを持ち上げた。カメラへ近づけると、鮮やかな黄色が画面いっぱいに映る。崩れも少なく、見た目からして安物ではなさそうだった。
「北海道産です」
ヤニねこが横から箱を覗き込む。
「これいくらにゃ?」
「三千円くらいでした」
「…………」
ヤニねこの顔が急に真剣になった。何かを計算している。
「何?」
「タバコ何箱分か考えてるにゃ」
「そこ基準なんだ」
「六箱くらいにゃ……」
「うにをタバコに変換しないで」
角子は次に、いくらを見せる。
「こちらが、いくらです」
「これはいくらにゃ?」
「二千円くらいです」
ハメねこが一瞬だけ横を見る。
「いくらだけに?」
ヤニねこは何も気づいていない。
「何にゃ?」
「いや、別に」
誰も拾わなかった。
続いて、黒い小瓶。
「これがキャビアです」
「魚の卵?」
「そうですね」
「じゃあ、いくらと同じにゃ」
「だいぶ違うと思う」
「どっちも魚から出るにゃ」
「それくらいしか共通点ないでしょ」
「味も塩っぱいにゃ?」
「それは少し近いですね」
角子が答えると、ヤニねこは納得したように頷いた。
「じゃあ高いいくらにゃ」
「キャビアに怒られそう」
ハメねこが呟く。
「これはいくら?」
「小瓶で五千円くらいです」
ヤニねこの手が止まった。
「…………」
「またタバコ?」
「十箱にゃ……」
「全部タバコにするのやめなよ」
「こんな小さいのに十箱にゃ」
ヤニねこはキャビアの瓶と、自分のタバコの箱を並べた。どう見てもタバコの方が大きい。
「こっちの方がいっぱい入ってるにゃ」
「中身が違うから」
「キャビア高すぎにゃ」
「角子さんのお金ですよ」
ヤクねこが言う。
「それなら平気にゃ」
「何が?」
妹ねこが姉を見る。ヤニねこは答えず、キャビアを見続けていた。
狙っている顔だった。
角子は最後に、化粧箱へ入ったスコッチウイスキーを取り出した。普段の業務用角瓶とは違い、重そうなガラス瓶には落ち着いたラベルが貼られている。
《酒まで高い》
《本当に高級回》
《偽物じゃない?》
《nyanyanyaに似合わない》
「失礼な視聴者だね」
ハメねこが笑う。
「一万円近くしました」
角子が何でもないことのように言った。
「二十箱にゃ!」
「早い」
妹ねこが呆れる。
「全部合わせたら、何箱になるにゃ?」
「計算しない方がいいと思います。もったいない気持ちが強くなるので」
「もうなってるにゃ」
角子はボトルを持ち上げた。
「では、開けます」
栓はコルクだった。角子が引っ張るが、抜けない。もう一度力を入れても結果は同じだった。
ハメねこが見ている。
「オープナーないの?」
「ありますよ」
「使えば?」
角子は少し考えた。
「ペンチでもいけると思います」
「なんである物を使わないの?」
角子は工具箱からペンチを取り出した。
「待って。一万円近いお酒ですよね?」
「はい」
「ペンチで開けるんですか?」
「抜ければ同じなので」
「そういうものなの?」
ヤクねこも少し困った顔をする。
「コルクが崩れたら中へ入りません?」
「その時は濾します」
「対策が雑です」
角子はコルクをペンチで挟んだ。
ぎゅっ。ぐりぐり。
「高級感が死んでく」
ハメねこがカメラ越しに呟く。
さらに捻ると、ぽんっ、と勢いよくコルクが抜けた。
「開いたにゃ!」
ヤニねこが拍手する。
《ペンチ》
《高級とは》
《酒がかわいそう》
《開けばヨシ》
「結果的に開きました」
「そういう問題じゃないんだよなあ」
ハメねこは、もう慣れ始めていた。
角子はステンレスジョッキへ氷を入れる。
カラカラ。
「ジョッキはいつものなんだ」
「これが飲みやすいので」
高級なスコッチがジョッキへ注がれていく。
とくとくとく。
それでも今日は、普段より少なかった。いつものようにジョッキの大半をウイスキーで満たすことはなく、半分より少し下で止めている。
「あれ。今日は薄い」
ハメねこの一言に、コメント欄もすぐ続いた。
《うっす》
《水?》
《今日体調悪い?》
《高級酒だから日和った》
「これで薄い扱いなんですか?」
妹ねこが画面を見る。どう見てもかなり入っている。
「普段はもっと多いから」
「これより?」
「これより」
妹ねこは姉のグラスを見る。
「お姉ちゃんも、ここの基準に慣れないでよ」
