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休日の昼前。
カンサイねこがコーポ大谷へ戻ってくると、二階の廊下が妙に騒がしかった。
階段を上がったところで、まず目に入ったのはヤニねこだった。隣室の扉の前へ座り込み、当然のような顔でタバコを吸っている。
「何してんの?」
「飯待ってるにゃ」
「自分の部屋、隣やろ」
「こっちから匂いするにゃ」
ヤニねこが扉の向こうへ鼻を向ける。確かに肉の焼ける匂いがしていた。ニンニクに醤油、それに少しだけ酒っぽい匂いも混じっている。
「また人ん家で飯食う気?」
「今日はまだ食ってないにゃ」
「まだ、って言うたな?」
「細かいにゃ」
ヤニねこは気にした様子もなく煙を吐いた。その少し先には、ヤクねこまで立っている。手には小さな保存容器を持っていたが、中身は空だった。
「ヤクまで何してんの?」
「ちょっと用事がありまして」
「それ何?」
ヤクねこは容器を少しだけ身体の陰へ隠した。
「調味料の容器です」
「空やん」
「なので補充を」
「誰に?」
「角子さんに」
「角子さん?」
「最近越してきた人です」
「ああ。なんか酒よう飲む人やろ?」
「料理もします」
ヤニねこがすぐに口を挟んだ。
「飯出るにゃ」
「先輩、それしか言わないですよね」
「大事にゃ」
その時、ちょうど扉が開いた。
「じゃあ私は一回戻るから」
自撮り棒を片手に、ハメねこが部屋から出てくる。カンサイねこと目が合った。
「あれ。帰ってたんだ」
「今な。何してたん?」
「配信の画角ちょっと見てただけ」
「ここ、配信者も住んどるん?」
「一応ね」
「一応って何や」
ハメねこは少し考えた。
「配信者ではあるんだけど、機材の扱いが危ない」
「どういう意味?」
「酒をスマホの横に置く」
「近いな」
「電子レンジから火花が出る」
「遠ざかったな」
「料理動画もやる」
「何の配信者なん?」
「私もまだ分かんない」
ハメねこはそれだけ言い残し、自分の部屋へ戻っていった。
残されたカンサイねこは、もう一度角子の部屋を見る。
「最近、あの部屋だけ人の出入り多ない?」
「飯出るにゃ」
「料理は悪くないです」
「配信者が住んでる」
ハメねこの声だけが、廊下の向こうから返ってきた。
説明が全部違う。
「余計分からんようなったわ」
同じアパートの住人で、最近は名前だけなら何度も聞くようになった。だったら一度くらい挨拶しておいた方がいい。半分はそれで、もう半分は普通に気になった。
「ほな、うちも挨拶しとこかな」
「飯食う?」
「まだ何も言うてへんやろ」
「人数増えたら多めに作るかもしれないにゃ」
「お前、自分の取り分増やす計算しとる?」
「してないにゃ」
している顔だった。
カンサイねこが扉を叩く。
こん、こん。
「はい」
中から落ち着いた声が返ってきた。少しして扉が開く。
現れたのは、カンサイねこより少し年上に見える猫獣人だった。部屋着ではあるが髪はそれなりに整っていて、酒臭くもない。少なくとも、片手にジョッキを持って出てくるような人ではなかった。
「あ、どうも」
「こんにちは」
角子が軽く頭を下げる。
「氷川角子です。カラカラねことも呼ばれたりしてます」
「カンサイねこや。最近越してきたんやって?」
「はい。少し前に」
「なんか、よう名前聞くようになったからな。一回挨拶しとこ思って」
「どうぞ。入りますか?」
「ええの?」
「ちょうど昼ご飯を作っていたので」
後ろでヤニねこの耳が立った。
「やったにゃ」
「お前が一番喜ぶな」
角子が身体をずらし、カンサイねこは靴を脱いで部屋へ入った。
第一印象は、思ったより普通だった。床はちゃんと見えているし、テーブルの上もそれなりに片づいている。三脚や照明も一か所へまとめられ、配信用のスマートフォンも邪魔にならない場所へ置かれていた。
「思ったより普通やな」
「昨日少し片づけました」
「へえ」
カンサイねこは部屋を見回し、そのまま少し横へ視線を動かした。
「…………」
配信画面に映らない側だけ、様子が違った。