「ニャーは普通にゃ」
「一番信用できない」
角子は炭酸水を注ぐ。しゅわしゅわと泡が立つものの、こちらはウイスキーに比べてずいぶん少ない。
「それ、ハイボールなんですか?」
「炭酸入っていますよ」
「量の問題です」
「いつもより薄いですよ」
「比較対象の問題でもないです」
「妹ちゃん、細かいにゃ」
「お姉ちゃんは黙ってて」
角子は出来上がった高級ハイボールを一口飲んだ。
カラカラ。
「ぷはー」
少し味を確かめるように間を置き、満足そうに頷く。
「おいしいですね」
《いつもの》
《飲み方は変わらない》
《高級ぷはー》
「酒は成功したみたいね」
ハメねこが言う。
ここまでは、まだ大丈夫だった。
問題は、その後だった。
「では、つまみを作ります」
角子が皿を並べると、妹ねこの耳がわずかに動いた。
「そのまま食べるんじゃないんですか?」
「少し料理します」
「……料理するんだ」
妹ねこは、もう一度机の上を見る。
高級食材。角子。大量の調味料。
さっきまであった安心感が、少しずつ薄れてきた。
まず角子はクラッカーを皿へ並べ、その上へうにを載せていく。一枚、二枚、三枚と増えていき、やがてクラッカーの方がほとんど見えなくなった。
「多くないですか?」
「クラッカーが見えなくなるくらいが、ちょうどいいと思います」
「何の基準です?」
うには山になった。
次は冷奴。
「また豆腐にゃ」
ヤニねこの耳が立つ。
「今日は普通の冷奴ですか?」
「いくらを載せます」
角子は豆腐へいくらをかけた。
ぱらぱら。
ここまでは豪華な冷奴に見える。
さらにかける。さらに。
白かった豆腐が、だんだん赤いいくらに埋まっていった。
「また埋める気?」
「今回は高級に埋めています」
「高級ならいいわけじゃないから」
《豆腐の墓2》
《今回は赤い》
《高級埋葬》
「やめてください、その呼び方」
ハメねこは笑いながらコメントを読む。
最後はキャビアだった。
角子は小さなスプーンですくい、刺身の上へ少し載せる。
「おお」
珍しく、全員から素直な声が漏れた。見た目もいいし、高級感もある。妹ねこも、これならと小さく頷いた。
「これは普通においしそうです」
「塩味もありますから」
「はい」
「調味料代わりになります」
「……はい?」
角子はもう一杯すくった。さらに刺身へ載せ、そのままもう一杯。
「待ってください。それ、調味料扱いする値段じゃないですよ」
「味が付いているので」
「そういう話じゃないと思います」
「醤油でいいじゃないですか」
「今日は高級なので」
「高級って、量を増やすことじゃないですよ」
角子は少し考えた。
「豪華ではありますよ」
「豪華ではありますけど」
間違ってはいないから困る。
その間にも、ヤニねこは完成を待ちきれなくなっていた。
「食っていい?」
「まだです」
「もう完成してるにゃ」
「配信中なので少し待ってください」
「カメラは食わないにゃ」
「意味が分かりません」
角子が完成した高級つまみプレートをカメラへ向ける。
うにクラッカーに、いくら冷奴、キャビア刺身。使った量を考えなければ、見た目だけはかなり豪華だった。
《金》
《豪華》
《今日はまとも》
《食べたい》
「これなら普通にサムネになるじゃん」
「今日は成功ですね」
妹ねこも少し笑った。
「高級食材を使えば、角子さんも普通の料理作れるんですね」
「量は気になりますけど、今回は料理としては問題なさそうです」
ヤクねこも小さく頷く。
全員が安心した。
ここで終わればよかった。
角子がつまみを一口食べる。
「…………」
少し首を傾げた。
「どうしたんですか?」
「少し味が弱いですね」
ヤクねこの顔が止まった。
「やめてください」
「まだ何もしてませんよ」
「その台詞、何度か聞きました」
角子の手が調味料置き場へ向かう。
「アル中パウダーにゃ!」
ヤニねこの耳が立った。
「待って。それ、高級食材にかけるんですか?」
「少しだけなら合うかもー」
「合うかどうかの前に、もったいないです」
ハメねこがカメラへ視線を戻すと、コメント欄は待ってましたと言わんばかりに流れ始めた。
《きた》
《いつもの》
《かけろ》
《高級品を救え》
《アル中パウダー待機》
「……一皿だけなら、動画的には面白いかも」
ハメねこが小さく呟く。
「誰も止める人いないんですか?」
「私は止めます」
妹ねこが答えた。
「全部にかけるのは駄目です」
「全部はやめます」
角子は素直に容器を置いた。
「では一皿だけ」
「え?」
安心が早かった。
「実験用です」
「今、やめる流れじゃなかったんですか?」
「全部はやめました」
「そこだけ聞いたんですか?」
角子は小皿を一枚用意すると、うに、いくら、キャビア、刺身を順番に載せていった。どれも単体で十分高い食材なのに、遠慮なく一皿へ集めていく。
さらにアル中パウダーを取り出した。
ぱっぱっ。
茶色い粉が、黄色いうにと赤いいくら、黒いキャビアの上へ降りかかる。
「うわあ……」
妹ねこの口から、素直な感想が漏れた。
「さっきまで成金っぽかったのに、急にいつもの料理になった」
「高級食材って、こうなるんだ……」
「食材がかわいそうですね」
ヤクねこまで静かに言った。
しかし角子はまだ終わっていない。
高級スコッチを小さなスプーンへ少しだけ取った。
「酒も入れます」
「なんで?」
妹ねこが素で聞いた。
「高級なハイボールなので」
「料理の方にも入れる必要あります?」
「香りが付くかもー」
少量のウイスキーが、高級食材の山へ垂れていく。
《台無し》
《金の暴力》
《高級食材の墓》
《いつものnyanyanya》
ヤニねこは、その皿をじっと見ていた。
「食っていい?」
「どうぞ」
「先輩からいくんですか?」
「高い飯にゃ」
理由になっていなかった。
ヤニねこは、うにといくらとキャビアをまとめて箸で取る。アル中パウダーまでたっぷりついていた。
一口。
「…………」
全員がヤニねこを見る。
もぐもぐと噛んで、もう一度噛む。
「……うまいにゃ」
「え?」
「ほんとに?」
「うまいにゃ」
ヤニねこは二口目へ手を伸ばした。
「待って。感想それだけ?」
「どれが一番おいしかった?」
「全部一緒に食ったから分かんないにゃ」
「一番参考にならない食レポ」
「全部うまかったにゃ」
「高級食材の違いが消えてるじゃん」
「腹に入れば同じにゃ」
「料理配信で言うことじゃない」
角子も一口食べる。
うにの濃さに、いくらとキャビアの塩気。そこへ、からし、わさび、唐辛子、うま味調味料、さらにまたたびまで重なり、最後にはスコッチの香りまで追いかけてくる。
味の情報量だけは異常に多かった。
「おいしいかもー」
角子は少し考えた末、そう結論づけた。
「本当に?」
「食べますか?」
「……私は普通の方でいいです」
「賢明だと思います」
ヤクねこが言う。
しかし、そのヤクねこも実験皿から目を離していなかった。料理としては明らかにおかしい。それでも食材の組み合わせ自体は、食べられない物ではない。衛生面にも問題はなさそうだった。
「……少しだけ確認します」
ヤクねこが箸を取り、ほんの少量を口へ入れた。
「…………」
動きが止まり、耳がわずかに動く。
「どう?」
妹ねこが尋ねる。
ヤクねこは少し悔しそうな顔をした。
「……味は悪くないです」
「成立するんだ……」
「むしろ塩気が強いので、お酒には合いますね」
角子が嬉しそうに頷く。
「成功ですね」
「成功判定が味だけなんですよ」
妹ねこが言った。
その隙に、ヤニねこがキャビアの瓶へ手を伸ばした。スプーンを突っ込み、遠慮なくたっぷり取る。
「お姉ちゃん。それ高いんでしょ?」
「角子のだから平気にゃ」
「何が平気なの?」
角子がノートを取り出した。
「食べた分は記録しますね」
ヤニねこの手が止まった。スプーンの上には、大量のキャビア。
「…………」
「じゃあ戻すにゃ」
「一度取ったものは戻さないでください」
「まだ食ってないにゃ」
「先輩の箸が触れてます」
「じゃあカラカラねこが食えばいいにゃ」
「あなたが食べてください」
「高いにゃ」
「取ったのはお姉ちゃんでしょ」
「罠にゃ……」
「誰も仕掛けてないよ」
ヤニねこは仕方なく、大量のキャビアを口へ入れた。
もぐ。
「しょっぱいにゃ」
「そりゃ、それだけ食べれば」
「ご飯ほしいにゃ」
角子が炊飯器を見る。
「ありますよ」
「やったにゃ」
「ちゃんとその分も払ってね」
「…………」
「聞こえてる?」
「高級な話すると金の話ばっかになるにゃ」