業務用の角瓶。炭酸水の箱。大量の調味料。保存容器。使いかけの料理器具。それに、妙に古い電子レンジ。
全部、きれいに画面の外へ寄せられている。
「片づいとるようで、片づいとらんな」
「映る範囲はきれいにしました」
「部屋は画面の外にもあるで」
「そうですね」
角子は普通に頷いた。分かっていてやっているらしい。
「配信始めてから掃除するようになったん?」
「映るところは」
「限定的やなあ」
ヤクねこも部屋へ入り、持っていた空容器を角子へ差し出した。
「すみません。これ、補充お願いできますか?」
「アル中パウダーですね」
「声に出さん方がええ名前ちゃう?」
カンサイねこが容器を見る。
『アル中パウダー 獣人Ver.』
手書きだった。
「これ調味料なん?」
「そうです」
「中身なんなん?」
「からし、わさび、一味唐辛子、うま味調味料、またたびです」
「最後だけ急に猫向けやな」
「おいしいですよ」
ヤクねこが少し小さな声で言った。
「お前、だいぶハマっとるやん」
「調味料としてです」
「その容器持って来とる時点で説得力弱いで」
ヤクねこは返事をしなかった。その間に、ヤニねこは勝手に定位置へ座っている。
「今日何?」
「豚肉です」
「いっぱいある?」
「人数分は」
「ニャー二人分にゃ」
「一人分です」
「減ったにゃ」
「最初から増えてません」
「ヤニねこ、ほんまによう来るんやな」
「匂いすると来ます」
「飯の匂いは分かるにゃ」
「タバコの場所もよう見つけるしな」
「特技にゃ」
「もっと他で活かせ」
角子はキッチンへ戻った。フライパンでは豚肉と玉ねぎが焼けている。
「普通に作るんやな」
「普通ですよ」
カンサイねこが後ろから覗き込む。
角子は醤油のボトルを手に取った。計量はしない。そのままフライパンへ傾ける。
どぼどぼ。
「ちょ、入れすぎちゃう?」
「これくらいです」
「何を基準に言うとんねん」
続いて砂糖も、袋から直接。
ざっ。
「スプーン使えや!」
「洗い物が増えるので」
「そこを惜しむな!」
次は生姜のチューブだった。
にゅるるるるるる。
「長い長い長い!」
「生姜は多い方がおいしいので」
「使い切り調味料ちゃうで!」
まだ出る。
「まだいくん!?」
「もう少しです」
「その『もう少し』信用できへんわ!」
横でヤクねこが小さく頷いた。
「途中までは普通なんです」
「もう途中でも怪しいやろ」
肉へ火が通り、玉ねぎもしんなりしてきた。見た目だけなら、まだ普通だった。
角子は味を見る。
「少し足りないですね」
「何が?」
「うま味が」
角子が棚から大きな透明容器を取り出す。中には白い粉がぎっしり詰まっていた。
「……何それ」
「白い灰です」
「灰!?」
角子はふたを開け、そのまま容器を傾けた。
ざあああっ。
「待て待て待て待て!」
白い粉が、豚肉と玉ねぎの上へ大量に降りかかる。
「何してんねん!」
「仕上げです」
「料理を埋葬すな!」
フライパンの上が、うっすら白くなった。
「ほんまに灰入れたん?」
「うま味調味料ですよ」
「灰ちゃうやん!」
「見た目が白い灰っぽいので」
「紛らわしい言い方すんな!」
角子は何事もなかったように、白い粉ごと豚肉を混ぜ始める。
カンサイねこはその手元を眺め、ふと口を開いた。
「その入れ方、昔の『どっちの料理ショー』でも怒られるで」
「…………」
部屋の空気が止まった。
角子がフライパンを混ぜながら首を傾げる。
「何ですか、それ?」
ヤクねこも知らない顔をしている。ヤニねこはそもそも興味がなさそうにタバコの箱をいじっていた。
「……誰も知らん?」
「知らないにゃ」
「聞いたことないですね」
「分かりません」
三方向から返ってきた。
「…………」
今度はカンサイねこが黙る。
「……いや、昔そういう番組あってん」
「へえ」
「へえ、で終わらすなや!」
誰も笑わなかった。
もう一度、部屋の空気が冷えた。
「……もうええわ。料理続けて」
自分から折れた。
どうやら今日、一番扱いに困るものは白い粉ではなかったらしい。
角子は何事もなかったように全体を混ぜる。じゅうう、と音がして、白い粉は肉と玉ねぎへ馴染んでいった。最後に白ごまと刻んだねぎを載せる。
「完成です」
カンサイねこは皿をじっと見た。
見た目だけなら普通だった。
作っている途中を見なければ。
「……これ食えるん?」
「食べられますよ」
「それは聞いた」
材料は普通。出来上がりも、たぶん普通。
途中だけがおかしい。
角子が人数分の皿を並べる。
「いただきます」
カンサイねこは少し迷ってから一口食べた。
「…………」
甘辛い豚肉に、生姜がかなり強くきいている。ご飯にはよく合い、玉ねぎの甘さも残っていた。あれだけ入れたうま味調味料も、不思議と全体へ馴染んでいる。
もう一口。
「うまいやん」
「ありがとうございます」
角子の耳が少し立った。
カンサイねこは皿を見て、フライパンを見て、もう一度皿を見る。
「なんでうまいねん」
「料理は好きなので」
「作り方と結果がつながってへんやろ」
ヤニねこも黙々と食べている。
「うまいにゃ」
「先輩の感想は毎回それですね」
「うまいものはうまいにゃ」
「まあ、それはそうですけど」
ヤクねこも一口食べた。
「今日はまだ普通な方ですね」
「これで?」
「はい」
「怖いこと言うなや」
角子は少し嬉しそうだった。
そのまま、調味料置き場へ視線を向ける。
カンサイねこは気づかなかった。
ヤクねこだけが気づいた。
「あ」
角子が一本の瓶を取る。
ウイスキーだった。
「何するん?」
「少し香りを足そうと思って」
「どこに?」
「料理に」
「もう完成したやろ」
角子はウイスキーを持ったまま止まる。
「少しくらいなら」
カンサイねこが瓶の口を手で押さえた。
「なんで完成した後に入れんの?」
「香りが足りないかもー」
「今ので完成しとるやろ」
「酒にも合いますよ」
「酒に合わせるために酒入れるん?」
「合うと思います」
「そのまま酒飲んだらええやん」
少し沈黙。
「それもそうですね」
「納得した」
ヤクねこが横から言う。
「止めないと、本当に入れますよ」
「毎回なん?」
「割と」
「完成の概念どうなっとるん」
「まだ良くなるかもしれないので」
「良くなる時に言う台詞や、それ」
角子はウイスキーを元の場所へ戻した。
今日は料理が守られた。
ヤニねこが自分の皿を差し出す。
「ニャーのだけ入れてもいいにゃ」
「なんでお前が犠牲になりに行くん」
「酒増えるにゃ」
「料理として考えろ」
「うまければいいにゃ」
「似た者同士やな」
角子とヤニねこが同時に首を傾げた。
「そうですか?」
「どこがにゃ?」
「そういうとこや」
食事はそのまま進み、ヤニねこが一番早く食べ終えた。
「おかわり」
「ありません」
「まだ肉あるにゃ」
「明日の分です」
「明日また来るにゃ」
「明日は出しませんよ」
「なんでにゃ?」
「毎日は作りません」
「冷たいにゃ」
「ちゃんと断るんやな」
「毎回出していたら食費が足りないので」
「そらそうや」
「前は三百円払わせたにゃ」
「払ったん?」
「まだにゃ」
「払ってへんやん」
「請求はしています」
「妹ちゃんにも払うよう言われたにゃ」
「妹にまで言われとるやん」
ヤニねこは聞こえないふりをして、タバコへ火をつけようとした。
「ここでは換気扇の下でお願いします」
「今吸いたいにゃ」
「三歩くらいですよ」
「遠いにゃ」
「歩け」
カンサイねこに言われ、ヤニねこは渋々立ち上がった。
「厳しいにゃ……」
「普通や」
昼食が終わる頃、角子は食器をまとめると、今度はステンレスジョッキを取り出した。
氷が入る。
カラカラ。
続いてウイスキー。
とくとくとく。
カンサイねこは黙って見ていた。
まだ入る。
「……なあ」
「はい?」
「それ、だいぶ濃ない?」
「普通かもー」
「普通の基準が酒に沈んどるな」
角子は炭酸水をほんの少しだけ足した。
しゅわ。
見た目はハイボール。
中身は、かなり酒寄りだった。
「昼やで?」
「休日なので」
「休日でも昼は昼や」
「時間は合っていますね」
「そういう確認ちゃうねん」
角子は一口飲む。
「ぷはー」
「幸せそうやなあ」
「おいしいです」
そこへ、換気扇の下から戻ってきたヤニねこが自分のグラスを差し出した。
「ニャーももう一杯にゃ」