「今日ずっと値段聞いてたのお姉ちゃんでしょ」
配信はそのまま続いた。
普通の高級つまみプレートに、アル中パウダー入りの実験皿。それに高級スコッチのハイボール。最初は「今日はまとも」と言っていたコメント欄も、すっかりいつもの調子へ戻っている。
《高級食材の無駄遣い》
《キャビアにアル中パウダー》
《味はいいらしい》
《結局いつもの》
《高級とは》
「動画としては当たりだね」
ハメねこはコメントを眺めながら笑う。
「料理としても成功です」
「その成功基準、絶対違うと思う」
「おいしかったですよ」
「……まあ、味だけなら」
ヤクねこも少しだけ角子側へ寄った。
「ヤクねこまで」
「私は食材の扱い方は評価してませんからね」
「味は認めるんだ」
「悔しいですけど」
その横で、ヤニねこはご飯の上へいくらを載せていた。
「ニャーも成功にゃ」
「お姉ちゃんは何に成功したの?」
「高い飯いっぱい食ったにゃ」
「何もしてないじゃん」
「食ったにゃ」
「それは成功じゃないよ」
「失敗もしてないにゃ」
「食費の請求は増えてますよ」
角子がノートへ何かを書き込む。
ヤニねこの動きが止まった。
「……失敗かもしれないにゃ」
判断が遅かった。
配信終了後、机の上には高級食材の空容器が並んでいた。うにはほとんど残っておらず、いくらもかなり減っている。キャビアは空で、高級スコッチもそれなりに減っていた。
妹ねこは、その惨状を見回す。
「今日、結局いくら使ったんですか?」
角子がスマートフォンを取り出し、購入履歴を確認する。
「食材とお酒で……二万円ちょっとですね」
「えっ」
妹ねこが固まった。
ヤニねこも固まった。
ハメねこだけが、配信結果を確認している。
「再生数は伸びそう」
「二万円……」
ヤニねこはまだ金額に引っかかっていた。
「その金あったらタバコ何箱買えるにゃ……」
「あなたのタバコ代ではないです」
「四十箱にゃ……」
「計算しなくていいです」
「一か月くらい吸えるにゃ」
「一か月も持たないでしょう」
「……」
ヤニねこが黙った。
「否定しないんですね」
ハメねこが配信コメントを読み上げる。
「《高級食材の無駄遣い》《キャビアにアル中パウダー》《いつもの》《高級とは》」
「反応は良かったですね」
角子は満足そうだった。
「でも、おいしかったので成功です」
「成功なんですか?」
「私はおいしかったです」
「味だけなら……」
ヤクねこも否定しきれない。
「動画としては成功」
ハメねこも頷いた。
「ニャーも成功にゃ」
「お姉ちゃんは食べただけでしょ」
「いっぱい食えたにゃ」
「だから、それを成功って言わないの」
ヤニねこは聞こえないふりをして、机の上に残っていた空のキャビア瓶を手に取った。
「これ売れる?」
「空瓶だよ」
「高級品の瓶だから高級にゃ」
「中身が高かったんでしょ」
「瓶も高そうにゃ」
角子も空瓶を見る。
「小物入れには使えるかもー」
「何入れるんですか?」
妹ねこが尋ねると、ヤニねこは少し考えた。
指に挟んでいたタバコへ目を落とし、次に空瓶を見る。
「灰皿にするにゃ」
「絶対やめて!」
妹ねこの声が部屋へ響いた。
「なんでにゃ?」
「高級品の瓶なんでしょ!」
「だから高級な灰皿にゃ」
「そういう使い方じゃない!」
「もう空にゃ」
「だからって!」
ヤニねこはキャビアの瓶を大事そうに抱えた。
「今日一番いい物もらったにゃ」
「中身は?」
「食ったにゃ」
「結局、全部お姉ちゃんの腹じゃん」
角子は、そのやり取りを見ながら高級スコッチのハイボールを一口飲んだ。
カラカラ。
「高級な灰皿も、悪くないかもー」
「角子さんまで賛成しないでください!」
妹ねこは、この前より少しだけ角子のことを理解した気がした。
高い食材を買う余裕はある。料理の腕もあるし、出来上がった物の味も悪くない。その点だけを見れば、姉よりずっと安心できる相手だった。
ただし、まともな材料をまともに使うかどうかは、どうやら別問題らしい。使える金額が増えれば、その分だけ失敗まで高級になる。妹ねこには、そんな仕組みに見えてきた。
姉より生活能力はある。
だから安心できる、とはならなかった。
その横で、ヤニねこは空のキャビア瓶へ最初の灰を落としていた。
「高級にゃ」
「もう使ってる!」