「今日は駄目です」
「一杯だけにゃ」
「前もその一杯が増えました」
「今日は増えないにゃ」
「駄目です」
「ケチにゃ」
角子はあっさり断った。
「へえ。ヤニねこ相手にはちゃんと止めるんやな」
「飲みすぎると帰れなくなるので」
「こいつ隣やけどな」
「隣でも帰れなくなる時があります」
「あるにゃ」
「威張るな」
飯は毎回ただではない。酒も無制限に出さない。タバコも渡していないらしい。
少なくとも、ヤニねこを際限なく甘やかしているわけではない。その点は思っていたよりまともだった。
「まあ、最低限の線は引けるんやな」
「そうですか?」
「こいつにもう一杯って言われて断れるだけでも、だいぶ偉いで」
「ニャー子供じゃないにゃ」
「子供の方がまだ言うこと聞く時あるやろ」
「ひどいにゃ」
その横で、角子が自分のウイスキー瓶を持ち上げた。
ジョッキへ追加する。
とくとく。
カンサイねこの動きが止まる。
「……ちょい待ち」
「どうしました?」
「今、足した?」
「はい」
「さっきのでも濃かったやろ」
「少し薄くなったので」
「何で?」
「氷が溶けたので」
「薄くなった分を戻すな」
「味が変わるので」
「変わってええねん。水や」
ヤクねこが小さく頷いた。
「角子さん、自分の分には甘いんですよ」
「他人には止められるんやな」
「自分の分なので」
「そこも止めなあかんのちゃう?」
「今日は休みですよ」
「休みは肝臓も無敵になるん?」
「そこまでは」
「ほな薄め」
カンサイねこが炭酸水を指差す。
角子は少し考え、ほんの少しだけ足した。
しゅっ。
「少なっ」
「薄くなりました」
「誤差や!」
ヤニねこが笑う。
「カンサイねこ、大家みたいにゃ」
「誰が大家や」
「妹ちゃんも同じこと言ってたにゃ」
「常識あるやつ全員、同じこと言うんちゃう?」
ヤニねこは少し考えた。
「じゃあニャーがおかしいみたいにゃ」
「今気づいたん?」
「違うにゃ」
「何が違うねん」
角子は、薄くなったのかどうか分からないハイボールをもう一口飲んだ。
カラカラ。
その様子を眺めながら、カンサイねこはようやく角子という人物が分かってきた気がした。
料理はできる。話も普通に通じるし、注意すれば聞くこともある。ヤニねこへ最低限の線引きもできているし、会社員として働いているという話も、たぶん嘘ではない。
ただ、料理は作っているところを見ない方がいい。そして、自分のことになると急に基準が緩くなる。
酒に、部屋に、古い家電。妙な調味料もそうだ。本人に悪気はなく、自分ではそこまで問題だとも思っていないらしい。
「角子さん」
「はい」
「一個だけ分かったわ」
「何でしょう?」
「ヤニねこの世話せなあかん人かと思ったけど、あんたも割と見張られる側やな」
角子は少し考えた。
「そうですかね?」
「そうだと思います」
ヤクねこが頷く。
「カラカラねこ危ないにゃ」
ヤニねこまで頷いた。
「お前が言うな」
角子はジョッキを持ったまま、少し笑う。
「まあ、大丈夫かもー」
「その『大丈夫』が一番怪しいねん」
カンサイねこはため息をついた。
それでも、来る前よりは角子という人物が分かった気がする。
変な住人ではある。ただ、話の通じない相手ではない。料理もうまいし、困った時にはたぶん頼れる。
作っているところを見なければ。
酒が入っていなければ。
「まあ、また今度来るわ」
「はい。ご飯が余っていたら出しますよ」
「そこは普通に嬉しいな」
「ニャーも来るにゃ」
「お前はもう来とるやろ」
「明日もにゃ」
「明日は出しません」
「なんでにゃー」
カンサイねこは笑いながら立ち上がった。
部屋を出る直前、後ろから氷の音がした。
カラカラ。
嫌な予感がして振り返る。
角子が、またウイスキーの瓶を持っていた。
「まだ足すん?」
「少しだけです」
「さっき炭酸入れた意味なくなるやろ!」
結局、初対面の最後まで酒の話だった。
カンサイねこから見た氷川角子の評価は、料理と受け答えは思ったよりまとも。ヤニねこへも、最低限の線は引ける。
ただし。
料理の作り方と、自分の酒量へ線を引く役だけは、まだ必要そうだった。